第17話 傷が触れあわせる

 例えば『秋の韻律リズム』。ニューヨークはメトロポリタン美術館に所蔵されている。縦が約二メートル六七センチ、横が約五メートル二十六センチ、まさに見上げるような巨大さの大作だ。


 画面いっぱいに広がる茶と黒、そしてその中間色の色の波は、くすんだ晩秋の藪を思わせる。頽廃色たいはいしょく氾濫はんらんは、そこはかとないタナトスの気配を含んでいる。ポジティブな感情とは、言い難い。しかしうちに籠もらず、冷えて死にもせず、これらの感情は、出口を探し求めて僕の中を暴れ傷つけるものだ。


 そう思うとこの作品が、実に巨大なものである理由が分かる気がする。なぜならこの気持ちはたぶん、僕の身体一個では本当は小さすぎて収まりきらないもののように感じるからだ。


 思わず僕は、拳に残る引きりと痛みを確かめた。理由はどうあれ、僕は親友を殴ったのだ。後悔しているわけじゃないが、他に解決方法があったなら、誰かに教えて欲しいと今でも思う。もしあのとき湧き上がった感情を理解し、分類して、納得して、理性のうちに留めることが出来たなら。今僕は、こんな気持ちのただ中にさいなまれていないだろう。


(どうしたら良かったんだ)


 静花が言ったことに、僕は納得したわけでもない。いざ静花と会ってみて、自分の生の感情をぶつける相手を間違えたんだ、と悟っただけだった。ただただ、虚しくなって帰ってきただけなのだ。


 だから僕たちの間に何かとてもスマートな解決方法があったとして、僕はあのとき、誰の言うことも聞かなかったろう。そんなものは、求められていない。あったとしてもそれはずっと後にすべきことだ。


 なぜならどんな強固な理屈も、この圧倒的な負の感情の情報量を前にしたら、無意味だ。僕の中にあるそれは、ただそれと名付ける間も、理解する間もなく、ただただ、表へ炸裂することを求めていた。


 もちろんどうあれ僕は暴力をふるった。僕は、そんな自分自身を正当化するつもりはない。だが分かって欲しかった。どこか、世界の片隅で、見知らぬ誰かにでも。たぶんこの作品もそうやって描かれたのかも知れない。

 なぜならそれは、誰もが持ちえるもののはずだから。

 望むと望まれるのに係わらず、誰かの中に必ず存在し、自然と生まれ出てくる感情。


 気がつくと、すすり泣く気配がした。スクリーンのほの明かりの中で、亜里沙の肩が震えているのだ。彼女にも『在る』。まだ、外の世界へ出ようともがいている、名付けようのない感情が。

 僕は後ろからそっとその肩を抱いた。亜里沙は、はっと息を呑んだ。

「やっ…」

 急で怖かったのか強く身を固くしたが、その後それから突然乱暴に、その身体を任せてきた。

「芦田さん…」

 震え続ける吐息の深さを、僕は聞いた。誰もいない薄闇の中だったからだろう。陽の当たる外の世界には決して出て来れない、亜里沙がそこにいた。その亜里沙は名前のないまま、どこへも出て行けずにこの薄闇の中をさまよっていたのだろう。そしてそこで、ようやく僕を見つけた。この強く主張してくる身体の重みは、今それを訴えているのだろう。


(大丈夫だ)


 僕は彼女の望むまま、しばらくじっとしていようと想った。それは迷い子のような彼女の華奢な身体がいつまでも震えていたから。胸の下辺りを湿らす吐息がずっと、熱かったから。お互い、やっと見つかったのだ。

 僕たちの間ではもう、その感情の形に名前を付ける必要なんてない。


「チカンかと思ったじゃないですか!?蹴りますよ、大事な部分を」

 明るい陽の下へ戻ると、亜里沙はまた元の亜里沙になっていた。泣いたらすっきりしたのか、うっとうしいことこの上ない。

「教養もいいけど、品性も大事にしろよ」

「暗がりで若い女にいきなり抱きつく、芦田さんに言われたくないですねえ」

「いや、それはお前が」

 と、言ってから僕は言葉に詰まった。売り言葉に買い言葉で口に出してみたものの、言わなかった方がいいんじゃないかと思ってしまったからだ。案の定そこに、不自然な沈黙が出来て、僕と亜里沙は顔を見合わせた。

「なんですか?」

「…何でもないよ。て言うかお前、人の目があるんだから、あんまり大っぴらに変なこと言うなよな」

「はあい」

 こいつにしては聞き分けよく言うと、また腕を取ろうと身体を寄せてくる。

「なんだよ、もういいだろ」

「良かあないですよ。デートにカウントしてるって言ったじゃないですか。だから、許してあげるわけです。チカンじゃなく、彼氏としてならさっきの行動は容認できます」

「あっそ」

「芦田さんもやっと、デートしてる気になってきたでしょ?」

「へいへい」

 それこそ、勝手にすりゃあいい。何か思い出して泣いてた癖に。ちょっと気を許すとこいつはなんで、小憎らしい方へ走るんだろう。

「じゃあ、あとはテラスでコーヒー飲みましょうか!デートと言えば、甘いものですよねえ!それでここは、しめましょうか」

 しめるって、何だか飲み会みたいな話になってきた。

「まずはケーキセットが良さそうです。違う種類のとって半分こしましょうよ」

「まずはってなんだよ、まずは、って。僕はコーヒーだけでいいよ」

「じゃあ、芦田さんのケーキあたし食べますから。それに、プリンアラモード追加で手を打ちましょう!」

「さっきカレー食べただろ。食べられるか、んな重たいもん」

「食べられますってば!甘いもん食べないデートなんてデートじゃないです」

「焼肉食べるカップルもいるぞ?」

「それは、精力つけたいときだからですよ。大体あるでしょ、焼肉屋にも甘いもの…」

 僕たちがそんなムード満点の会話を楽しみつつ、ロビー近くにあるカフェテラスに差し掛かったときだ。亜里沙が右回れしたかと思うと、ふいに抱きついてきたのだ。

「おっ、おいっ…」

 冗談とは思えない強い力だった。僕が、ちょっとよろけそうになるくらいだ。亜里沙の真意が分からず、僕は戸惑うばかりだった。

「そのまま壁の方に」

「なんだよ…」

 亜里沙は有無を言わせなかった。ずりずりと寄り切られる形で僕は、後ずさった。そのまま吹き抜けの階段下の人目につかない場所へ移動させられたのだ。

「…顔を、隠してください。あたしの顔」

「分かったよ」

 まるでスパイ映画だ。言われるままに僕は腕を回してその頭を抱えると、亜里沙は僕の胸に顔を埋めた。一体なんだってんだ。

「通りますよ。絶対、見つからないように」

「は?」

 確かに誰かがロビーから入って来る。昼下がりに珍しい、独りの客だ。たぶん、男だと思う。こつこつと、どこかせわしない靴音が通り過ぎていくのが、背中越しに分かった。

「今のは…?」

 条件反射で振り返ろうとした僕を、亜里沙は首に抱きついて押し留めた。

「彼氏です」

 短く押し殺した声で、僕に耳打ちしたのはそのときだった。







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