第16話 ポロックが魅せる何か
客はほとんど、僕たち二人だけだ。外の雨の音すらしない。コツコツ、と僕たちの靴音が大理石の床に響く音が遠くまでしている。
はるか奥の学芸員が、こちらを振り向くほどだ。空いている美術館に来るたび思うが、余計なものがない、ってこんなに日常と違うものか。
ホテルのロビーとも、ショールームとも違う。
まず壁は打ちっぱなしのコンクリートで、天井は階層があれば二階まで吹き抜けほどの高さになっている。
白地に黒の大判で、展示会のテーマが語られており、英文の原文の横でさっきの頑固おやじが睨みつけていた。
ペンキの缶のようなものに、
さっきはぎょっとしたが、このポロックと言う男は怒りで目を剥いているわけではなく、要は何かを見極めようと、やぶにらみをしている風貌なのだ。
「世界大恐慌の一九三〇年代、アメリカに生まれたポロックは放浪者の息子だった」
解説文には、そのように書かれている。
中西部のワイオミング州に生まれ、夢見がちな父親に付き合わされるようにして西部を放浪した。定住生活に馴染めないポロックは、体育教師を馬鹿にして放校され、ロサンゼルスのマニュアル・アーツ・ハイスクールに通い、画家を志す。
しかしその絵は、実の兄によると、
「あいつはテニス選手か配管工になるべきだ」
と言われるほどに、ひどかったそうな。
ふーん。よくそんな人が、アメリカ現代美術を代表する人物にまでなったものだ、と感心していると、
「なーに、真剣に読んじゃってるんですか?」
亜里沙が脇で小あくびをしながら、混ぜっ返してくる。いや、お前も読めよ、美大生。
「アートですよ、アート。世界史のテストとは違います。何と一緒かと問われれば、カンフーと同じなんですよ。考えるな、感じるんです!」
「ずっと気になってるんだけどお前、本当に二十代なの?」
「どこから見てもそうでしょう!?」
亜里沙は僕から離れると、黙ってハイキックの形をとってみせた。うん、足とかすっごく上がるの分かるけど、それとこれとは関係ないよね。
「空いてて良かったですねえ。こう言うのはやっぱり、静かに見るのが一番ですよ!」
どの口が言うんだ、と思ったが、僕は言い返さずにいた。亜里沙のうるさいのに構っていると、余計に集中できないからだ。
元々、デートに連れて来させられてもアートにはからっきし興味が出なかったけど、このポロックと言う不思議な人物の風変わりな人生にだけは、まあ面白いとは思う。
画家に見えない、不器用に過ぎる男。そんな男がなぜ、画家になったのだ、と問われれば最初は、食べるためだったに過ぎない。
大恐慌の最中、ニューディール政策が実施されていた当時のアメリカでは、画家にもWPA(雇用促進局)から定時の仕事と、一定のサラリーが与えられたからだった。
しかしポロックは、それを拒否する。アメリカの雇用促進局は確かに、芸術家に日々の
定時出社とノルマを義務づけられた芸術家たちは、代わりに創造的表現力を奪われた。何より堪えがたかったのは、出来上がった作品にサインを入れることを禁止されたことだ。
ポロックはWPAの仕事を拒否し、自然への回帰を
『自らの表現の不自然さに疑問を持ったポロックは苦悩し、
何かと思ったら、館内放送だ。ちょうどそこの薄暗いブースで、記録映画を上映している。ポロックの制作風景が解説付きでここで、上映されているらしい。
暗がりの中はがらんとしていて、一見誰もいないように見えた。
僕は入ってみて、声を漏らしそうになった。そこに亜里沙がぽつん、と立っていたからだ。僕には気がついていないらしい。かすかに瞳の白目の部分が潤んでいる。僕は何も声をかけずに後ろの席に座ることにした。元々は彼女が見たいと言うから、ここへ来たのだ。
それにしても、あの亜里沙があんなに真剣になるなんて。
そう考えてみると、このポロックと言う画家、ある意味では偉大なのかも知れない。
『ポロックの制作技法は、ドリッピングと言われる特殊なものでした』
それはカンバスに直接絵の具を滴らせて行う、まさに前代未聞の描き方だった。何が前代未聞と言って、ポロックは絵を『描かなかった』のだから素人の僕でもびっくりする。
コーヒーのドリップ、と言う言葉からも分かるが、たっぷりと絵具バケツにつけた刷毛の筆先から、ポロックは絵の具をだらだら垂らして、作品を制作したのである。そのためになんと土足で、作品の上をずかずかと歩き回ったと言う。
ポロックの制作現場は、まるで塗装屋の仕事現場を見るみたいだった。事実、ポロック自身も画家らしい画材すらも用いなかったらしい。
バケツに入っているのは絵の具ではなく、エナメル塗料や工業用のペンキのこともあった。それどころかときに筆や刷毛ではなく、ボタンやマッチ、釘などが制作に用いられることもあったそうな。
「これは果たして絵画なのか…?」
出来上がった作品は当然、疑惑と困惑の目をもって迎えられる。恐ろしいのはポロック自身もこれを絵画だとは、断言できないと言うことだった。
しかし美術と言うのは恐ろしい。それでも価値が出てしまえば、ギャラリーに飾るべきアートなのだ。
画家に向かない、と周囲の人から言われて育ち、やむなく美術館の守衛をして細々絵を描いていた男が、三十八歳のときにはMOMA(NY近代美術館)から買い取りが来るほどの人気画家になったのだ。
『ポロックの斬新な制作姿勢が打ち立てたのは、
画面上のポロックは、せわしなく動き回っている。これがアクション・ペインティングと言うやつだろう。
立ったまま床に突っ伏すような形をとったポロックは、口に煙草を加えながら、手にした刷毛から絵の具を滴らせて回っていた。
確かにその姿は僕が知る一般的な絵を描く人間の姿からかけ離れていた。まるで植木に水やりをする庭師だ。バケツに浸した刷毛を象の鼻のようにぶらぶらさせたポロックは、キャンバスにそれを置こうともしない。
やがてそこに見る見るうちに、絵の具が溜まっていく。だらだらとこぼれ、ほとばしった絵の具の溜まりは当然ながらキャンバスをはみ出して床を汚し、惨状を呈していく。
(こんなもの絵じゃない)
観るほどに反感が、僕の中に浮かび上がってくるのが分かる。しかしその終わりに、完成した作品を観て、僕は唖然としてしまった。
『絵画』ではないが、そこには確かに、何かが存在する。亜里沙が言った支離滅裂の表現が、あながち間違いではないと言うのが、おぼろげながら分かった。ポロックが滴らせた『炸裂』は、今の僕の内側にも、必ず『在る』何者かだ。
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