第15話 ポロックの魔性
もらったフライヤーに載った住所をスマホで検索してみると、その美術館はそれほど遠くなかった。駐車場に戻ると、僕はナビにそこの電話番号を入力した。外出のしめくくりには確かに、ちょうどいい距離だった。
亜里沙は、スマホで展覧会のHPを検索していた。ほくほく顔である。偶然とは言え、好きな画家が近くで展覧会をやっていたのだから当然だが、お肉以外でこいつがこんなに嬉しそうな顔をするのは、新鮮ではあった。
「観て下さいこれがポロックです!」
亜里沙は、僕のよく知らないその画家の写真を見せてくる。
予備知識のまったくない僕には、なんの感慨もないが、一見して僕の持っている画家と言うイメージからは程遠かった。
ジャクソン・ポロックは、黒シャツにジーンズをラフに着こなし、頭がすっかり薄くなったあごの丈夫な中年男だ。どんな職が合うのか、と聞かれれば、自動車エンジニアだと言われた方がしっくりくる。こんな人が一体、どんな絵を描くと言うのだろう。
「渋いじゃないですか。頑固一徹のラーメン屋さんみたいな感じで」
「僕は、どんな絵を描くんだ、って言ったんだぞ?」
質問と答えが噛み合ってない。ラーメン屋さんならラーメン屋さんで、別に僕はいいのだれども。
「ポロックはですねえ、こうわしゃああー!って感じなんです。分かります?お酒飲んで忘れたい、でも、何を忘れたかったのか忘れちゃった!みたいな形のないやる瀬なさって言うか」
「全然分からん」
忘れちゃったなら、それでいいじゃないか。そこに跡なんて、残るはずもない。
「でも、残りますよ。…出し尽くしちゃったとしても、気持ちの跡だけは」
亜里沙は、ぽつん、と冷えた声で言った。やめろよな、たまに本当に心の痛みを、予告もなしにストレートで訴えてくるの。
「…芦田さんがあたしの話最後まで聞かないで、ぐっすり寝ちゃったときのこととかですねえ」
「まだ言うか」
そして混ぜっ返してくる。こいつこそ、カオスである。
「帰るぞ。…これ以上、馬鹿なこと言ってると」
僕は言い返したが、亜里沙は聞かなかったふりでそっぽ向いてやがる。
「見えて来ましたよ」
ちょうど千光稲荷を抜けて、緩い山道の坂を登りかけたところにそれはあった。さっきとは打って変わって、大きな建物と広大な敷地の美術館だ。旧百貨店系の企業が持っている一般財団で、地元では有名な美術館だ。僕も名前くらいは知っていた。
外周を流して行くと確かにポロック展の案内は、草むらの土手の中に大きな看板で掲げられていた。
(何だろう、あれは)
立て看板には、そのポロックらしき絵のプリントが載っている。駐車場を探して車で通り過ぎるとき、思わずぎょっとした。一見して僕がイメージする難解な現代アートの感じなのだが、それ以上に何か鬼気迫るものを、プリントからでも感じたからだった。
そこにあったのは、なんの形とも形容できない、ただの絵の具の炸裂に過ぎなかった。そこには秩序も脈絡もない。だが違う。不思議と目を惹きつけられるのは、一体、なんのせいだ?
「あの、芦田さん、前、見ないと」
「あっ」
僕は出ていく車と擦りそうになり、あわててブレーキを踏んだ。注意していたつもりがなんと一瞬、目を奪われてしまったのだ。
「ぼーっとしないで下さいよ」
分かってる。だが今、一瞬、目を奪われてしまったのはどうしてなんだろう。
(こんなの絵じゃない)
そう否定してしまいたいほどに、看板にプリントされた絵は、支離滅裂だった。でも僕は確かにあの瞬間、プリントされたに過ぎないその絵に、目を奪われていた。
(どういうことだ…?)
僕など美術館は、行きたいと言う人がいればついていく、付き合い程度の関心だ。
ピカソだのカンディンスキーだの、観てよく判らない抽象画は、画家の名前だけで本来はお腹いっぱいなのだ。それが今の立て看板の絵の何が、僕の意識をそちらへ奪い去ったと言うのだろう。
亜里沙などは、僕が少しでも関心を持ったと言うので、鬼の首でも取ったようだ。
「ふふふ、ふふふふふ。無学な芦田さんでも、本物くらいは分かるんですねえ」
「誰が無学だ」
亜里沙は自分を指差して、威張った。
「大学生」
「専門卒だよ。それが何か?」
こちとら正社員だぞ。時給バイトくらいしか社会経験なくて固定給もらってないやつに、威張られる筋合いなんか、あるもんか。
「ありがたーい亜里沙ちゃんとポロックに、お布施を。一万円札が望ましいです。ありがたーいチケットを、あたしが買ってきますから」
「一枚いくらだ?」
僕はチケット代を見て、小銭まできっかり二人分、亜里沙に払ってやった。亜里沙は、そこのグッズコーナーで絵葉書だか画集だか勝手に買う腹積もりだったんだろうが、余計な釣りなんか一円たりとも出すもんか。
「せっこいなあ。消費税のケタまでぴったり小銭数えて出す男の人って、細かすぎて女の人に嫌われる、って聞いたことないですか?」
「つい最近知り合った男にたかることばかり考えていて、いつまでも東京に帰らない女も嫌われるって、聞いたことは?」
そもそも、無一文でもない癖に。体質の悪い奴だ。
「いーいじゃないですかあ。今度、行くときはあたしが出しますよう」
「お前、正直に言ってみん?絶対、その場の思い付きで話してるだろ?」
「違いますよ」
吐き出すように言うと亜里沙は、無造作に僕の左腕をとって寄り添った。
「別々で払って芦田さんとそれっきり、ってなるのがやだから、言ってるんです」
僕は返す言葉に詰まった。答えに窮する質問だった。
「貸し借りなくたって、別に普通にまた会えばいいじゃないか」
「そんなの、いつか分からないじゃないですか」
亜里沙は面白くなさそうに言うと、そっぽ向いた。
「いいから、連れてってください。芦田さんがどう思おうとこれもちゃんと、デートにカウントしてるんですからね」
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