第14話 亜里沙の好きな画家

 極辛カレーで毒を出した後は、旧軽井沢銀座通りを散策である。ここは中山道の宿場町の名残だと言うが、酒蔵や旅館があるわけではない。食べ歩きのお店や洋服小物雑貨、小型のギャラリーまで新旧さまざまなお店が軒を並べる、軽井沢の中心地と言っていい。


 あれほど眠いだるい家でごろ寝したいを繰り返していた亜里沙だが、ここへ来て羽根が生えたみたいだ。


「芦田さんっ、何をもたもたしてるんですか、こっちですよっ!」


 あっ、気が付くともう、何十メートルも先に。

 人波を掻き分けていくと、そこは一階がカフェスペースになっている、小さなギャラリーだ。ケーキとコーヒー代に五百円プラスするだけで、二階のギャラリーが出入り自由になるらしい。


「芦田さん、二人分です!」

 堂々とまあ、よくそんな恥ずかしげもなく、たかれるものだ。注文もそこそこに、亜里沙に袖を引かれて僕は二階へ上がった。


 小ぢんまりとしたフロアには、意外に大判のイラストがぐるりと展示してあった。霧の森の中のエルフの家とか、断崖にそびえるドラゴンの巣とか、長編ファンタジー映画に登場しそうな幻想的な作風である。画家さんは女性のようだ。


畔霧沙綾展くろきりさあやてん』。


 聞いたことはないが、割りと有名らしい。都内で巡回展もやっているそうな。


「現代アートじゃなくて良かったのか?」

 僕は言った。現代の作家さんだけど、一応これは具象画の範囲内に入ると思う。

「現代アートは別腹ですよ。これはほら、出会いのものですから」

 この上、まだたかる気か、絵を見ながら亜里沙は言った。

「知ってる画家なのか?」

「いえ、全然。結構好きなタッチではありますけど、ぴんとこないですね。まずこう言うの、あたしのキャラだと思います?」

 だったら入るなよ、と思ったが、美大生らしく絵は真剣に見る。

「ほら、あたし現代舞踏やってるって話したじゃないですか。イメージって言うか、こう…入ってきやすいんですよ。はっきりしたイメージがない方が、って言うか」

 と言いつつくるくると、亜里沙は身体を動かす。よくまあこんな狭い場所で、と思ったが、言うだけあってその動きはしなやかでいて果てなく淀みない。

「分かったよ、迷惑だからやめろよ。…(小声)他の人も見てるだろ?」


 いつまで経っても終わりそうにないので、僕はあわててとめた。亜里沙は慣れているんだろうけど、チラ見されながら素通りされるのって、こそばゆいったらない。


 そう思っていると、ギャラリーの中心の長椅子に座っていた女の子がじっとこっちを見ていた。


 亜里沙より、ちょっとゆるふわなショートカットで、茄子色のフレーム眼鏡をかけたあどけない顔立ちの女の子だ。


 興味本位の人が通りすがっていく中で、彼女だけは淡々と手持ちのスケッチブックと亜里沙、交互に目を走らせながら、もの凄いスピードでクロッキーの鉛筆を走らせていく。


 それが僕の視線に気づくと、びっくりしたように顔を伏せてから、思い切った調子で話しかけてきた。


「あっ…あの!つい、面白かったので。ごめんなさい。…踊ってても大丈夫です。この時間うち、お客さん、あんまりいないから…」

「え?今、なんて…?」


 後半、すっごく聞き取りづらい。人見知りなのに、かなり思い切って声をかけたのだろう。気のせいじゃなきゃ今、『うち』って聞こえた気が。


「…わたしの、展覧会なんです。…ごめっ…なさい現代アートじゃなくて!」

「いや本当っ、そんなことないですから!」

「わっ、まさか本人!?」


 僕と亜里沙が個展の名前が載ったプレートを振り返ると、沙綾さんは恥ずかしそうに、こくこくと頷いた。


 うわああっ、なんてことを言ってしまったんだ。まさか描いた本人がこんなところにいるなんて。


「ぴんと来ないなんて言ってないですよ、芦田さんは全然」

「お前だろ、言ったの」

 ったく、必ず何かやらかす奴である。沙綾さんはくすくす笑っていた。

「…なにかやられて…るんですね。身体の線が…綺麗、だと思いました」

 と、言うと沙綾さんは亜里沙をスケッチしたものを見せてくれた。


 ちらりとそれを見たとき、僕は人知れず息を呑んだ。それはラフスケッチなのに、すでに異様な迫力のある『作品』だったからだ。


「うわ…これ、あたしですか…?」

 ぴんと来ないとか言ってた亜里沙も、思わず見入っている。


 クロッキー鉛筆で描き出された亜里沙の細身の身体の線が、的確に描きこまれているのは僕の見た通りだが、そこに言葉で表現しにくい、不思議な動感があるのだ。


 ラフと言えば、本当にラフなスケッチである。手や足の先など、流れる動きを重視してか、効果線のようなものをつけて描き流されている。このように断片だけ見ると、あらが目立ちそうにも感じるものが、少し引いて全体を見ると、これ以上ないと言う完成されたバランスとして成立して感じるのだ。


 色を入れてさえないのにこの絵はすでに、何度も見て何かを確かめざるを得ない不思議な引力を備えていた。


「…亜里沙さん、ポロックみたい」


 沙綾さんがその画家の名前を口にしたのは、そのときだ。


「ジャクソン・ポロック!?もしかして、知ってるんですか?」

 亜里沙は、沙綾さんに異常な喰いつきを見せた。

「はい、わたしも…アメリカ現代美術、好きなので」

 僕には置いてけぼりの話だ。

「すっごいですよねポロック!ウォーホールとも、キース・へリングとも、違いますよね!?なんて言うかこう、アヴァンギャルドだけどスピリチュアルって言うか!」

「こら、初対面の人に」

 僕は思わず話を遮った。


 そもそも、誰なんだそれは。僕なんか聞いてて、一文字たりとも理解できない。が、沙綾さんは専門分野の人だ。何かが通じたらしく、にっこりと笑った。


「はい。スピリチュアルと言うか…気持ちの深いところに来ます。さっきお話してた何か、入ってくる感じ…分かります。…言葉にならない気持ち、みたいな」

「はいっ、そうなんです!めっちゃ好きなんです!」

 亜里沙は力いっぱい、頷いた。


 全然違う感じの人だが、亜里沙と沙綾さんは一気に意気投合したらしい。人の相性って分からないもんだ。


 お茶とケーキの後、沙綾さんは美術館の案内までしてくれた。


「デート…楽しいですよね。…軽井沢、美術館たくさんあるから」

 あっ、と沙綾さんが、気づいたように言ったのはそのときだ。

「ポロック…来てますよ。旧軽銀座からは出ます…けど」

 フライヤーを沙綾さんは渡してくれた。ひと目観て、僕はしばし、硬直した。

(なんだこれ…?)

 沙綾さんの絵を見た時と同じ種類の、それよりも強い印象がそこからは染み出ていた。

「すぐ近くじゃないですか!車で行きましょうよ、芦田さん!あたし、ガイドしますから」

 亜里沙はそれを引っ手繰った。

「お、おお」

 その先に待ち受けているものも知らず、僕は思わず返事をしてしまった。

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