第12話 気まずいはずの朝

 いつの間にか深い眠りの中に、引きこまれていた。甘ったるい酒臭さの中で目覚めると、亜里沙の小さな頭が隣に乗っかっているのを感じた。泣きつかれたのかそのまま、眠ってしまったみたいだ。


 嵐はいつの間にか去って行ったが、窓の外は、青空とまではいかないようだ。亜里沙の寝息は静かで、どこまでも深かった。本当に死んだみたいだ。寝入ったのがいつだか、分からないほど話したけど、あれは何時頃のことだったんだっけ。


 そこはかとなく忍び寄ってきた冷気に身をこごめながら、僕は立ち上がった。極力、亜里沙を起こさないように、朝ごはんの用意をしようと思ったのだ。


 亜里沙のため、と言うよりは、自分のためだ。余計な理屈抜きで、ただただ熱い味噌汁が、飲みたかった。


パックの豆腐を取り出して、さいの目に切り、太めの葱をやや分厚く切った。青いところも白いところも、なるべく沢山。濃い目に仕立てる気で、煮立った鍋に大雑把に信州味噌を加えた。


 死のような、と言うよりは、何かが立ち去った後のような静寂だった。激しい嵐は、僕と亜里沙の間を容赦なく、くぐり抜けていった。そしてそこから大事なものをみな、奪い去ってしまったかのようだった。


 鍋の中で味噌がほとびてくる。塩辛く角の立った生味噌の匂いが、香しいまろみを帯びて、優しくなっていく。強いアルコールで鉛を呑んだみたいだった胃が、ゆっくり動いてきた。


 すると同じ気持ちになったのか、ゾンビみたいに亜里沙が立って、その僕に寄り添って来た。

「豆腐と葱だぞ?」

「…最強タッグじゃないですか」

 昨晩、触れた涙は幻だったかのように、普通の話し方に戻っている。亜里沙の顔を僕は見た。僕と同じで二日酔いまではいってないけど、お腹は限りなく重たい。そんな感じだった。

「あの、昨夜は…」

「いいよ」

 さえぎるように僕は答えた。気にしないで、と、謝らなくて、の意味だった。僕も普通の精神状態じゃなかったし、亜里沙もそれに付き合っているうちに、つい飲みすぎてしまったんだと思う。そう思うことにするのが、とりあえず大人同士の解決法だ。


 もちろんそっくり、忘れているわけじゃない。亜里沙があんな雨の真夜中、一人で歩いていた理由は、昨夜でほとんど分かった。とても気の毒な話だし、亜里沙の気持ちも痛いほど分かる。だがそれでもあえて、これ以上こちらから触れないように、しかもそれを気取らせないようにするのは、最低限のマナーだ。


「良くないですよ」

 しかし亜里沙の方は、大人の解決法を好まないらしい。

「昨夜、先に寝たでしょう。あたしの話を途中で流して。先に寝落ちしましたね!?」

「ばか、何言ってんだ。先に寝るわけないだろ?あんな話聞かされて!」

 言ってしまった。背中を押された感はあるけど、自ら踏み込んでしまった。地雷原に。

「あんな話ってどんな話ですか!わたしまだ、彼の話まで全っ然入ってなかったんですよ!?」

「待ってたよ。その、彼ってやつのこと、まだ、話し足りないんだろうな、って思ってたから」

 僕は亜里沙が泣き止んで、次に口を開くのを待った。しかし泣きつかれてしまったので、眠ってしまったのだと思ったのだ。

「寝てませんよ」

 この野郎。まだ言うか。

「寝てたよ」

「寝てません。断じて芦田さんが先に寝たんですう」

「いやお前が寝てた。絶対先に寝てた。だから、僕も諦めて寝たんだ!」

「ぶー…強情だなあ」

 と、亜里沙は、提灯ふぐみたいにほっぺを膨らませた。そんなことしても、かわいくはならないからな。

「いいだろ。…別に。今日もいるんだろうから」

 僕は、湧く前に火を止めると味噌汁をお椀によそって、差し出した。あ、どうも、とか言って亜里沙は、両手に持ったお椀をふーふーしながら飲んだ。

「はー、美味しいです…芦田さんをお嫁さんにしたい」

「あーそうかいそれは光栄だ」

 僕がキレずにスルーしたので、亜里沙は怪訝そうな顔をした。

「え…あれっ、なんか今日ちょっと違いません、芦田さん?」

「何が?」

 と言いながら僕は、ボウルに卵を溶きだした。

「だって昨日までは、あれ食ったら帰れだの、これ飲んだら帰れだの、うるさかったのに…」

「東京へ、帰りたくないんだろ?」

 僕はサラダ油をひいたフライパンの方を見ながら、さりげなく核心を衝いた。

「話は分かったよ。特殊な事情でここにいる、ってことは。…別に僕も、いてもらっちゃ困る事情とか全然ないし。いたかったら、いれば?」

「えええっ!いいんですか、本当に!?」

 亜里沙の声が、ぱっ、と明るくなった。

「いいよ。明日から僕、仕事でいないから、軽く掃除くらいしてくれれば」

 ちらりと横目で見ると、亜里沙は瞳を潤ませて、抱きつこうとしてきた。

「結婚しましょう芦田さん!」

「調子乗んな」

 勢いよく突っ込むと、亜里沙はそう、それそれ!と言うように、嬉しそうに笑った。いつの間にか、ボケと突っ込みの分担になっている。


(まあ、いいか)

 でも、亜里沙の事情のことはよく分かった。東京に帰りたくないから僕に絡んでいたのだと言うこともはっきりしたし、だったら少しくらい居させてやってもいいかな、と思った。確かにうっとうしいが、まあ害のあるやつではない。


「じゃ、部屋割り決めましょうか。あたし、マンガのある棚の方で!」

「いいよ。家賃と光熱費折半するんなら、半分譲ってやるけどそうする?」

「すみません。掃除とか、ちゃんとしますから。何卒、ロハで…」

 大体お前、そんな長い間、いるつもりなのか。

「あっ、そうだお酒の方はお互いほどほどにしましょうね。あたしも昨日、飲みすぎちゃったので。正直、色々言わなくていいこと、言っちゃったりした、と思います」

「…おう」


 亜里沙が言っているのは、自分よりむしろ僕サイドの事情のことだろう。もう別に気にしていないが、これ以上話題にすることでもない。


「あ、それに、あたしの話もここまでで。つい調子乗って話しちゃいましたけど…たぶん、芦田さんも聞いていて、気持ちのいい話じゃなかったでしょうし」

 そこで亜里沙は言葉を濁した。


 亜里沙はあの晩、自分の恋人から逃げて来ている。昨夜はその話が途中だったと言う話にさっきはなったけど、話したくないなら、別に話さなくてもいいと思った。亜里沙もあんなにお酒が入らなかったら、話さなかっただろうし。


「あたしが確かめなきゃいけない」

 降りやまない雨音の中。彼女は昨夜、嗚咽しながら確かにそう言った。

「そう言えば彼のこと、何も知らなかったから」

 亜里沙がどうやってそれを『確かめた』のかなんて、僕が知っても仕様がない。


「分かったよ。…別に僕は、何か東京に帰りたくない事情があるんだって分かれば、それでいいから」

「ありがとうございます!」

 亜里沙は力いっぱいと言う感じで、微笑んだ。

「いやー!芦田さんが太っ腹で助かりました。もーこうなったら、色仕掛けしかないとか、本気で考えていたところでしたから」

「嘘つけ」

 だったら、あんな話なんかするもんか。逆に色々、気まずいじゃないか。

「そう言えば、お味噌汁は最高ですけど、ご飯って炊いてあるんですか?」

「インスタントのがあるだろ。食いたかったら適当にチンして食えよ」

 僕は戸棚の方へあごをしゃくると、焼き上がった卵焼きに爪楊枝を二つ挿して持ってきた。

「芦田さんはどうします?」

 亜里沙は一膳用のパックのご飯を発見して、レンジに放り込んだ。

「味噌汁が関の山だよ。飲みすぎたから、何か腹に入れなきゃと思っただけだよ」

 僕は爪楊枝で挿した卵焼きをかじった。

「…昼は、何か食べに行くか?」

 と、言うと亜里沙は、ぽかんとした顔になった。

「えええっ、芦田さん、さっきからどう言う風の吹き回しですか!?」

「どうもこうもないだろ、休み今日までなんだよ」

 僕は吐き棄てるように言ったが、もちろんそれだけが理由じゃない。

「いい大人が二人して、ごろごろしてたら息が詰まるだろ?」

「はあ…」

 亜里沙はまだ、ぴんと来ていないようだった。でも、ここに一日いたら、やがて分かると思う。昨日のこと。僕たちの中からは、薄れていかないだろう。決して消えては、いかないにしても。


「行こう。ちょっと曇ってるけど今日は静かだ」

 と僕は、風の音ひとつしない窓の外を眺めた。





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