第11話 凍りつく真実

 


「レイプされそうになったんです」



 亜里沙の言葉が、ふいに僕の脳裏に浮かび上がった。彼女が言った時のその表情を。凍りついた空気を。忘れるはずはない。だって、ただの冗談には聞こえなかった。でも、それが本当だと確信していたことじゃないし、まさか、と言う気持ちもあった。不用意に聞けるもんじゃない。


 だから僕は、黙るしかなかった。亜里沙に、山岳遭難者みたいにしがみつかれて。恐怖に震える言葉を、アルコール混じりの熱い吐息と一緒に吹き込まれても。ただ、彼女が落ち着くのを待つしかなかった。延々と止まない外の嵐を思いながら。話す決心をした亜里沙が、呼吸を整えて口を開くのを。この胸の動悸が、少しでも鎮まるまで。


「ひどい目に遭ったんです…」

 最初に出てきたのは、その言葉だった。やっぱりそうだった。そう思ったが、言葉を返さず僕は、じっとしていた。

「…信じてはいたんだと、思います。今でも気を抜くと、悲しくなりますし…何より怖いです。ただ、怖いんです。…信じられないくらい、信じられなくなることが」

 闇の中で感じる、亜里沙の吐息は細かく、小さく、震えていた。まるで川で溺れた人みたいだった。生々しい恐怖はまだ、その胸を去っていないのだ。



 恋人に乱暴されそうになって逃げてきた。


 彼女は言った。いくら言動が軽い亜里沙でも、冗談には聞こえなかった。


 亜里沙に会ったときから、あの晩、何があったのかは大よその想像はついていた。大雨をしのげる屋内にいたはずがそのまま駈け出して来たようなたたずまい、護身用に持ちだしてきたカールスバーグのビールの空き瓶。それだけじゃなく、ふとした表情や会話の間も。思えばそう言えば、と言うことは、思い出したらきりがない。


 ただならぬことを、亜里沙は隠していた。恋人と親友に裏切られた、さんざんな僕といるために。もっとさんざんな自分を押し隠して。本当は紙の蓋みたいな薄い理性で亜里沙は、自分を守っていたのだ。


「でも、確かめずにはいられなかった。…暴かなればそれで済んだかも知れないことを。あたしも、芦田さんと同じです」

 動揺を飲み下そうとするように亜里沙は深い息をつくと、それから静かに語り始めた。


 ことの発端は、亜里沙の友達が急に学校を休むようになったことだと言う。亜里沙と同じ大学のその女性は同い年で、中学校時代からの同級生だったのだが、三か月ほど音信不通のまま年明けに休学が決まったことを報せてきた。


 亜里沙への連絡は本人ではなく、その女性の両親からだった。


「肝臓の病気になったって言うんです。…療養が必要だから、しばらく休まなくてはならないから、と」

 亜里沙とその子は、とても親しかったので見舞いに行きたいと言ったのだが、にべもなく断られた。


「それでもすごく気になっていて。…ずっと、心配していたんです」

 亜里沙は亜里沙なりに情報を集めてみたが、その子の消息は不思議と伝わってこなかったのだと言う。

「それでふと色んな人と話してて、思い当ったんです。そう言えばあたしが、最後にあの子に会ったのっていつだったろう、って」


 それは夏の終わり、友達同士でちょっとしたパーティをしたときだった。合コンではなく、カップル同士の気楽な集まりだった。亜里沙の他にその子も含めて四人の女性が来たのだが、そのどれもが彼氏持ちでしかも、亜里沙の彼氏とは友人だった。


 亜里沙の彼氏は、都内でもそこそこ大きな個人医院の息子だそうな。当然、有名大学病院の医学生やプロパー(薬品会社)、大手金融機関など一部上場企業に勤める親を持つ有名私大の学生など、グループにはそれなりの面子が集まったようだ。どっちかと言えば庶民的な亜里沙なんか、よく浮かなかったと思う。


「まーそれなりに浮いてはいましたよ。女子の方だって、当然セレブ多いですから」


 その日は、雨混じりの蒸し暑い日だった。六本木のイタリアンのお店を貸しきって始まったパーティは二次会から三次会に流れ、そのままグループの中の一人の親が経営するマンションの一室で飲み明かしに切り替えようと言うことになった。


 しかし亜里沙は、このとき、体調を崩していた。二次会のお店でしめに出されたホタテ貝の前菜を食べてから青い顔になって、気持ちが悪くなってしまったのだと言う。元々体調が悪かったせいか、出ないはずのアレルギーが出たらしい。


「分かった。おれ、送るよ」

 亜里沙の彼氏は快くグループから抜けて、タクシーを呼んで亜里沙の自宅まで送ってくれたと言う。それが午後十一時過ぎだった。

「あたしの家、実家なんで。そのままうちまで寄らずに、来たタクシーに乗って行ったんです」

 亜里沙は当然、彼も自宅に帰るものだと思っていた。

「珍しく、ちょっと酔ってたみたいだし。…しきりに言ってたんです。すぐ、戻らなきゃ、すぐ戻るから、って」

 なぜそんなに戻りたがっているのか、亜里沙もさすがに、このときに不審に思っていた。


「その日は、そのまま帰ったよ。…行く気だったけど、タクシーの中から電話したらもうとっくに解散してる、って言うから」


 その日に関して彼の話にも、矛盾はなかった。実際、残っていた女の子たちも、誰から言うまでもなく解散して、帰って行ったらしい。解散のきっかけについてただ一つ、気になる話があった。


「亜里沙ちゃんいなくなってから、千奈ちゃん(その子の名前だ)も急に帰っちゃったから」


 千奈も最初のお店でワインを飲みすぎて、帰ることになったと言うのだ。亜里沙はふと不審に思った。亜里沙は千奈と席が近くだったが、彼女はワインなど飲まなかった。最初にカシスオレンジを頼んだら、後はお酒に似た色のジュースを頼んでお茶を濁していたはずだ。亜里沙と違って元々あまり、お酒が好きではないことも知っていた。


 それで亜里沙は引き続き、千奈がいなくなった前後の情報について詳細を聞きこんだ。


 あれから残った人の話によると、千奈はなんの前触れもなく突然いなくなり、男たちはそれにまったく触れなかったと言う。付き合いたてだった千奈の彼氏も含めて、だ。


「あー、それで思い出した。急に帰ろうかって言い出したの、そう言えば男どもだったんじゃん」


 そこまで話を聞くと、誰かがこう言った。千奈がいなくなった前後から、男たちの態度が突然変わり、そわそわしだした。次第にそれぞれが用事を思い出したと言い出し、残りの女の子たちを、タクシーで家に帰したのだと言う。つまり三次会はやってないのは確かだが、その夜、男たちは明らかに不審な行動を取り始めた。


「あたしが、激しく疑問を持ち始めた時です。…入院している、千奈本人から連絡があったのは」


 電話口で千奈は、しばらく泣いていたと言う。親友の亜里沙の声を聞いてほっとしたのと、話をすると決めたことで、それまで留めていた無数の感情のせきが破れ、こみ上げてしまったのだろう。


 あの夜、千奈はその場にいた男性全員から、暴行されたのだと言う。最初は二次会の店のトイレ、それからタクシーで運ばれ、皆で飲み明かしするはずだったマンションへ連れて行かれた。その中には、亜里沙の彼氏もいたらしい。


「だから怖くて話せなかった」

 亜里沙は胸が張り裂ける思いで、親友の嗚咽を聞いた。


 やはり肝臓の病気と言うのは、口実だったのだ。


「いえ、肝臓の病気は、本当でした」

 亜里沙は残念そうに僕に言った。

「千奈の彼氏、ウイルス性の肝炎のキャリアだったんです」


 B型又はC型ウイルスから来る肝炎は、性行為によって感染することが多い、と言う。例えば頻繁ひんぱんな性行為で傷を負っていたり、炎症を悪化させたりするとそこが経路になって感染することが多いと言う。


「問い詰めたら、友達に勧められて海外で買春をしてきたそうなんです。…だから梅毒やHIVの感染も疑わなきゃいけない、って病院で言われた、と言って泣いてました」


 彼女の両親は、警察に被害届を出し、訴訟も検討していると言う。でも千奈は、公の場に出る勇気がまだ出ないらしい。


「でもまた…亜里沙と話したい」

 そう思ったから勇気を振り絞って電話した、と千奈は震える声で言った。

「だっていつかでいいから、もっと話したい。…なんでもないこととか、ちゃんとした話とか、出来る関係に戻りたいから」

 相手に気取られぬよう通話を終えると亜里沙は、その場に座り込んで泣いた。


「どうしてあたし、平気な顔して今まで暮らしてたんだろう、って、そのとき思いましたよ。…こんなことが、起こってしまったのに。今も、千奈が苦しんでるのに。あたしどうして、平気な顔して皆とお酒飲んで、笑って、なにもないふりをして暮らしているんだろう。…あんな人と、当たり障りのない恋人してるんだろう、って」


 亜里沙の声は、絞り出すようだった。咽喉をらして泣いていた。とめどなく落ちる生まれたての涙が僕の手の甲を伝ってきた。


「だから、決意したんです。あたしが確かめなきゃいけない、って。…あたし、知らないで一緒にいたから。…そう言えば彼のこと、何も知らなかったから」


 亜里沙の声は会った時と同じ、暴風雨の最中で、まだ打ちひしがれているように響いた。


 外では建物に吹きつけてくる激しい雨粒と荒れ狂う風が、去らない。無慈悲でいて機械的な攻撃が繰り返し、繰り返し、絶えることなく続いていた。

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