第10話 地雷娘の素顔

 絶句した。何を言っていいのか、判らなかった。

 だって僕といたい…って?

 冗談なのか。それとも、何かの前ふりなのか。


「おっ、おい…」

 亜里沙はぐびぐびと、琥珀色のカナディアンを飲んだ。なんか噛み合わない話をしていると思ったら氷が少なくなっていて、あれじゃほとんどストレートだ。

「酔っ払ってる…な?」

 僕は恐る恐る尋ねた。だって今の一言を言った時に、どう見ても目が据わっているから。

「はいっ、酔っ払ってますけどそれが何か?」

 当たり前のように、亜里沙は言う。おい。

「そして実は、お金も持ってました!そのお金で、芦田さんとあたしのお肉を買いました!大事なことだから二回言いました!」

「分かった、分かったから」

 ぐっだぐだである。このまま続けたら、いつまで経っても話が終わらなそうだ。

「てゆうか焼きましょうよ、お肉」

 二枚のお肉を、亜里沙はずいっと突き出してくる。そのまま落としそうになったので、危うく受け止めたが。うわ、お値段以上、重たい。

「明日にしないか。夜中にこんな重たいもん食ったら、えらいことになるぞ?」

「全くもう、芦田さんは!芦田さん全くもう!この期に及んで何言ってるんですか!だからそう言うとこですよ芦田さん!」

「どういうとこだ。大体、三回も呼ぶな人の名前を」

 言ってる間にがぶり、とまたお過ごしになる。あーあ、もう知らないぞ。

「食べましょうよ。ぱあっと食べましょう。…芦田さん、負けちゃだめです。言っちゃなんですけど、あの二人だって今頃食べてるかも知れないわけですよ。芦田さんを追い返した後で、信州産ブランドワインを飲み!美味しいお肉をがぶがぶと」


 言われて一瞬、僕はあのあと静花と今西が食卓で、ワインとステーキを用意している姿を思い浮かべた。だが、それが楽しい食事であるはずがない。なぜって、僕の乱入ですべてが台無しになったんだから。


「あー、芦田さん、もしかして今、考えちゃってます?」

「うるさいな。お前のそう言うところが嫌いなんだよ」

「ふっ、ふーん!あたしもですよーだ!芦田さんて、頭でごちゃごちゃ考えるタイプだから面倒くさいんですよ。昔のえらい人の言葉で素晴らしい言葉があるのを知らないんですか?…考えるな!」

「『感じるんだ』…ブルース・リーだな。…よく、お前の世代で知ってるな」

「我が尊敬する大先輩に借りたんです!『ドラゴン怒りの鉄拳』!ほわちゃ!」

 いや『燃えよドラゴン』だろうと突っ込もうと思ったら、亜里沙はもんどりうちつつ、無茶なハイキックをしてそのまま倒れ込んだ。

「おっ、おい大丈夫か!?」

 どうにか抱き止めて、頭を打つのは回避したが、亜里沙の顔は真っ赤である。

「らいじょうぶれすよ。それより、すっごい足、上がったでしょ…あたし、現代舞踏やってるんれえ…」

「それは分かった。分かったから、もうしゃべるな。ろれってるから…静かにしてくれ。夜中なんだよ…」


 それから亜里沙はしばらくぶつぶつ言ってたが、二分くらい黙っていたら今度は大きな寝息を立てて眠り出した。酔っぱらいどころじゃない、大トラだ。もちろんこれじゃ、肉を焼くどころじゃなかった。

 今日は最後までひどい目にあった。



 そして静寂がやってきた。

 深いため息が出た。亜里沙が爆睡したあと、僕はやっと一人きりのお酒にありつけた。亜里沙が飲み残したウイスキーで水割りだ。こうなれば、一人お疲れ様会である。冷蔵庫に、静花が残していったチーズと手作りのピクルスがあった。それが今日、僕に許された唯一の贅沢だ。


(やっと静かになったな)


 ソファの上で亜里沙は、平和そうな顔をして眠っていた。盛大に撃沈したので、しばらくは絶対安静だと思った。何しろ寝ながら吐いたりしたら命に係わるし、まかり間違って急性アルコール中毒まで疑ったりもしたのだが、本人はどこ吹く風だ。あまりにキャラがブレないので、怒りを通り越してそこで笑えてしまった。


 少し暑いので僕は、空調の温度を一度下げた。水割りグラスと煙草を持って換気扇のところへ行く。外は相変わらずの大雨だ。この亜里沙といい、この世界の何かが皆で結託して僕を部屋から出さないようにしているみたいだった。


 おかしなものだ。さっきまでまるで味がしなかった酒も煙草も、口にすれば今ではしっかりと自分の持ち味を主張してくる。外はまだ大嵐だが、僕の心からは騒乱は去った証だ。いたずらに通り過ぎたりしないように今度こそ僕は、ゆっくり自分に寄り添ってくれるものの味や匂いを噛みしめた。


 思えば手もとに残ったものは、あまりにも少ない。でもそれは、今、考え直してみれば無理して持ち続けていたものかも知れなかった。好きなものの味と匂いが分からないのと同じように、僕はもう本当の静花のことなどとっくの昔に分かっていなかった。亜里沙が言う今、僕の中に静花のことはほとんど居残ってはいなかったのだ。


(僕は静花をとっくの昔に、通り過ぎていたんだ)


 それがちょうど昨日の晩、今頃のはずだ。

(あのとき、亜里沙に会わなかったら…)

 まだ僕は、そんな気持ちになれなかったと思う。地雷どころか、嵐のように僕から余計なものをすべて吹き飛ばしてしまった。


 ほんの二十四時間前、僕は、同じ雨の中で、亜里沙を見つけたのだ。あれは確かに、僕の人生になんの脈絡も、経緯もなかった。こんなに深く関わるつもりはなかったし、僕のことだって、こんなに話すつもりなんてなかった。


 突然、亜里沙が僕の人生に現れたりしなければ。


 雷が、窓の外で光った。ちょうど、この断続的な青い光がそうだ。昏い空に、突然現れた、強烈で強引な光。


「あたし、芦田さんがいなかったら生きてけなかった女ですよ?」


 亜里沙が言ったのと、静花が言ったのはやっぱり意味が違う。それはよく分かっている。あなたがいなければ。または、幸生くんがいなくても。


 僕は煙草を灰皿に押しつけて始末した。考えが煮詰まってきた。僕も、亜里沙みたいにそろそろ、呑気に眠れたら、良かったのに。


「明日は…どうしよう」

 僕は、答えもなくつぶやいた。だがとにかく、眠らなければ話にならない。

 水割りを飲み干して食器を片付け、僕は常夜灯を点けた。そのとき、亜里沙がソファからずり落ちそうになったのを発見した。

「おっと」

 華奢な肩だった。頭も小さくて、持つと熱くて柔らかい。生まれたてのヒナみたいな危うさを感じた。ほのかに色づいた唇の艶が目に入って、僕はしばらく放心状態になってしまった。まあ、こんなやつでも、大人しくしていてくれたらばそれなりに見れるのだ。


 怪獣みたいな爆弾娘だと思ってたのに、筋肉質のスリムな身体は、あっけないほどに若い女の子だ。明日起きたら、従順な人格に変わってないかな、とか、一瞬そんな妄想が頭をよぎった。亜里沙が僕の言うことを聞くほどしおらしくなったら、か。…そしたらこいつに、二千円持たせてさっさと東京に帰すのに。後は一人で十分なのに。


 肩だけかと思ったら、亜里沙は腰の方までずり落ちていた。しっかし、なんて、自由な寝方だ。このままじゃ、滑り台みたいにソファから落ちる。僕が思い切って、亜里沙を抱きしめて立ち上がろうとした時だ。


 ふいに身体に力が入って、亜里沙の身体が強張ったのが分かった。目が醒めたのだ。だったら自分で立てるだろう。そう言おうと思った時だった。


「ひっ」


 咽喉が詰まるような悲鳴を、亜里沙は漏らしたのだ。その瞬間、ものすごく強い力で彼女がもがきだしたのが分かった。僕に抱き止められた身体から自分の両腕を乱暴に引っこ抜くと、渾身の力を込めて突き出したのだ。


「やッ…やめてくださいッ!」


 亜里沙の目が、強張って見開かれていた。まるで別人みたいな表情だった。薄闇の中で彼女は、僕の顔を見て大きく息を呑んだ。森の中で殺人犯に出くわした、とでもいうような表情だ。僕はすぐに分かった。亜里沙は、怯えていた。


「すみません…」

 小さな声で、亜里沙は言った。今ので一気に酔いが飛んだみたいだった。

「大丈夫か…?」

 僕の声を聞くや否や、亜里沙は目を固くつむって何度か強いかぶりを振った。それから僕を突き飛ばした腕を首に絡めてくると、全身の体重をかけてしがみついた。

「だから、言ったじゃないですか…」

 亜里沙は震える声で、僕の耳に言葉を吹き込んだ。

「…あたし、全然、大丈夫なんかじゃありません」

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