第9話 待っていた地雷娘

 なんでだよ。

 帰れ、って言ったはずだ。もう、ほっといてくれよ。


「鍵は…」


 でもただそんな間抜けなことしか、僕は言えなかった。電気が点いていた。そして待っていてくれる誰かがいた。不覚にもそう思ってしまっていて、上手く思ったことを言えなかった。なんでいるんだ?どうして、僕みたいな人間見棄てていなくならないんだ。言い尽くせないほどの感情が胸を渦巻いていた。


「いやー、お腹減りましたよ、暇でしたよ、芦田さんの部屋、本っっ当に余計なものないんすもん!」


 亜里沙は呑気な顔でまとわりついてきて、僕の両手から手際よく買い物袋を奪う。まるで放置された留守番犬だ。案の定、部屋もとっ散らかっていた。


「あっ、でもこのお部屋、マンガの品ぞろえだけはいいですねえ!『スラムダンク』は愛蔵版だし、『はじめの一歩』なんて中々全巻一気読みとか出来ませんよう。この品揃え、あたしの大好きな親戚の中野のお兄ちゃんに匹敵しますよ!?」

「まず誰なんだよそのお兄さまは」


 林立するコミックスタワーを踏み越えながら、亜里沙はそそくさとキッチンに買ってきたものを運び込む。


「いったいどれを一気読みしてたんだ…」

 散らかすのはいいが、どれもこれも、中途半端な巻数で止まっているのが気になる。


『スラムダンク』は海南戦かいなんせんの途中で切れているし、『はじめの一歩』は各試合を飛ばし読みしているのか、巻数ばらばらに出してあるし。頼むからまとめて、きりのいいところまで読んでくれ。


「あっ、あとこれなんすけど」

 と、亜里沙は、僕が買ってきてまだ開封していなかった書店のビニール袋を差し出した。

「て言うか、ごめんなさい!この新刊先に開けて読んじゃいました!」

「ゴルアアアアアッ!おまっ…何してくれてんだッ!?」

 見直して損した。こいつ、やっぱ地雷ガールである。

「大体、どうやって入ってきた!?鍵なんか渡してないぞ!?」

「あ、鍵はありました。玄関の隅になぜかなーんにも植えてない鉢植えあったんで。ばればれです。基本っすよ。芦田さん、貧乏専門学生じゃないんですから。もっと隠し場所工夫した方がいいんじゃないですか?」

「余計なお世話だよ!大体、東京帰ったんじゃないのか!?帰らないなら、お金返せよ!?」

「もーいやだなー!そんないっぺんに聞かれたら、積る話が積もらないじゃないですかあ。てゆうか、お腹減ると、いらいらしません?とりあえず、何か作って乾杯でもしましょうよう」

「乾杯かよ…」


 そもそも、何に乾杯なんだ。

 これ以上はもう、反論する気力もない。大体今日は、何も考えたくないのだ。疲れた。こいつさえいなかったら、ウイスキーがぶ飲みして四日酔いくらいしたい日なのだ。どの道最悪だったからまあ、いいんだけど。



(こいつがいなかったら、今頃は…)



 韓国料理店に行って、焼き肉頼んでカルビスープ飲んで。煙草吸って生ビールにチューハイあおって。仲間とだべっていただろう。


 静花の話なんて話を聞いてくれるのは最初だけで、何となく別の話になってカラオケ移動して、誰かのうちに泊まって、昼頃家に帰って来て。なんだかわけもわからず、頭痛い気持ち悪い居心地悪いの休日の後半を死んだみたいに過ごしただろう。


 例えば僕が、スーパーで、静花と今西を見かけなかったら。

 亜里沙に地雷踏まれてかっとして、不倫の現場なんかに踏み込まなかったら。


 僕はもしかしたら裏で誰かにあざむかれているなんて思わずに、仕事に行ったろう。今西は当たり障りのない親友でいてくれたし、静花も僕に言わなくてもいいことを言わずに済んだだろう。


(もしかしたら…か)

 そんな可能性なんて、もうとっくに放り捨ててきた。拳がまだ、熱い。今西のあご先の骨の、尖った形の感触がまだ残っている。


 中指骨ちゅうしこつとその根元の関節が、痛烈に引きつれていた。じんじんと訴え続ける強い痛みは、そのまま、かなぐり棄てたものの大きさを物語っていた。


 眉をひそめながら僕は、ちらりとスマホの画面を見た。すっかり暗くなったのに、誰も連絡してこない。LINEで情報なんて、すぐ広まってしまう。今西と静花は、今頃、誰にどんなことを話しているんだろうか。


「ねーねーまずビール飲みましょう!ビール!」

 と、きんきんに冷えたビール二つ、差し出してくる亜里沙。

「そして何か作って下さい!ほらほら、色々買って来たでしょ!?」


 その顔を見て、ふと思った。認めたくないけど今、僕、ほっとしている。この地雷娘と、なんの意味も内容もない、すでにさんざ話し飽きたやりとりを家に帰ってからして。どこへ行っても今は炎上している。まるでここだけが、セーフハウスみたいに僕には思えてしまった。


「分かったよ」

 僕は、小さなため息をついて言った。こいつに助かったなんて、口が裂けても言えないけど。


 ぐいっ、と冷たいビールが飲みたい気分だ。

 僕は、ビールに合う簡単なつまみを作ることにした。すぐ飲みたいけど、出来合いのお総菜じゃあまりにわびしい。そこで買ってきたジャガイモを乱切りにして電子レンジで蒸かせる鍋に入れて蒸す。その間に玉ねぎとソーセージを、ガーリックスパイスを利かせて炒めた。


「何かビールに合うものッ!肉肉肉ゥッ!ソーセージッ!食べたいッ!」

 そして香ばしい匂いを嗅ぎつけて、キッチンに現れる酔っぱらいを追い払う。作れと言った癖に。乾きものででも、飲んでろよ。

「ちょっと待てって」

 こう言うのは缶ビールでも飲みながら片手間で作るのが、一番だ。


 そうこうしているうち、ソーセージのぶつ切りと玉ねぎに香ばしく焦げ目がついてきた。あとは蒸かしたポテトを投入である。ここで玉ねぎのとろみとソーセージの脂がほどよくポテトに絡んだら。スパイスの効いたジャーマンポテトが、いっちょ上がりだ。


「では運搬作戦を決行いたします将軍閣下ッ!」

「うむ。すっこけるなよ」

「アイアイサー!」

 嬉々として亜里沙は、大皿をリビングに運んでいった。

「じゃあッ!乾杯ッ!」

 かつん、と亜里沙が缶ビールを当ててくる。ポテトがそんなに嬉しいか。

「お…」

 でも、乾杯してしまう。てゆうか乾杯ってなんだよ、と突っ込もうとしたのだが、そんなこと言う気にもなれなかった。こんなざっかけおつまみで、目の色を変える亜里沙を見てしまったら。

「これ美味しいっす。さっすがプロだなあ。芦田さん、あたしのうちにぜひお婿に来て下さいよ!」

「自分で作り方憶えるとか言う、発想はないのか…」

「も一回作ってくれたら、そのとき考えます」

 ひょいひょい割り箸を動かす亜里沙。さすが体育会系、みるみるポテトがソーセージが皿の上から消えていく。

「あれ、もうソーセージない…?」

「気のせいですってほら、ここにもまだ美味しいところがありますから」

 と、ごってり残った玉ねぎを取り皿に載せてくる亜里沙。ふざけんな。


「なんで待ってたんだよ。帰り方分からないとかじゃないだろ?」

「ああ、それっぽいですね。スマホないと路線図調べられないし、そもそも車で来たもんで」

 適当に返事してみてから亜里沙は、少し声を落として、

「心配だったって言うのもありますよ。芦田さん、すっごい顔で出てったし」


 僕は亜里沙の視線の先を見た。バガボンドが積まれたパソコンのデスクに、写真立てが伏せてある。僕は、息を呑んだ。裏返して確かめなくてもあれには、僕と静花が映っていた。


「見たのか?」

「そりゃ、飾ってありますもん。チラ見だったですけど、分かりました。あの若奥様、芦田さんの彼女ですよね…?」

 僕は無言で頷いた。すると亜里沙はげんなりした顔で聞いた。

「不倫はまずくないですか?」

「不倫じゃないっつの」

 僕は亜里沙の言葉を遮った。

「…男の方が妻子持ちだよ。…あの子が僕と付き合ってたんだけど、本当はそいつのことずっと好きで実は、って…ああ、面倒くさい。なんでこんなことお前に、話さなきゃならないんだよ」

「なるほど。元カノさん側の事情は分かりました」

 逃げを打とうと思ったが、亜里沙は容赦なく真実を突いてくる。

「で、芦田さんから見たらつまりそれ、裏切られたってことですよね?」

「…そうかもな」

 真実は、判らない。ただ、静花には悪いけど、一方的に考えるならそう思うことは、出来る。

「僕は、『あなたがいなければ、生きていけない』って言うような人じゃないんだってさ」

「まあそうでしょうね」

「うるせえな」

 お前に言われる筋合いがどこにある。知った風な口をきいて。

「言ったじゃないですか。女の子なめるなって。その人のこと、よく知らないですけど、芦田さんのことなら知ってますから。要は芦田さんも、その人じゃなきゃだめだってことじゃなかったんでしょう。…だったらここに、どうやったってその人連れて帰ってくるはずでしょ?」


 反論出来なかった。こんなやつに、なんで見抜かれたんだろう。僕が、静花がいなくては生きていけないようなそんな人間じゃなかったって、考えてたようなこと。


「大体、その元カノさんて人もおかしいですよ。相手の男の人は、妻子持ちなんですよね。その人は、芦田さんの元カノさんみたいに、他の相手との関係精算してないわけじゃないですか。それでもその人といたかったわけでしょ。てことは最初から、芦田さんがいなくても、生きていけた人だったわけじゃないですか」

「そんなこと」

 なんでお前に分かる。静花はああやって言い切ったけど、今西じゃない瞬間だってあったかも知れないじゃないか。

「そう言うの、一番かっこ悪いですよ。前そうだったとか、最初はそうだったはずだとか。関係ないですから。話は今、ここで、じゃないですか」


 亜里沙はさりげなく僕の分の空き缶を処分すると、ウイスキーグラスにカナディアンを二つ、ロックで作ってきた。


「あっ、お前それどこで見つけた!?」

「うるさいなあ」

 亜里沙はごくりと咽喉を鳴らして、生のウイスキーを飲み込んだ。

「あたし、芦田さんがいなかったら生きてけなかった女ですよ?…それ、分かって言ってます?」

「いや、それは物理的にとか、生存条件的な話でじゃないのか」

 立場的にはライフセーバーと遭難者である。

「ほっとしましたもん。ここで芦田さんと寝て、芦田さんで良かったって思いましたもん!」

「だからそれは僕で良かった、って理由にはならないだろ?他の人だって普通は、それなりに親切だよ」

「でも一緒に寝ようとは思いませんよ!?」

「誤解を招くから、その言い方やめろって」

 寝た、って文字通りの意味である。だがこの流れで聞くと、なんか生々しいじゃないか。

「お肉食べましょうよ。あたし、芦田さんと食べようと思って、ステーキ肉買ってきたんです」

 ちょ、またお肉か…。

 止める間もなく亜里沙はグラスを持ったまま、キッチンへ行った。そして冷蔵庫からごそごそ、見慣れないお肉を二枚も出してくる。

「お前なっ、そんなものいつ…」

 なんとスーパーで戻してくるように言った、甲州ビーフのステーキ肉である。

 僕が渡した五千円で、わざわざあそこまで買いに行ったのか?あの雨の中、まさか歩いて?

「馬鹿だろ、お前。…東京帰る金使ってわざわざ、あんな雨の中」

「歩きましたよ?歩いたけど別にこれ、芦田さんのおごりじゃないですから」

 亜里沙は黙って、僕に五千円札丸々一枚を押しつけてきた。

「おい、じゃあ金は…?」

「自分で出したんですよ。実はポケットに一万円札、一枚持ってたんで」

 ウイスキーを飲み干すと、亜里沙は僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。



「今あたしはあたしの意志で、芦田さんといるんです」




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