第8話 最悪の決着

 三年一緒に過ごした静花を、愛してないはずはなかった。普通にちゃんと好きだった。出し抜けに別れを告げられて、僕はショックを受けたはずだった。でも、どうして今まで僕は、平気だったんだろうか。そもそも静花は、なんて言って別れを切り出したんだろうか。


「じゃあ、もう、やめようか」

 静花の話は想い出せない。でも僕は、それならとこの言葉を口にしていた。

「良かった」

 彼女はそう言って微笑んだ。

「嬉しい。幸生くん、そう言ってくれると思った。…信じてくれないかも知れないけど、幸生くんが嫌いになったわけじゃないから」


 それに対して、僕が何を答えたのかは憶えていない。それでも今にしてみればこの部分だけを、繰り返し思い出す。彼女は言った。嫌いになったわけじゃない。そうなんだ。分かってる。嫌いじゃない。ただ、もともと恋人として好きじゃなかっただけ。



 アクセルを踏みつけながら、何度も僕は想像した筋書きを疑い直した。おれはただ、今さら、今西に嫉妬してるだけだ。別れる理由も問い質さなかった自分に、別れた後で静花のことをとやかく言う権利は無い。


 だが理屈を、直感が飛び越える。


 じゃあ、二人はいつから、密会する関係になった?そしてなんで、今西は僕に嘘をついた?かみさんがいないときに内緒で会ってまで、する相談なんてあるのか。ワインにステーキ。二人きり。亜里沙の言うようにあれは、二人の『特別』な日のために?


 気が付くと、運転しながらスマホをタップして僕は、アドレス帳の番号にコールしていた。自分でも何をしているのか、判らなかった。


(だめだ)

 でも、それをやらずには、いられなかった。僕は僕が、これから自分でどんどん、嫌な奴になっていくのを理解している。破ってはいけないと結ばれた協同歩調条約を今さら破り棄ててしまいたくなっただけだ、と言うのを知っている。でも分かっている。これで、これこそが本当の終わりなんだってことを。


 八ヶ岳をはるか背に、段々畑の中の一軒家。宅地造成が進んだばかりで、今西の家の周りにはまだ、隣人の目と言うものがない。家の両隣はまだ開けていて、ぎっしりと実った青い稲穂や白い蕎麦の花が小糠雨こぬかあめに濡れそぼっていた。新しい道に入る前、どこかで舗装がへこんでいたのか、タイヤが深い水たまりの底をこすった。水しぶきを上げながら、僕はブレーキを踏む。


 スマホを片手に僕は、チャイムを押した。恐らくモニターで、僕の姿を確認したのだろう。インターホンがつながる音がしてもしばらく、今西は言葉を発しなかった。


「幸生…か?え?…どうした?」

「今日は、職場じゃなかったのかよ?」

 僕は声が震えないように、気を遣いながら答えた。ノイズとともに沈黙が聞こえてきた。今西はホーンのマイクの前で、絶句したのだろう。

「開けてくれよ。さっき、スーパーでお前たちに会った。お前と、静花の二人」

 今西はかすかに、ドアを開けた。痛々しい顔をしていた。

「静花は?」

「いるよ」

 今西は声をひそめて、後ろをうかがった。

「なあ、幸生。…誤解しないで聞いてくれないか。お前に嘘をついてたのは悪かった。でもこういうことには、時間が必要だろ?おれはお前たちにこのまま終わってほしくなかっただけだよ。実を言うと静花からは、ずっと、相談受けてたんだ。…かみさんも知ってる。こうやって二人で、会ってたのは」

 僕はスマホを突きつけた。今西は今度こそ、目を剥いた。

「奥さんと話したよ。…今、妊娠して帰省中だって?おれたちのことは、知らなかったって言ってる」

「おい、なんてことするんだ…?」

 僕の機嫌を取ろうとしていた、今西の言葉が冷えていく。

「嘘は三つ目、だよな。それでも、信用しろって言うのか?」

「お前ッ!」


 出会い頭に一発、僕は今西のあごを殴った。硬く尖ったあごの骨が、僕の拳に突き刺さった。膝を突いた今西は敵意に目をぎらつかせて、僕の腰に組み付いてきた。閉まりかけた玄関のドアに僕は衝突した。


 戻り際、今西に同じところをぶっ飛ばされた。思いっきり突き飛ばしてやると、今西は大きく尻餅をついた。僕がそれに覆いかぶさろうとしたときだ。


「やめて。これ以上やったら警察に通報するよ」

 静花の声が降った。昂ぶった声ではなかった。僕は背中から、氷水をかけられたようになった。静花がこの家の電話の子機を持って立っていた。

「そんなの、幸生くんのキャラじゃないでしょ。それにおかしいと思わないの?幸生くんって、怒る権利をとっくの昔に放棄したんじゃないの?」


 僕は呼気を整えながら、うなだれていた。静花の声は、厳然たる現実の声だった。理論武装が詰まった僕の頭は、一瞬で思考停止していた。静花の声はとっくに冷えている。わずかにそこに怒りでも感じたらまだ、僕には怒れる権利があったろう。


「今西くんのことは、前から好きだったよ。でもお互いタイミングが合わなかったり、他の人と付き合い出したりして、ずっと、上手くいかなかっただけなの」

「今、上手くいってると思うのかよ…?」

 スマホがバイブしている。僕はそれを拾って、三和土にうずくまって肩で息をしている今西に手渡してやった。

「説明してやれよ。僕なんかより、お前のかみさんに」

 今西は目を剥いて僕を睨んだが、次の瞬間には、スマホを引っ手繰って独り、平謝りしながら外へ出て行った。その様子を見ていた僕に、静花は刺すような声で言った。

「それでも幸生くんには、関係ない」

 静花は、平手で僕の頬を殴った。

「ねえ、正しいことしたと思ってる?自分は悪くないって、そこまでして思いたい?あなたがいなければ…そんな相手と、どんな手段を使ってもやっぱり一緒にいたいと思ったときのわたしの気持ち、分かる?…幸生くんのことも、好きになろうと想った。あなたが少しでもわたしと同じ気持ちを持ってくれてると思って、三年も頑張った。でも、幸生くんから、わたしのためのものは響いて来なかった。あなたがもし、わたしにちゃんと応えてくれてたら、こんなことにはならなかった。…そうでしょう?…そうだって言いなさいよッ!?」


 静花の言うことは支離滅裂だった。今西の方が昔から好きで、ずっとそうしたかったからしたのだと言いたいのか、僕が静花のために努力しなかったから、途中から気持ちが変わった、と言いたいのか。どんなに考えても僕には分からなかった。そして静花にも話す気はなかった。


 でも、もしかしたら僕も、初めから分かっていたのかも知れない。僕は彼女の深い部分の、空白を埋めてあげられてなかった。はじめからそう言う存在じゃなかったのか、僕がなろうとしなかったのが悪いのか、どちらとも言えなかったが、ならなかったと言うのは、ただ『違う』と言うことで間違いないのだ。


 僕も静花もただ、お互いを『好き』になろうとしていただけだったのだ。



 あなたがいなければ。


 どんな手段を使っても、誰からどんな非難を浴びようと。僕は静花を、それほど求めただろうか。必要としていただろうか。僕たちは三年間恋人だった。異性として好きだった。僕は、静花の素肌を知っている。その体温も身体の内側も探り当てた。安らかな寝息も、深い吐息もいだ。でもその先には、正直何もなかったのだ。


 彼女がいない生活の中に今、僕はいる。今だって喪失感が襲って気分が悪くなることもある。でも、それもやがて慣れてしまうことを僕は知っている。失恋もひとつの生理現象で食あたりしたときみたいに、愛していた記憶を時間をかけて排泄はいせつすれば、もう強いショックを受けることなどなくなると言うことを経験している。


 静花とも穏便にそうなるはずだったのだ。ああやって芸能記者みたいに不倫暴き立てて友人関係しっちゃかめっちゃかにしなくたって、石巻さん芦田さんて、二、三回、仲間内の飲み会で顔を合わせていたら、すぐにただの知り合いになるはずだったのだ。僕と付き合っているときから今西と不倫してようが、子供を作ろうが、僕は知らぬ顔を決め込んで生きられただろう。


 今の僕は、おかしいのか。それとも友人づらして密会して寝たり、元・恋人を寝取られたりしても、友達がいないと寂しいから事を荒立てずに、平気な顔して付き合いを続けるような連中が、正しいのか。


(なにやってんだ)


 僕はただ、喪い続けていく。


 いつの間にか、おっそろしい土砂降りになっていた。家路を急ぎながら僕は、ようやく亜里沙のことを思い出していた。今頃、東京だろうか。ゲリラ豪雨に巻き込まれないうちに帰れて、ほっとしているといいけど。

 くそっ、あいつの顔を思い出したら急に、お腹が減った。お肉お肉連呼してくるから僕も、お肉が食べたくなったじゃないか。僕は後部座席に積んだままの買い物袋の中身を思い返していた。

 ステーキは無理だったが、セール品の国産牛の細切れが買ってある。焼肉のたれででも、炒めて食べよう。保冷剤入れたとは言え、車の中に積みっぱなしだったから、よく火を通して食べなきゃな。晴れて本当の一人になったわび住まいに戻ろう。

 ビニール袋を抱えて、ずぶ濡れになりながら玄関で鍵を捜していると、なぜか中から明かりが漏れていることに気づいた。あれ、出るとき消してったはずだったけどなあ。不思議に思っていると、かちゃりと音がして勝手に鍵が回った。ドアまで開いて、ちょうど思い出してたあいつが出て来たので、僕はあまりの驚きでひっくり返りそうになった。

「あ、お帰りなさいっすー!」

 えええっ亜里沙!?

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