第5話 気まずいポンコツドライブ

「大丈夫」

 僕の中の静花はそう言って、いつも微笑んだ。

「あと、わたしやっとくから」


 いつのときだったか、よく判らない。そのとき、僕がどんな疎漏を冒したのかも。でも僕にとってはそれが、彼女の口癖だったみたいに記憶に残っていた。静花と僕は、とても円満だった。ことによると、今だってそうかも知れない。


「幸生には、別に迷惑かけないから」

 そう言えばこれが、別れを告げる台詞だった。

「わたしのことは、何にも心配しなくていいよ」


「分かった」

 僕は答えた。だから、あのとき素直に言えたんだと思う。これから、静花がいなくなる。そんな実感が、まるでなかったから。実際、いなくなるような話にも、聞こえなかった。静花がそのように、穏便にことを運んだせいかも知れない。


 彼女はこれから多分、僕の友達の一人に戻るだろう。平積みの本棚から一冊本を抜いて、書架の中に戻すように。それは不可避であり、不可逆な出来事だったのだ。だから分かった時には、僕に拒否権はなかったんだと思う。しょうがなかった。結局頭の中に浮かぶのは、今でもただ、その一言だった。



「ラジオつけていいっすか?」

 亜里沙が、不用意にオーディオのボタンを押した。オーディオの音量がどうなってるかも確認せずだ。


 大爆音で途中まで聴いていたトラックが、再開する。気分が落ちたときに聴くB‘Zの失恋ソングである。『Deep Kiss』。思いっきり誰かにフラれた、と分かる曲を、亜里沙にばっちり聴かれてしまった。


「『失恋ソングス』…?」

 編集タイトル読むな。悪気は、ないんだろうけど。今言われたら、余計へこむじゃないか。

「やめろっ」

 僕は亜里沙の手を振り払い、FMのボタンを押したが山の中だ。ラジオなんか入るはずがない。巻き起こったのはまるで、乱気流に突っ込んだ飛行機みたいな大雑音だ。僕はあわてて、オーディオをオフにした。


「景色いいから外見てれば?てゆか、少し黙ってない!?」

 あまりに気まずかったので僕は、いっぱいいっぱいの口調で叫んだ。

「いや、昨夜すっごいよく寝たんで。…じっとしてるのは。ちょっと」

 亜里沙は居心地悪そうに言うと、パワーウィンドウを上下させた。

「ところで、あの…」

「言わんでいい」

 僕が喰い気味に言ったので、こほん、と咳払いして亜里沙は、しばらく黙っていた。

「…失恋したんすか?」

 僕は答えなかった。そもそも、こいつ。この野郎。な…んッッッて奴だ。

「まさかつい最近?」


 僕は、急ブレーキを踏んだ。全然混んでいる道じゃなかったが、白のアルファードが非難がましいクラクションを鳴らしながら、追い越していった。


「降りるか?」

 僕は亜里沙をじろりと睨んで、言ってやった。

「あの、本当ごめんなさい。もう、何も言わないですから。芦田さんが、失恋したとか、あたしサイドの事情と、もー何も関係ないですから」


 悔し紛れに、僕はアクセルをベタ踏みした。ったく、乗せてるだけで厄介な奴だ。こんな女を択ぶ男の気が知れない。


 なんとも気まずいドライブになった。これなら、独りで買い出しに行った方が良かった。赤の他人二人、しかも無言である。せめてここでラジオでも入れば少し、間が持つのに。


「…何かせっかく二人で出たのに、だめな感じですね。すみません」

 そう思っていると亜里沙はすっかりしょげて、謝ってきた。

「…あたしも、似たようなもんだから、勝手に共感できるかなーみたいな甘い考えでいました」

「君の事情は?」

 僕も少し、気分が戻ってきた。さすがにこのままこれ以上は、堪えがたい。

「はい?」

「いや、だって、おれ何も聞いていないから。おれのことだけ一方的に聞かれたって話せないだろ?あんな雨の中、ビール瓶護身用に持ってさ。挙句、一文無しで知らない男の部屋に泊まって、今は知らない男の車に乗ってる」


 あまりに無謀じゃないか。だって僕がそこそこ悪意のある人間だったら、お金も泊まるところもない若い女性の弱みにつけこんで、色々要求しているところである。


「いやー、芦田さんはないっすよ。なんて言うか、初対面からそんな感じしましたし。泊めてあげるからやらせろー、とか、実際誘ってもなかったじゃないですか。もう、初めからそう言うキャラじゃないって言うか」

「なるほどー、だから逆に君みたいな人間につけこまれるわけだ」

 もっと僕が悪い男なら、こんな災難には遭わなくて済んだわけである。

「今からじゃあ、せいぜい悪い男にならなきゃな」

「いやいやいや。芦田さんは、そのままが。ありのままの芦田さんがいいっすよ?」

「…どうも」


 薄っぺらいことを、亜里沙はお愛想で言いやがる。昨日会ったばかりのお前に、ありのままの僕が分かるってたまるもんか。


「それよりそっちだって、あんな雨の日に、彼氏と喧嘩なんかしなきゃ、そもそも悪い男に会わなくて済むだろ。なんで、あんなとこ歩かなきゃならなかったんだよ?」

「…怖かったんですよ」

 ぽつり、と、亜里沙が言ったのはそのときだった。

「だから芦田さんに会ったら、ほっとしちゃって。で、あまりの居やすさに甘え続けちゃってるわけで。でも、油断しすぎですよね。芦田さんへこんでるのに聞いちゃいけないことまで突っ込んで。調子に乗っちゃいましたね。最近、失恋した、とか。最悪です」

「じゃあ、そっちもそろそろ話せよ」

 僕は、突き返すように言った。

「君も失恋したの?」

「そんなところです」

「ただの喧嘩じゃなくて?」

「はい」

 珍しく神妙な顔で、亜里沙は頷いた。

「裏切られたんです。…だから、形は違うけど、あたしも、失恋しました。そうやって考えたら芦田さんと状況一緒かなーって」

 僕は、ビール瓶で恋人を殴ったりしない。そう言うと、亜里沙は意を決したのか、急に最後まで少し唇に居残っていた愛想笑いをふっと消して、

「レイプされそうになったんです」

 亜里沙が言った瞬間、空気が凍りついた。

「え…?」

「芦田さんっ、前っ!車線!」

「うわああっ」


 あわてて僕はハンドルを切った。センターラインをはみ出していたのだ。大雨で急ハンドルだ。もう対向車が来ていた。すれすれだった。前から猛スピードで来たパッソとかすったかと思った。


「冗談すよ」

 それから亜里沙は、気まずそうに微笑んだ。


 冗談に聞こえるはずがない。もう遅いっつの。今、確かに聞いたぞ。レイプされそうになったって。そりゃわけありじゃないはずない。こいつにだって、やむにやまれぬ事情があるに決まってるじゃないか。


「今のは、本当、忘れて下さい」

 さらなる気まずさを振り払うように亜里沙は無理やり声を励まして、言った。

「もともと、芦田さんとは関係ないことですから。気を取り直して、美味しいものでも買いに行きましょう!」

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