第2話 大雨の晩に拾った出逢い

 僕が亜里沙と出逢ったのは、そんな仕事帰りだった。思えばよく、あんなところにぽつんと立っている女の子を見つけられたものだ。


 僕が勤務している北杜ほくと森星ヶ丘もりほしがおかホテルは八ヶ岳やつがたけの山の中だ。リゾート地とは言え、日暮れともなれば山道は途端にうら淋しくなるのは、その辺の田舎道となんの変わりもない。


 平地の真夏の通り雨が、こちらでは、致命的な土砂崩れや本格的な通行禁止につながる。それにしても、いつになく盛大な雨だった。勤務している時から蒸し暑い空に、どす黒い雲が集まり始めていたのを知っていたが、まさか僕の勤務明けを狙い澄ましたみたいに、どっと降り始めるとは思わなかった。


 ラジオを災害情報に切り替えて、僕は車を走らせていた。買い物の予定があったが、これじゃ麓のスーパーに寄るのは、まず無理だ。とりあえず、家に戻ってから出直すしかない。トイレットペーパーやサランラップも切れている。家に帰ったら、欠品になっている生活必需品もこの際残らず買い出しするしかないな。いつこの雨は上がるんだろう、そう思っていたときだ。


 ふらりと細い影が、道に飛び出したのは。


 この辺りは、リゾート開発のためだけに拓かれた、だだっ広いばかりが取り柄の一本道だ。歩道もろくに備えていないし、車以外で通行すると言う想定自体がなされていない。


 この土砂降りの中を、若い女の子が一人、ビニール傘を振り回して千鳥歩きしていたのだ。思わず僕がブレーキを踏んだのも、無理はない。


 急停車した僕の車のヘッドライトに気づいたのか、彼女は、はっと息を呑んで振り向いた。この田舎に、随分派手な女だな、と思ったのが第一印象だ。


 二十歳過ぎには一応見えた。大学生?前髪の辺りが少し膨らんだベリーショートで、細いあごにやや切れ長の目だけ見ればひどくボーイッシュに、ほっそりとした鼻筋の下の意外に肉厚な唇だけを見れば年相応にフェミニンな感じにも見えた。


 でも、どっちにしても場違い感だけは否めない。


 どこでも掴めば、折れそうな細身の身体にまとっているのは、雨水をたっぷり吸ったデニムの上っ張りにボーダーのシャツ、下は、太腿がほとんど見える白のショートパンツ。生足だ。突っかけているのはまた歩きにくそうなミュールだが、きらきらラメの乗ったペディキュアの足の指ごと泥を被って、ずぶ濡れだった。まるで雨ざらしに放置されたマネキンみたいだ。


 真夏とは言え、山の気温は天候で激変する。完全に日が落ちて外気は二十度前後まで下がっていたが、なす術もないと覚悟したのか、彼女は幽霊みたいにふらふらと歩いていたのだ。


 それがヘッドライトを浴びた途端、まるで元の人形に戻ったと言うように硬直した。たぶんいつもだったら、一瞬停車したとしても、軽くクラクションを鳴らしたら、何事もなくアクセルを踏んで通り過ぎたと思う。


 僕にとっては通りすがりの知らない人が、それがたとえ傘のまともな差し方も分からない、薄着の若い女性がずぶ濡れで歩いていたとしても、気に留める必要もないし、見棄てて気に留めるような存在ではなかったのだ。


 でも、ヘッドライトを浴びてはっと目を剥いたまま、硬直したように立ち尽くしていた彼女を見て僕は、車を降りる気になってしまった。土砂降りの最中だった。こんなときに外を歩くやつは歩くやつで、どんな理由があったとしても、ずぶ濡れにならずに帰宅したい僕にとっては、無関係の存在のはずだった。


 だが僕は気が付くと、助手席のパワーウィンドウを下げていた。この時点までは別に、事情を聞く気はなかったと思う。危なかったので注意をして、もし通り道が目的地なら連れて行ってやろうくらいに考えていただけだった。


 しかし僕が何か口を開く前に彼女は、ずぶ濡れの指をパワーウィンドウに引っかけると、唇を動かして何か言った。あまりよくそれは聞こえなかった。載せて、と言ったのか、助けて、と言ったのかは分からない。なぜなら聞き返す間もなく、彼女は車のドアにもたれたまま崩れ落ちてしまったからだ。



 やばい。こりゃ、わけありだ。

 一見しなくてもそうだ。だがこの状態で、何事もなかったかのようにそのまま走り去っていけるほどの勇気は僕にはない。


 と言うわけで、ずぶ濡れ覚悟で外に出て、彼女の身体を抱え上げたのだが、手足に力が入っていない。まるで死体だ。するとびしゃっと泥飛沫はねを上げて、何かが地面に落ちた。口の細長い緑色のガラス瓶。カールスバーグのビールの空き瓶だった。


(…どうしよう)


 こんなトラブルに巻き込まれたのは、生まれて初めてだ。とにかく警察か救急車だと思ったが、まだ本人の口から何も聞いちゃいない。彼女を助手席にそのまま、車を出してしまったが、どこへ行ったらいいか皆目見当がつかなかった。


 一方、向こうの方はと言うと、シートの上に横たわると、ふーっと深く長いため息をついて見せた。あまりに安らかでいて、それはあまりに場違いなものだった。そして、そのとき分かった。彼女は、かなり酒を飲んでいた。


「大丈夫、ですか。気分が悪いなら、病院に」

 僕は、緊張しながら第一声を発した。内心、ずぶ濡れでヒッチハイクかこの酔っ払いめ、とののしりたかったが、彼女はぶるぶる首を振ったまま、濡れた髪を持て余しているだけだ。


 僕は、自分が雨避け用にと、用意しておいたタオルを与えた。するとまるでプール帰りの小学生みたいに彼女は、女の子にしてはがさつな動作で、髪についたしずくを拭き落とし始めた。タオルの中の表情はもちろん、読めない。そこで僕は、思い切って聞いてみた。


「何か…あったの?あんな雨の中」

「大丈夫。その、全っ然!何でもなくて」

 と、彼女は食い気味に答えた。そのとき見た目はちゃらいが、意外にしっかりとした話し方だったので、僕は気圧された。

「…でも、本当にすみません。東京から来たんで、この辺のこと、全然分からなくて。どっち行っていいのか、車で来た時のこと思い出して歩いてただけだったんで。本当に助かりました」

「あ、そう」

 あの格好でとりあえず、どこかには向かっていたらしい。

「お兄さんて、この辺りの、方ですか?」

 彼女は話題を変えてきた。

「うん、この山の上のホテルに勤めてて。勤務上がりに寮に帰る途中だった。てゆうか、風邪惹くよ雨の中。どこから、歩いてきたの」

 彼女はそれに、応えなかった。

「…もしかして、清里駅へ行く途中だった?」

「そのつもり、だったんですけど」

 彼女がどことなく、口調をぼかしたときだ。


 背後から、まくるように突っ込んできたツーシーターが僕の車を追い越した。真っ赤なフェラーリだ。車高の低いあの手の車が飛沫を上げて爆走する姿は、まるで鮫かシャチだ。リゾート地とは言え、この辺りではあの手の高級車は珍しい。


 そのとき心なしか、フェラーリのテールランプを見ていた彼女の顔が強張った気がした。


「あの…駅ってこっち方向ですか…?」

 突然、彼女は聞いてきた。

「うん、うち、駅方面だからね」

 と言った瞬間、彼女の顔の強張りが、目に見えるほどになった。なんだ?

「あ!あの、本当!突然なんですが!お兄さんて寮で独り暮らしですか?」

「まあ、別に帰っても、うちには誰もいないけど」

 そう言ったのが、運の尽きだった。その瞬間、彼女は、なぜか必死に拝み倒してきたのだ。

「泊めて下さい!一晩、一晩だけッ!お願いします!怪しいものではないので!本当に、怪しいものでは絶ッ対ないので!」

 いや十分怪しいよ君。

「ちょっと待って」

 とは言ったものの、迫力に負けて、とっさにそうとは突っ込めなかった。

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