あなたがいなければ
橋本ちかげ
第1話 恋の終わりと誕生日と
今年の真夏の雨はいたずらに激しくて止め処なく、僕の中から、すべてを根こそぎ持ち去ってしまった。今やこの部屋には、僕と言う持ち物が手提袋のようなものに入れられて、ぽつん、と、天井から下がっているみたいに思える。
本来、点と線だけである僕の人生は水平線のようにフラットで、どこまでも伸びていく、ただそれだけのものだった。たとえ五年、十年とその線が水平のまま延びていったとしても、その直線上に現われる物事しか、僕は人生上の出来事と認めることが出来なかっただろう。
でも幻なんかじゃない。
少し骨ばった華奢な肩と足。小さなあごに、ショートボブ。
思春期の少年みたいな、張りのある声。はにかんで、斜に構えた笑み。決して素直とは言えない、一言多い性格。全部、僕の好みなんかじゃなかった。
なるほど予期しない長雨は、人を狂わせる。その頃、僕たちはこのとめどないノイズを聴いて、毎日を過ごしていた。元々、君はいなくなる予定だった。でも、そうはならないものだとも、信じていた。それでも君は、やはりいなくなってしまった。
確かにこの夏、僕たちは、少しおかしかった。
でも、本当にただ、それだけだったんだろうか。
がらんとした部屋で僕はまだ、その言葉を呑み込んでいる。名前だけ、残して消えてしまった君に呼びかけるように。思い出し、噛みしめては一日をしめくくって。まだどこかに引っかかって、飲み下せない。本当はいつか、かけるはずだったその言葉が。
梅雨入りの頃、僕は三年越しの失恋を経験していた。相手は
ホテルマンの仕事は三交代制だから、中々普通の仕事と波長が合いにくい。無理やり合わせるにも、いつか不都合が生じるものだ。その点、彼女とは都合が良かった。
いや、もちろんそんな他人行儀な理由を並べ立てるより、正直なことを言ってしまおう。彼女とは出逢ったときから、ちゃんと馬が合った。彼女が例えば市内の普通のOLだったとしても、僕は変わらず恋人でいたに違いなかった。まあ、彼女の目の届く範囲に僕がいたなら、の話ではあるが。
しかしそれでも、僕たちの関係は終わった。三年目の記念日、それは六月最後の休日のことだった。
「やっぱりもうだめか
その日、LINEにメッセージを投げかけて来たのは、同僚の今西だった。出勤中だ。僕たちが別れる決断をしたことを、聞いたに違いない。まあ静花なら、二十四時間以内に五人以上に必ず話す。だから、LINEでの拡散を厳禁にしたのに。そんなことは、なんの予防策にもなっていなかったみたいだ。
「話すと長くなる」
僕は休憩時間にメッセージを投げておいて、電話で説明する形をとった。何しろ今西は、静花を紹介してくれた友達だ。せめて僕の口から、事後報告だけはきちんとしなくてはならない。
駐車場に出ると僕はすぐ電話を取った。気は急いたが、何しろつい先日のことだ。それに夜勤から連続の日勤の仕事あがり、取るものもとりあえず電話したから自分でも、要領を得ない説明をしている、そう言う自覚はあった。
「大丈夫かお前、ちょっと疲れてんだろ」
今西の第一声はそれだった。お世話になった友達を気遣おうとして、逆に気遣ってもらってたら、世話は無い。
「さっきまでちょうど、客室トラブルに駆り出されててさ」
「そう言うことじゃないだろ。まだ、別れて三日も経ってないじゃないか」
言われて僕は、カレンダーを思い浮かべた。確かにこの三日は、どんより天候不順も相まって、時間の進みが三倍くらい遅く感じた。
「でなんだ、喧嘩したのか?」
「喧嘩じゃないよ。ちゃんとした、話だった」
切り出したのは、静花からだった。と、言うよりは、その日は最初からその話をするつもりだけでいたに違いない。それはとにかく、もうこうやって会いに行ったり、行かれたり、と言う関係を終わりにしたい、と言うものだった。
「お前は同意したのか?」
「間違ってはいないと思う。…同棲しないって、最初から向こうが言い出したことだけど」
でも今、それについて議論しても仕方ない。要はこれ以上、一緒にいても発展性がないと言う結論だったわけだ。
「それって結婚して、一緒に住みたいってことじゃないのか?」
「違うと思う」
今西には言わなかったがたぶん、転勤が理由だったんだ、と、僕は思っている。僕が勤めている場所と違い、静花のホテルは全国展開の大手とは言わないまでも、そこそこ大きい会社だ。内示を受けて、他県へ引っ越しを考えなくちゃいけない。そんなことを言っていたのを、僕は聞いた気がする。
「心配するなよ。別に、不穏な別れ方とかじゃないから。連絡先はお互い普通に遺しておくし、友達とも今まで通りだから」
「ふうん」
今西は、そこで僕の話を遮った。
「でも、別れたんだな?」
「そうだよ」
会えるけど、もう会わないし、会ったとしても恋人ではない。話はそれだけ、とても単純だ。
「よりが戻るパターンな気もするけどな」
ずばり言われて僕は、沈黙した。確かに別れる云々のいざこざはこの三年間、何度もあったことだ。
「ま、答えられる精神状態じゃないってことにしといてやるよ。俺もいきなし突っ込んだこと聞きすぎて悪かったなあ、とか今さら気づいたしさ」
「遅えよ」
眉をひそめた僕に、今西はさらなる暴言だ。
「じゃあ、ちょうどいいな金曜日」
「何がだよ」
「柴木の家で、バーベキューパーティの予定だったじゃんか。あれなあ、柴木の嫁さんの予定で中止になったから。まあ、予報雨だし、男だけで居酒屋集まろうって話だったんだよ。失恋お疲れさん会で皆でおごってやるよ」
「そりゃどうも」
涙が出るほど嬉しいと言うのは、このことだ。て言うか本当に泣けてきた。僕はいつの間にか、人に施される身分になっていたのだ。
「そろそろお前、誕生日だったんだろ?」
言われて、はっとした。
そう言えば週末の土曜日は、僕の二十七回目の誕生日だったのだ。
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