⑤ 知りたくなかったひみつ

 ここは二階席みたい。

 薄暗い舞台に、照明があたる。

 あたしは目を疑った。

 その中央にいるのは……お姉ちゃん?

 長いはちみつ色の髪をほどいてる。

 コーラスコープティーで見たときと、そして、あたしがはじめて、観たミュージカ ルで、歌っていたあの日と同じだ。

 舞台のすぐ下にずらりと並んだオーケストラが、曲の前奏を奏でる。

 その曲はもちろん――『オペラ座の怪人』の中の、『スィンクオブミー』。


あなたとはさよならをするけれど

時々はわたしのことを思い出すと 約束して

わたしがあなたを想わない日は

このさきもないでしょう 


 曲が最高潮に盛り上がったそのとき。

 信じられないことが起こった。

 お姉ちゃんの声が、あたしには見えたんだ。

 金色の星がたくさん集まったような光になって、お姉ちゃんの胸元から、舞台の上へ上へ、のぼっていく。

「なに……あれ。あんな演出、あたしが観たときにはなかった」

「あれは演出じゃない」

 となりからレインの声が聴こえる。

「魔法だ。それもかなり強力な」

 その光はだんだん、一つの塊になって、宝石のような形になった。金色で、涙型をしてる。ネックレスみたいに、鎖がついている。

 あたしは目を細めてじっと、その宝石を見る。

 どこかで見たデザイン。

 どこでだったっけ……。

 思い出せなかった。

 そのとき、舞台の場面が変わって、そっちに集中しないといけなかったから。

 その涙型の宝石は急に力を失ったかのように、天井から落ちてきて、お姉ちゃんの首もとにかかった。

 お姉ちゃんのすぐ前にはさっきまでいなかった人がいる。

 漆黒のモノクル眼鏡を見てあっと声をあげる。

 知っている姿より、少し若いけど。

 これってさっきの男の人――ハー・マジェスティーの劇場主さんだ。

 お姉ちゃんは胸元の涙型の宝石のついたネックレスを首元から外した。

 その顔は別人のようにこわばっている。

 あたしの知ってるお姉ちゃんじゃないみたいだ。

 すっと、ネックレスを持ったお姉ちゃんの白い手が、劇場主さんの前に差し出される。

「おっしゃるとおり、わたしの歌声を差しあげます」

 劇場主さんの手に宝石が渡る直前、お姉ちゃんは手を引っ込めた。

 そして、言った。

「座長、約束どおり、ヒューがピアノをやっていくこと、許してくださいますね」

 劇場主さんは――そして、お姉ちゃんの劇団の座長さんは、笑った。

 その笑い方に、ぞくりとする。

「いいだろう」

 お姉ちゃんはうなずいて、宝石を差し出す。

 舞台の上で繰り広げられている映像が過去のものであることも忘れて、あたしは呼びかけた。

 だめ。

「お姉ちゃん、歌声を渡しちゃ、だめ――!」

「チュチュ!」

 舞台の上まで駆け出しそうになって、その肩をとめられる。

 レインにそのまま、肩をひきよせられる。

「最後まで見届けよう」

 レインの指先が、目の前まで伸びてきて、そっとあたしの目じりをぬぐった。

 あたしははじめて、そこに涙がつたってるのを知った。

「だいじょうぶだ。オレがついてる」

 ……そうだ。

 あたしは、舞台に向きなおった。

 ほんとのことを、見なくちゃ。

 そこには、お姉ちゃんが歌声を渡してまで自由にしようとした人――ヒューがいる。

 セットは、コーラスコープティーに映っていたのと同じ、たくさんの大道具が置かれた舞台裏の様子に変わっていた。

 ヒューは相変わらずピアノの椅子に腰かけて、ふたの部分にもたれるお姉ちゃんを見ている。

「初日の公演のきみの歌は大好評だったっていうのに、元気がないね」

 そのはずだ。 

 もうお姉ちゃんは二度と歌えなくなった。

 うつむいたまま、お姉ちゃんは言う。

「あなたこそ、上機嫌には見えないわ。わたしの成功を喜んでくれないの?」

 よく見ると――ほんとだ。

 ヒューの黒い目は伏せ気味で。

「嬉しくないわけ、ないだろ」

 そういう声は少し震えてる気がする。

 舞台に、お姉ちゃんの心の声が響く。

 笑ってちょうだい。 

 あなたはもう、自由なんだから――。

 ヒューのすぐそばに歩み寄ったお姉ちゃんは口では、別のことを言った。

「ねぇ、ヒュー、なにかあったの」

 ヒューはお姉ちゃんから逃げるように顔をそむける。

「なんでもない」

 お姉ちゃんは形のいい眉をちょっとだけつりあげた。

「うそ。なにかあったんだわ」

「あったとしても、きみには、関係ないことだ」

 今度はお姉ちゃんの瞳が寂しそうに揺れる。

「あなたはいつも、自分の抱えていることを話してくれないのね」

 ヒューの目がぎくりとしたように一瞬見開かれる。

 ゆっくりとお姉ちゃんは口を開いた。

「関係なくなんか、ない」

 ヒューが顔を上げて、お姉ちゃんを見つめた。

 金色の髪が舞台裏天井の高いところにある窓から射す一筋の光を浴びて、光っている。

「あなたが好きだから」

 ヒューの黒い目が、まぶしそうに、細められる。

「ティナ……」

 ヒューは、椅子の下の床に、視線を落とした。

「きみってやつは、まったく純真で、人を疑うことを知らない。そして」

 顔を あげたヒューの目は、信じられないくらい空っぽで、真っ暗だった。

「愚かな人だ」

 その口元に、うっすらと冷たい微笑みが浮かぶ。

「オレはきみを利用していたんだよ」

 ぴしっと全身がかためられたように、動けなくなる。

「ほんとうに愛すると思ったか、星の数ほどいる、束の間人気が出ただけの駆け出しの女優を」

 ぐっと、お姉ちゃんの細い腕が、ヒューの手で乱暴につかまれる。

「オレが興味があったのはね、看板女優のベルだけなんだ。彼女にはきみと違って実績も財産もある。父もぜひにと結婚を望んでる」

 その耳元で囁かれる声が優しいほど、言葉のひどさが際立つ。

「だが表立って彼女に会いに来れば、まわりが容赦なく騒ぎ立てる。彼女に迷惑がかかるだろ? きみと恋人同士のようにふるまっていたのはそれをかくすための仮面、カモフラージュさ」

 うそ。

 うそでしょ。

 うそだって言って。

 そうつぶやいていたのはあたしの声だった。

 お姉ちゃんはそれすら言えないように、黙って栗色の目を見開いて、彼を見つめている。

「それじゃ、あなたは、わたしのことは――」

 お姉ちゃんの、揺れる栗色の目と震えるまつ毛。

 ヒューはそこから目をそらした。

 彼の口から出てきた言葉は、あたしの願いすら打ち砕く残酷なものだった。

 わずらわしそうに漆黒の目を閉じて、吐き捨てる。

「あぁ、迷惑だ。これ以上、オレの前に姿を現さないでくれ」

 もう、やめて。

 その汚い手をはなしてよ!

 お姉ちゃんを、これ以上傷つけないで。

 いくら叫んでも、舞台にあたしの声は届かない。

 代わりにヒューに届いたのはお姉ちゃんの消え入りそうな声だった。

「わかったわ。さようなら、ヒュー」

 彼に背を向けて、お姉ちゃんは歩き出した。

 振り返って、一言だけ言う。

「あなたはひどい人だけど、わたしに安らぎをくれた人だから。幸せを、祈ってる」

 舞台が、徐々に暗くなっていく。

 そして、舞台のカーテンが、閉まった。

 これで、終わり?

 これがお姉ちゃんの、恋物語の結末なの……?

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