③ 音楽で教えて! お姉ちゃんの過去
お姉ちゃんは、歌いながら奥に進んでいく。
進んでいくにつれて、天井の高い舞台裏の世界が広がる。
あるところでお姉ちゃんは止まった。
そこに、黒いグランドピアノがあって、伴奏を弾いている男の人がいる。
漆黒の髪と瞳。上のボタンをはずした白いシャツを着ている。
曲が終わると、二人は黙ったまま笑いあった
さいしょに口を開いたのはお姉ちゃんだった。
「伴奏ありがとう。わが劇団の未来の跡取りさん」
「よせよ。ただ座長の息子ってだけさ」
男の人はピアノに座ったまま、手をふった。
「クリスティーヌの声が聴こえて。気づいたら、弾いてた」
お姉ちゃんはグランドピアノのフタのへこんだ部分に寄り掛かかった。
クリスティーヌは『オペラザの怪人』のヒロインだ。
「クリスティーヌも、物語の最初ではただのコーラスガールだった。そこだけは、わたしと同じね」
男の人は少し怒ったように、閉じた鍵盤のフタにこぶしを置いた。
「嘘じゃない。きみの声は本物だ。父さんはバカだ。きみを主役にしないなんて」
お姉ちゃんはゆっくり首を横にふった。長いはちみつの髪がさらさら揺れる。
「きっと、才能がなかったんだと思う。オーディション、まただめだったの。それで、そろそろ、田舎のコッツウォルズに帰ろうかなって」
男の人ははじかれたようにピアノの椅子から立ち上がった。
「本気か。ティナ。目を覚ませよ」
彼がお姉ちゃんの肩をつかんで揺さぶると、カーディガンから一枚の紙が落ちた。
男の人がそれを拾って、見つめる。
あたしも――はっと息を飲み込んだ。
髪をお団子にしてバレエ服を着てる、小さな女の子が映っていたの。
「その写真、妹よ。わたしたち、仲良しでね。娘のようにかわいいの。家を出てきて、この子にも寂しい思いをさせちゃったし」
男の人はそっと、写真をお姉ちゃんの手に握らせた。
「オレが妹さんの立場だったら。大好きなお姉さんが、夢を諦めたって知ったら、悲しむと思う。きみの人生を、譲ったりしちゃだめだ」
うん。そのとおりだよ。
お姉ちゃん、歌をやめないで。
二人は手を取りあう形になる。
それまでどこか寂しげだったお姉ちゃんの顔が、一瞬驚いたものになって、そして優しいいつもの笑顔になった。
「わかった。もう一度だけ、がんばってみるわ」
そこで二人の姿は湯気の中に消えて、しばらくするともう一度現れた。
今度は最初から二人ともピアノの前にいる。
ピアノの椅子に座っている男の人が言う。
「おめでとう、ティナ。思ったとおりだ、明日からきみはクリスティーヌか」
どうもこれは、あの日――お姉ちゃんがただ一度、主役として舞台に立った日の前日らしい。
「そして、広い音楽界に羽ばたいていくんだ」
「あなたのピアノでなら、飛べる気がする。とても歌いやすいもの」
男の人は、じっと、ピアノの譜面台を見つめると、ふっと笑った。
どこかひにくめいた笑いだった。
「そんなことを言ってくれるのはきみだけだ」
お姉ちゃんがすっと、男の人のとなりに腰掛ける。
「座長のお父様はまだ、あなたがピアノをやっていくことに反対なの?」
譜面台のふちで握られた男の人の手が悔しそうに震えている。
「今回、オレのピアノが必要だって劇団に呼ばれて、ようやく少しは認められたかと思ったけど。なんのことはない、そんなのは建前だった。父さんがオレをここへ呼び寄せたのは、別にやらせたいことがあったからなんだ」
さっとお姉ちゃんはきれいなまゆを寄せた。
「ひどいわ。嘘をついてまで、座長はいったいなにを?」
「それは」
男の人はふっとわれに返ったようにまばたきすると、短く息を吐いた。
「やめよう。言ってもしかたないさ」
「……そう」
お姉ちゃんはちょっと寂しそうに笑って、無理に訊こうとしなかった。そこがお姉ちゃんらしい。
あたしにもそう。いつも、黙って、そばにいるよってことを伝えてくれるんだ。
「ヒュー」
お姉ちゃんはそう、男の人を呼んだ。
譜面台の上の彼の手に、その白い手を重ねる。
「ほんとうにやりたいことがあるなら、自分の人生を誰かに渡しちゃダメ。あなたが決めていいの」
ヒューの黒い瞳が、揺れ動く。
そこへ、足音が聞こえてくる。
「ティナ、隠れるんだ」
二人は、手をつないだまま、どこかへと去っていく。
あたしはレインと目を見交わした。
このあと、どうなるんだろう。
そのとき。
「ただいま~」
わーっ。
現実のお姉ちゃんが帰ってきた!
レインが小声で素早く言う。
「湯気を消すんだ。早く」
あたしたちは大慌てで、両手をひらひら、湯気を散らす。
「あら、レインくんも来てたのね。二人してお稽古? また、変わったダンスね」
こんなときは、お姉ちゃんの天然がありがたい。
「チュチュちゃん。本番見られなくて、ごめんなさいね。まだ怒ってる?」
あたしはちょっと肩を落として、レインを見た。
彼が笑顔でうなずくのを見て、すなおに言葉がでてくる。
「ううん。もういいの。次はぜったい来てよね」
黒いレースのショールを肩からとっていすの背もたれにかけながら、にっこりお姉ちゃんが微笑む。
「約束するわ」
そこへ、じりじりじりと、やたら古風な音がする。
カウンターにある金色の業務用電話だ。
お姉ちゃんは受話器を取って話し出した。
「お電話ありがとうございます。こちら『魔法のミュージカル屋』です。ご予約ですか? はい。ご希望のお日にちは――」
あたしはこっそりと、レインに近寄って話しかけた。
「あーあ、いいとこだったのに。こうなってくると、やたら続きが気になるよ」
でも、もう一度お姉ちゃんの目を盗んで大事な商売道具を使うのは気が引けるなぁ。
あたしはポケットから、さっき街中でもらったものを取り出した。
そう。――『ひみつのミュージカル屋』の広告。
あなただけのひみつのミュージカルをお見せします。
その文字が、強くあたしをひきつける。
「ここ、行ってみよう……かな」
あたしの手元をのぞき込んだレインが即座に言った。
「やめたほうがいい」
「どうして?」
「そこは最近はやりのミュージカル屋だ。でも人の演奏技術を魔法で奪って高値で売り飛ばしたりもするっていう悪いうわさがある。危険だ」
たしかに、ちょっぴりあやしい。
でも……。
ちら、とメモを取りながら電話をしているお姉ちゃんを見やる。
やっぱり、お姉ちゃんのひみつを知りたい。
そして、力になれたら。
レインがため息をついた。
「わかった。どうしてもっていうなら、オレも行く」
「レイン」
「今度の休日、レッスンが終わってからだ。いいな」
ぱしっと投げてよこされたウインクに、わけもなく頭がくらくらする。
「どうかしたか、チュチュ?」
はっとして、ぱちっとほっぺたをたたく。
「ううん。さんきゅー、レイン」
よーし。
お姉ちゃんのために、がんばるぞ。
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