第2幕 返して! お姉ちゃんの歌声と恋

① お姉ちゃんは歌わない

 天使の広場の階段に座り込んで、ほっぺをふくらませたまま、あたしは気ままに空を飛ぶ鳩たちをにらんでいた。ただ今、絶賛いじけモード。

『雨に唄えば』の本番がうまくいかなかったのかって?

 ううん、その反対。

 最高だったの。

 もちろん、ぜんぶ完璧ってわけじゃないけど、練習通りの成果は出たと思うし、なにより、おもいっきり踊って、歌って、レインと軽口をたたきあう演技をするのも、ぜんぶが楽しかった。

 それなのに。

 あたしが悔しいのは、誰よりも本番を観てほしかった人が、ハー・プリンセス劇場に来てくれなかったこと。

 お姉ちゃんてば、ミュージカル屋さんに急なお客さんが入ったからって、大事な日をすっぽかすことないじゃん。ぜったい、応援にきてくれるって約束したのに……。

 今日も出張の依頼とかで、朝早く出てってそれっきり。

 日曜日の今日は学校もレッスンもお休みで、家にぽつんといるとなんだかゆううつになって、散歩にでてきたわけなんだけど、いらいらは募る一方。

 あたしは石段から立ち上がった。

 もう帰ろう。

 人でいっぱいの広場を一人、歩き出す。

 街頭のそばで配られてる小さな広告を何気なく受け取った。

 その文字を見て、一瞬足がとまる。

『ひみつのミュージカル屋』?

 うちと同じ、魔法とミュージカルのお店みたいだった。

 場所は――なにっ? あのハー・マジェスティー劇場の大ホール?

 ミュージカルが休演の日に、劇場がお店になるらしい。

『あなたの知りたいこと、だれかの知られざる過去から禁断の秘密まで。ひみつのミュージカルですべてお見せします』

 すごいことが書いてあるけど、そのぶんなんかちょっとあやしげだ。

「広場の真ん中でなにぼさっとしてんだ。通行の邪魔だぜ」

 いきなり声をかけられてあやうく取り落としそうになったチラシをなんとか手に収める。

 こういう腹立つ登場の仕方をする知りあいはあたしには一人しかいない。

 ミュージカル劇団仲間のレインが目の前に立ってこっちを見ていた。

「あんた、あたしの行くところにちょくちょく現れるけど、案外ヒマなの?」

「少なくとも、用のないやつを訪ねるほどじゃねーよ」

「あたしに、用事?」

 ちょっとだけうきうきしてくるのはなぜだろう。

「魔法のミュージカル屋まで行っても留守だったからわざわざ探しにきてやったんだ。感謝しろ」

「……はいはい」

 で、用事って?

 そう訊くと、レインがふふん、と含みのある笑顔を見せた。

「今日、ハー・プリンセス劇場のレッスン室で自主練してるとき監督から聴いたんだけど。チュチュに、ハー・マジェスティー劇場の次の公演で手伝いをしてほしいって話がきたんだ。今回の公演での演技が、あの劇場の持ち主の目にとまったらしい」

 どきん、と心臓が大きく音を刻む。

 それって。

 レインは勝気に微笑んで親指をつきたてた。

「おそらく『オペラザの怪人』のバックダンサーか、かげコーラス。名もない役だけど、これはチャンスだぞ」

 ハー・マジェスティー劇場の『オペラ座の怪人』にあたしが!?

「どどどど、どうしよう、レイン。あの大きい劇場に出るなんて」

 震える両肩をぐっとつかまれる。

「落ち着けよ。お前にはいい手本がいるじゃないか。ティナさんだって、ハー・マジェスティーで歌ったことがあるんだから、いろいろ教えてもらえばいいだろ」

 優しく諭すようなレインの声はあたしを落ち着けてくれる。

 けど同時に、両肩が下がるのがわかる。

「それは、ちょっと無理かな……」

 レインは怪訝そうに首を傾げた。

「ティナさんなら、いくらでも協力してくれそうだけど」

「うん。それがね……」

 なかなか、簡単に切り出せずにいると。

「なんか、複雑そうだな」

 レインは人込みからかばうようにあたしを広場の片隅にいざなった。

 街頭によりかかって、あたしは話しだす。

「お姉ちゃん、舞台を降りてからぜったい歌おうとしないの。もう何年も、歌声、聴いたことない」

「……そうなのか」

「わけを聴いても教えてくれなくて。なんで歌手を辞めちゃったのかも――あたし、なにも知らないんだ」

 しばらく、初夏の風のささやき声と、休日を楽しむ人たちの喧騒だけが、遠くのほうで鳴っていた。

「今回の公演に来られないくらいお店が今忙しいのだって、あたし知らなかった」

 街頭では、ロンドンの冷たい風が、吹き続けている。

 レインの静かな声がする。

「チュチュは、悔しいんだな。自分がなにもできないことが」

 あたしは黙ってうなずいた。

 ほんとうは、わかってるんだ。

 お姉ちゃんが今回公演に来られなかったのはしかたないことだ。

 お客さんを元気にするためにいつでも一生懸命なんだから。

 でも、そんなお姉ちゃんこそ、ときどきなにか抱えていそうな気がしてしかたない。

「……あたしに、話してくれてもいいのに」

 ぽつり呟いた声は、今まで気づかなかったほんとうの気持ち。

 もう一度空を見上げると、そこにはレインの顔があった。

「それなら、探ってみたらどうだ」

 探る? どうやって?

 レインはどこか、挑戦的に微笑んだ。

「お前のミュージカル魔法、使うんだよ」

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