幕間 メリー・ポピンズの落とし物
① 出張依頼
窓から明るい陽射しが差し込んで、シックな赤い壁が、元気なオレンジ色に見える。
あたしはお店のカウンター席で、『雨に唄えば』の台本と楽譜を広げて最終チェックをしていた。
本番を明日に控えた貴重な休日。
監督からは、この日の自主練は軽いウォーミングアップにとどめて、なるべくリラックスして体調ととのえるように言われてるんだけど。
「出張の依頼?」
思わず台本から顔をあげたあたしに、お姉ちゃんはカウンターの中からうなずいた。
「えぇ。急なご要望でね。今日は予約がいっぱいで、お店を離れられないのよ。でも、ミュージカル界の超有名人で、それもお得意さんのたってのお願いだから、お断りするわけにもいかなくって」
なるほど。
あたしはどんと胸をたたいた。
「そういうことなら、任せてよ。あたし行ってくる」
お姉ちゃんは栗色の目を丸くした。
「いいの? チュチュちゃんにとって大切なこの時期に」
あたしは頭をかいた。
「じつを言うと、家にいても落ち着かなくって。かえっていいリラックスになるかも」
お姉ちゃんはお皿を拭きながら微笑んだ。
「それもそうね。じゃ、お願いしようかしら」
「オッケー。で――」
あたしはお姉ちゃんのいるカウンターの奥に身を乗り出す。
「だれなの? その、ミュージカル界のビッグな依頼主って」
正直、これが知りたかったっていうのもある。
お姉ちゃんが得意げな含み笑いをする。
「彼女の名は、メリー・ポピンズというの」
覚悟はしてたけど、耳を疑った。
「それって、ミュージカルにでてくる、あの?」
「えぇ」
「チューリップのついた帽子と紺のスーツで、オウムのついた傘で空を飛んで、ロンドンに家庭教師にやってくる……」
「そう、そのメリーよ」
今度はふんわりと、お姉ちゃんは笑っている。
「このお店はじめたときからの常連さんでね。たまにここへきて、一緒にお茶するの」
「……そう……」
お姉ちゃんのお店のふしぎには、慣れっこになったと思ったけど。
甘かった。
「セント・ジェームズ公園で大切なものを落としてしまったから、探してほしいみたいなの。落としたのはつい昨日のことだったらしいんだけど。お散歩しながら、『最高のホリディ』をお友達のバートさんと気持ちよく歌っていたら、つい落としてしまったんですって」
『最高のホリディ』は、ミュージカル『メリー・ポピンズ』の中のすてきな曲。
「それで、なにを落としたの?」
その質問に、お姉ちゃんが珍しく困った顔になった。
「それがね……教えてくれないのよ」
「なにそれ」
それじゃ探しようがないじゃん。
お姉ちゃんはしかめっつらと、厳しそうな声音をつくって、
「『それは言えません。だれにも。あのようなものがわたしの持ち物だなどと、口にするだけでも名誉にかかわります。落し物コーナーからさりげなくつきとめて、魔法のミュージカル屋の商品とでも言って持ってきてください』」
そして、いつもののんびり口調に戻って、
「って言うのよ~」
ますます、なんだそれ!
たしかに、厳しくて、ちょっとうぬぼれやさんのメリーらしいけど。
「わかった。なんとか、探してみる」
「よろしくね、チュチュちゃん」
お姉ちゃんに向かってうなずくと、あたしは急いで、朝食のスクランブルエッグの残りをかきこんだ。
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