⑨ 残念なファントム、あらわる

 天使の像の広場は、ロンドンで有名な待ち合わせスポットだ。

 石で作られた段が何段か重なって、高く作られた天使の像をかこってる。

 なんとなく、まっすぐ家に帰る気にならなくて、あたしはその三段目に座って、ぼうっと空を見ていた。

 手にはさっき買ったパンくずの袋。

 よってくる鳩たちに配りながら、考えるのは、もちろんオペラ座の怪人さんのこと。

 あたしが、その気持ちをわかってる犯人って。

 いったいだれ?

 うーん。

 うなっていると、ばたぱたっと音をたてて、目の前を一羽の鳩が飛び去って行った。

 音楽が鳴りだしたからだ。

 ゆるやかな優しい、ピアノの音楽。

 広場の奥に、最近風変わりなグランドピアノが置かれたんだ。

 夜空のような深い青色。蓋には大きく赤いリボンのような模様。――イギリスの国旗が描かれてて、鍵盤の蓋をあけると、「あなたのピアノです。ご自由にどうぞ」って書かれてる。

 通りすがりの人がだれもが弾いていいピアノなの。

 今日もだれかが弾きはじめたんだ。

 そのメロディーがなんの曲かはすぐにわかった。

 はじめて観たミュージカルで、お姉ちゃんが歌っていた曲だ。

『オペラ座の怪人』でクリスティーヌが歌う、恋の歌。

『スィンクオブミー』、意味は『わたしを想って』。

 夕焼けの日差しが、揺れる曲線を描いて、広場の周りを――白い壁とグレーの屋根で統一されたお城のような建物たちを、少しずつピンクに染めていくような錯覚に陥る。

 ピアノで聴くと、こんな気持ちになるんだ。

 いつの間にか悩むのも忘れて、目をつぶった。

 今まであのピアノが奏でられてるのを何度も聴いたけど、そのどれより澄みきって、 優しい音。

 気がついたら曲が終わっていて、我に返る。

 だれが弾いていたんだろう。

 立ち上がって、ピアノが置いてある広場の奥まで行ってみる。

 青いピアノから立ち上がって背を向けたその人物を見て、あたしは二、三回、目をこすった。

 底なしの闇のような真っ黒いタキシードとマント。

 そして、顔には白い仮面――まるで、おそろしい素顔を隠しているみたいな。

 びびっと、電撃のようなものが全身を貫いた。

『オペラ座の怪人』にでてくるファントムは、音楽の天才だ。

 きっとあんなふうに、ものすごくきれいなピアノを弾く――。

 そう思うやいなや、あたしはだっと駆けだしていた。


「待って!」

 タキシードの下から除く白い革靴が、音もなくとまった。

 白い仮面をつけた顔が振り返る。

 息を整える時間すら惜しい。

「あなたっ、オペラ座のっ……怪人?!」

 マスクの奥の目があやしく笑ったような気がした。

「いかにも」

 仮面をつけた男は白い手袋に包まれた手を胸にあてて、きれいに礼をする。

「ファントムお兄さん、とでも呼んでくれたまえ」

『ファントム』、幽霊――それは、オペラ座の怪人の二つ名。

 鋭い息が、口から洩れる。

 ヴィヴィちゃんをころばせたのも、レッスンを邪魔したのも。

 あたしに脅迫状をよこしたのも、この人――。

「どうしてあたしたちのミュージカルを邪魔するの? いったいどんなわけがあるの? ねぇ」

 一歩一歩近づきながら、訴える。

「ミュージカル? あぁそうか。きみは女優さんなのかい」

 仮面の下に見えている口元が、優雅に微笑む。

「どうりで。さっきからずっとピアノを聴いてくれていたね。いい音を聴きわける耳があるようだ」

「とぼけないで。そうよ。あたしはハー・プリンセス劇場で今度主役をやるの! 知らないとは言わせないんだから。あなたが脅迫状を送ってよこした、チュチュ・チェルシーよ!」

 びしっと、人差し指をその仮面に突きつける。

「お願い、ハー・プリンセス劇場のミュージカルをめちゃめちゃにするのはやめて。『雨に唄えば』を成功させるために、みんな必死でがんばってるの!」

 白い二つの手袋が、ダークスーツの前でひらひら動く。

「ちょっと、待ってくれ。きみはなにか勘違いしているようだ。たしかに僕は怪人だが、怪しいものではないんだ」

 ひゅるるーと、冷たい風が吹く。

 顔に仮面をつけてる。

 そして、自称怪人とくれば。

 めちゃくちゃ怪しい。

「これ以上とぼけるなら……問答無用!」

 それっ。

 自慢の身の軽さを駆使して、あたしはけりをくりだした。

 でも、その足は宙をきる。

 かわされた!

 目の前に、漆黒の闇が広がったと思ったら。

 上からきらりと光るものが落ちてくる。

 とっさに受けとめたら、それは涙の形をしたネックレスだった。

 繊細にカットされてて、光の加減によって、金色やオレンジに光る。

 ゴールド・ダイヤ?

 きれい。

 でも今はそれどころじゃない。

 前と右左を見渡しても、ダークスーツはどこにも見当たらなかった。

 怪人が、消えた?

「やれやれ」

 声がしたのは、すぐ後ろから。

「ハー・プリンセス劇場のうわさなら知っている。まったく、とんだ濡れ衣だ。犯人がこのわたしなんてね」

 振り向いたら、怪人がやれやれと肩をすくめていた。

「ファントムは、ミュージカルの最後、改心して恋する人をオペラ座から逃がしてあげるということをこの街の人は知らないのかな」

 どこかで聴いたセリフだ。

 犯人は、この人じゃない……?

 でも、本人の主張だけじゃわからない。

 どう判断すべきか迷っていると、怪人が両足を曲げた。

「あいたたた。高跳びなんて久しぶりだから膝にこたえたよ」

 無視して、あたしは話を進める。

「整理すると、あなたはたしかにオペラ座の怪人。だけど、ハー・プリンセス劇場の呪いはあなたのしわざじゃない。犯人は別にいて、それをオペラ座の怪人のせいにしてる。そういうこと?」

 膝をとんとんとたたいて、怪人は両手を広げた。

「そのとおり。きみ、なかなかさえてるね。さすが女優さんだ。長いせりふを覚えたりするの、得意なんじゃないかい?」

 こっちまで膝の力が抜けそうになる。

 怪人にしてはいまいち、迫力というか、威厳にかけるな。

 よし。いっちょ、確かめてみるか。

「あなた今、どこに住んでるの?」

 オペラ座の怪人ならパリのオペラ座の地下に住んでいて、劇場には自分専用のボックス席を持っているはず。

「この通りを行ったさきのアパルトマンだ。ワンルームだが家賃は安いし、駅には近いし便利なんだよ」

 ……。

「じゃ、次の質問。クリスティーヌって女の人に失恋したこと、ある?」

 怪人は衝撃を受けたように胸を抑え、数歩下がった。

「あぁ、過ぎし日の恋の思い出よ。彼女はまさにクリスティーヌのようだった。美しい声、立ち姿。違いといえばその名前くらいだ」

 あたしはだいたいのことを把握する。

 この人は、オペラ座の怪人もどき、もしくはマニア……つまり、ちょっと残念な人だ。

 事件とはなんの関係もなさそう。

 せっかく犯人を見つけたと思ったのに。

 がっくりきていると、怪人もどきが近寄ってきて、手を差し出してきた。

「ところで、それ、そろそろ返してもらえるかな?」

 あたしは、手にもったゴールドダイヤのネックレスをかかげる。

「これ、あなたの?」

「あぁ。さきほどの見事な跳躍のとき、不覚にも落としたらしい。肌身離さずもっている、命より大事なものでね」

 ふーん。

 これってそんなに高価なの?

「大切な人からの預かりものなんだ。正確に言うと、昔怪盗をしていたときに、盗んだんだけどね」

「なんで大切な人から盗んだりするの?」

 そう訊いてみると、彼は片手を空に向かって伸ばし、もう片方の手で痛むように胸をさすりだした。

「もちろん、悲壮かつ高尚な決意のためだ。僕は彼女にはふさわしくない悪党だとわかってもらうそのために――怪人の恋はつらいのさ」

 さっきは怪盗って言ってなかった?

「でも、彼女がそれをわかってくれた今、ずっと盗んだままじゃ悪いだろう? というわけで、こっそり返せる日をうかがっているんだ」

 もう、なんでもいいや。

 あたしはきれいな涙型のネックレスをエセ怪人の手袋の中に置きながら言った。

「そんなの、ごめんなさいって返しちゃえば手っ取り早いのに」

 大事そうに、ネックレスが漆黒のタキシードの内側にしまわれる。

「わかってないなぁ。一度盗んだものを面と向かって『返します』なんて、そんなことをしたら、世紀の大怪盗として、かっこわるいじゃないか」

 なんか、いろいろめんどくさいな。

 とはいうものの、ちょっとは気になる。

「その彼女って、どんな人?」

 ふふん、と仮面の下の口元が上機嫌に笑う。

「可憐で笑顔がチャーミング――そう、まるであの大女優、オードリー・ヘップバーンのような」

 すごいほめようだな。

 オードリーは名前を知ってる人も多いよね。『ローマの休日』や『マイ・フェア・レディ』。数々の映画に主演した昔のきれいな女優さんだ。

 あたしもあんなふうになれたらって思うけど。

 まだまだだよね。

「そんなことはない。オードリーもたくさんいやな想いや挫折を経験したと思うよ。彼女の歌が、幻の歌声と呼ばれているのを知っているかい?」

 あたしはふっと顔を上げた。

 知らなかった。

 それだけ歌が上手だったってこと?

「いや、じつはその逆でね。彼女はあまり歌が得意ではなかった」

 あたしは目を丸くした。

 意外だ。

「ミュージカル映画が全盛の時代、歌のシーンだけ代理の女優の歌声を使うことがままあったんだ」

 それなら知ってる。

 あたしたちが演じる『雨に唄えば』もその時代を舞台にした作品だ。

「オードリーも、自分の歌声が映画に流れると信じてたくさん練習していた。ところが実際に映画に使われたのは、歌の得意な別の女優の声だったんだ」

 表舞台に出るのがかなわなかったから『幻の歌声』なんだ――。

 夕日が作る自分の影をあたしは見下ろす。

 そのときのオードリーの気持ちが、手に取るようにわかる。

 たくさん練習した演技や歌が、舞台で使い物にならないって言われた悔しさ。

 それはオーディションに不合格になるたびに、あたしが味わってきたものだったから。

「すてきな作品にはそのかげに、たくさんの人の悔し涙があるんだね」

 あのオードリーでさえ、その涙をのんだ。

 選ばれたたった一人の後ろには、選ばれなかったおおぜいの人たちがいる。

 それは、今回あたしが合格したキャシー役のオーディションだっていっしょだ。

 あたしが合格したその日、必死に努力したのに選ばれなくて泣いた子もいたかもしれない。

 その子たちの分まで、あたしはがんばらなきゃいけないんだ。

 ぐっとこぶしをにぎってタイルにうつる影を見たとき、そこに誰かの面影がみえた。

 さみしそうに震えてるその姿。どこか悔しそうな顔。

 あ……!

 夕日が明るく差し込んで、影を薄めていく。

「怪人さん」

 ちっち、と白い手袋の細い指が揺れる。

「ファントムお兄さんだよ」

「……ファントムお兄さん」

 顔を上げて、あたしは言った。

「あたし、わかったかも。オペラ座の怪人をかたった人の、正体」

 白い手袋が、ぽんと肩に乗せられる。

「ミュージカルの成功を祈る」

 思ったよりしっかりした感触だった。

「ひまなら観に来て。来月の最後の週の土曜から、ハー・プリンセス劇場の大ホールだよ!」

 手を振りながら、家に向かって走る。

 オレンジの光に照らされて、白い豪華な街の建物が、優しくまどろんでいた。


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