② あたしのセールスポイント
オーディション会場は十五分ほど歩いたところ、ハー・プリンセス劇場の地下一階。
いくつも並んだレッスン室のうちひときわ大きな突き当りの部屋のドアに、張り紙がしてある。
『雨に唄えば』ヒロイン代役オーディション
主催しているのは劇団ポップドロップ。ハー・プリンセス劇場と契約している劇団の中でも花形劇団って言われてる。満員御礼、ロングランを当たり前にやってのける実力派子ども劇団なんだ。
受付を済ませて部屋に入ると、レオタードを着た女の子たちがずらり。柔軟したり、発声したり、鏡でポーズをチェックしたり――うわ、みんなすらっとしてきれい。
ほっぺたをたたいて、自分にカツを入れる。
まずは装備。運動靴を脱いで、バレエシューズに履きかえなきゃね。あたしはかばんから、シューズを取り出して右足を滑らせる。
あれ。おかしいな。
黒いシューズの長い紐を結ぶのにはとっくに慣れてるはずなのに、今日に限ってうまくいかない。リボン結びのリボンの部分が小さすぎたり、手が滑ったりして、真ん中の結び目をなかなかくぐってくれない。
なんで?
あたしってこんな不器用だっけ。
とほうにくれていると、自分じゃない手が、あたしのシューズの紐をぐっとつかんだ。
「貸してみろ」
その手はあっという間に紐を結んでしまった。
いつもあたしが結ぶよりずっときれいなリボンの形があっという間に現れる。
あたしはあわてて顔を上げた。
「あ、ありが……」
すらっとした男の子が目の前に立っていた。
かちあったその目は優しいチョコレート色。大きいけどきりりとしてる。
髪はあたしよりずっと淡くて柔らかな、ダークブラウン。
あたしと同い年くらいかな。練習着も様になってる。
お礼の言葉を途中でとめるほど、不覚にもかっこいいって思った。
あたしは、今日はヒロイン役のほかに、主人公の親友役のオーディションも同時に開催されることを思い出した。この子も受験生かな。
そんなことを思っていると、その子は言った。
「朝ごはん、食わないできたな?」
がんっ。なんでわかったんだろう?
彼はあたしの心を読んでるみたいに、腕を組んですわった目でこっちを見てくる。
「顔を見ればわかる。手の震えの原因は緊張だけじゃない。栄養不足だ。体重管理は、ダンサーに必要だけど、コンディションや心の管理も同じくらい、大事だぜ。あんまり無理なことすんな」
知らない子に、かるくしかられて、優しく首をかしげて微笑まれて――なぜか、ほっとする。
「あ、そうだ」
彼は練習着のポケットから、おしゃれな色紙に包まれたなにかを取り出した。
「これ、やるよ」
カラフルな包みのキャンディー。開けばそれは、バレリーナの形。
「踊り子糖っていうんだ。ベストな精神状態で踊るのに、ほどよい糖分が入ってる」
知ってる。とてもよく。
「うちの劇団がいつも『魔法のミュージカル屋』からとりよせてるものなんだ。いいミュージカルをつくるのにあそこのサポートは不可欠だから」
お姉ちゃんのお店を、そんなふうに言ってくれるなんて……。嬉しくなる。
思わず、ありがとうって言葉がのどまででかかったとき。
帽子をかぶって、ひげをはやした、いかめしい顔のおじさんがあたしたちのあいだを横切ってレッスン室に入っていく。
片手にはペンと、線と文字がいくつも書き込まれた紙。
ちょっと怖いくらいの威厳ある雰囲気。
あれはきっとポップドロップの演出監督さんだ。
こんなところで油売ってる場合じゃない!
受験者の列に並ばなきゃ。
リュックをつかんであわてて足を踏み出すと、ぽんと肩にあったかい感触がした。
不思議な気持ちがした。
かちこちになってた心の中が、ふっとやわらかくなったような。
耳元にきこえてきたのは、靴紐を結んでくれた男の子の声だった。
「どうか、きみの実力が出しきれるように――幸運を祈る」
その言葉には、できるだけのとびきりの笑顔で答える。ついでに、さっきもらった 踊り子糖がはいった右手の親指を、ぐっとつきたてた。
いよいよオーディションが始まる。
よくとおる太い声で、監督が説明したところによると、審査は課題曲を歌いながらのダンス。ここは待合室になるらしい。
審査はハー・プリンセス劇場の舞台で行われる。
受験番号と名前を呼ばれた子が次々と、審査が行われる舞台にむかっていく。
あたしの番号は十二番。そろそろ呼ばれるころだ。
柔軟体操しながら頭に浮かんできたのは、お姉ちゃんのことだった。
今頃は、午前中に予約が入ってたお客さんにピアノを弾いてるころかな。
足を開いて、伸ばした背筋が、かすかに痛む。
今朝、悪いこと言っちゃったな。
落ち込んでなきゃいいけど。
八つ当たりなんて。
やっぱりあたし、ダメなチュチュだ。
床に向かって背中を倒したひょうしに、ポケットからかさりと音がする。
さっき男の子からもらった踊り子糖をとりだすと、ぱくりと口に放り込んだ。
ほんのり甘い、リンゴ味。お姉ちゃんお手製の踊り子糖には十種類以上の味のヴァリエーションがある。そのどれにもリラックスと、気持ちを前向きにさせる効果があるんだ。
『あんまり無理なことすんな』
さっきに言われた言葉がなぜか頭に響く。
そうだ。
つい力が入りすぎちゃって、今までさんざん失敗してきた。
それなら、今日は――別の作戦でいこう。
「十二番、チュチュ・チェルシーさん。舞台へどうぞ」
あたしは立ち上がった。
ところが舞台に出て行ったとたん、気合もヘチマもふっとんでしまった。
だって。客席中央に作られた審査席。
監督の隣に座っていたのは、さっき、踊り子糖をくれた、あの子――。
オーディションの審査員だったの!?
彼はあたしを見ておもしろそうに笑った。
シャツにつけたピンマイク越しの声が、舞台までとどく。
「チェルシーさん。審査を始める前に、課題曲への意気込みを聞かせてくれる? 自信がある箇所とか、アレンジとか。きみのセールスポイントが知りたいんだ」
あたしは固まった。
セールスポイント、あたしの売り……? なんだろう。
今までそれをつくるためにさんざんレッスンしてきたはずなのに、頭の中が真っ白になる。
そして浮かんできたのは、さっき立てた、作戦だった。
気づいたら、言葉がでていた。
「楽しく、踊ります。ものすごく、楽しみます」
シーン……。
審査員席が静まり返る。
彼を見ると、ペンも動かさずに目を見張ってこっちを見てる。
きっとあきれてるんだ。
思わずうなだれかけた背中をあわてて伸ばしたとき。
笑い声が響いた。
彼が、笑っていた。
相変わらず無表情な監督の隣で、けらけらと。
「そりゃいいや」
係の人がやってきて、ピンマイクを身体につけてくれる。
「それじゃ、始めるよ。――楽しんで」
彼はそう言うとあっさり、客席の上に置かれたボードの上のCDプレイヤーのスイッチを押した。
課題曲がかかる。
あたしはあわててステップを踏み出した。
リズムに合わせて、人差し指でボードをたたく彼。
なんだろう。
楽しい。
曲はあっという間にサビへ。
ここは激しくて一番難しいステップ。
でも、身体に羽が生えたみたい。
二十四時間、あなたに夢中っていう歌詞が、自然に口をついてでる。
そうだ。
厳しい体調管理や練習で忘れてたけど。
あたし、ほんとは夢中だった。
ミュージカルに、恋してた。
そう思った瞬間、ぐんと身体が重くなる。
何かが身体からいきおいよく落ちる。
衝撃につられて、ぐらりと身体が傾いた。
いつもなら、確実にパニックになってる。
でも不思議だった。
頭の中から声がする。
マイクの装置が落ちただけ。
大丈夫。気にしないで続けるの――。
終わりまで踊りきったとき、小さなライトしか使っていないはずの舞台が、あたしには光の園に見えた――。
舞台の上、横一列にずらりと並んだ受験者の子たちはみんな、両手を組んで結果発表を待っている。
心の中で神様に祈る、緊張の瞬間。
あたしの心はお姉ちゃんに話しかけていた。
「それでは、劇団ポップドロップ六月公演『雨に唄えば』キャシー役オーディションの合格者を発表いたします」
あのね、お姉ちゃん。
すごいんだよ。
踊るのがあんなに楽しかったの、しばらくぶりだった――。
「十二番、チュチュ・チェルシー」
スポットライトの光に弾かれるように、あたしは倒れていた。
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