序幕 はじまりはオーディション
① いらっしゃいませ、魔法のミュージカル屋さんです
ピカデリーサーカスのハー・プリンセス劇場は、ロンドンの街にきたら、ぜひ行ってほしいイチオシの場所だ。
ハー・マジェスティー劇場の娘分と呼ばれてるんだけど、その呼び名のとおり、どっしりしててライオンの紋章までつけてるハー・マジェスティー劇場にくらべると、ちょっと小さめで、そしてぐんとラブリー。壁は黄色やピンクのレンガでできてて、とんがった棟は黄金色。てっぺんに、その時上演されてる演目のイメージにあわせた旗がはためいてる。最上階には半円の大きなバルコニー。シンデレラが別荘をもつならこんな感じかも。女の子ならだれでもうっとりしちゃうようなかわいらしさだ。
なによりうれしいのは、ハー・マジェスティー劇場よりちょっとだけ安く、本場のミュージカルが観られること。
薄いピンク色の天幕と、音楽の女神の彫刻で飾られた舞台に立つのは、もちろん一流と認められたミュージカル俳優たち。ただし――十六歳以下の。
そう。ここは、子どもの劇団員だけでつくられてる劇団専用の劇場なんだ。
だからといって甘く見たら大やけど。
みんな厳しい入団試験と、レッスンを重ねてるから、毎晩スタンディングオベーション(上演後にお客さんが立ち上がって拍手すること)の嵐なんだ。
ミュージカルに酔いしれたあとは、のんびりその世界にひたっていたいもんだよね。
そんなときこそ、あたしは声を大にして言いたい。
ちょっとだけ、うちに寄ってって!
劇場の大通りを十五分くらい歩いたところにある小道を曲がると、赤茶色の扉が見えてくる。
その上のト音記号の看板をよーく見たら、きっと見つけられるはず。
『魔法のミュージカル屋さん』の文字が。
一階のフロアをまるまるつかっているそのお店は、壁一面が深い赤で統一されている。ほどよく配置されてる、周りを金でふちどられた、様々な形の肖像画の中には、昔のミュージカルスターや、ミュージカルにでてくる登場人物。奥には広いカウンターがあって、お酒や紅茶の瓶がきらきら光ってる。カップに紅茶をつぎながら、お姉ちゃんが軽く手をあげた。
この店の店主のお姉ちゃんは、はちみつを垂らしたような金髪を編んで、後ろでまとめてる。サイドにはゆるくカールした後れ毛。まつ毛は長くて、栗色の瞳はいつも秋の泉の底みたく揺れてる。はっきり言って、かなりの美人。どんぐり目にぷっりほっぺのあたしとはくらべるべくもない。しかも、もと天才ミュージカル女優。同じ姉妹なのに神様はなんで不公平なんだろう。
お姉ちゃんは、あたしにミュージカルのレッスンをつけてくれる師匠でもある。
師匠のお店を手伝うのは弟子のあたしの仕事だ。
カウンターをはさんだお姉ちゃんの向かい側にいるのが、今日のお客さん。濃い紫のロングドレスがぷっくりした身体を覆っているおばさんだ。大粒の宝石の指輪がいくつもついてる両方の手で、うすピンクの帽子の下の丸い顔を覆っている。
ぴょこんと、あたしはお客さんの隣の席に座った。
「おはよう、おばさん。いい朝ね」
そう挨拶すると、それまでうつむいていた顔をぱっとあげてこっちを見てくれた。
「あぁぁ、チュチュちゃん。いい朝だなんて、あたくしにこのさき巡ってくるのかしら?」
大きめの上半身の前で何度も十字架を切ってお祈りしてるのは、本人には悪いけど、ちょっとおもしろい。
「じつはね、あたくし、もうすぐ死ぬの。呪われているのよ――オペラ座の怪人、ファントムに」
「バーナード夫人」
諭すように、ゆったりとお姉ちゃんが笑った。
「ファントムは、ミュージカルの最後で改心しています。人殺しなどしませんわ」
「いいえ。もうずっとなんですからね。夜になるとオペラ座の怪人のうめく声がするの。あたくしのうち、このすぐ近くでしょう? パリのオペラ座をあとにした怪人が、はるばるよりによってこのロンドンのハー・プリンセス劇場に引っ越して住み着いてるってもっぱらのうわさじゃない。きっと夜な夜な抜け出してはあたくしの枕元に呪いの呪文を……もう怖くて怖くて」
カウンターバーに泣き崩れるバーナードおばさんに白いハンカチを渡してから、お姉ちゃんはあたしを見て微笑んだ。形のきれいな眉を下げて、接客用の白いカットソーから見えてる細い肩を、ちょっぴりすくめてみせる。
おばさんの言う怪人のうめき声は、となりで寝てるおじさんのいびきってことをあたしもお姉ちゃんも知ってる。
それから、おばさんがホラー映画や怪奇小説を読むと眠れないたちで、そのくせそういうのが大好きなんだってことも。
「チュチュちゃん。不眠に効く処方箋のお手伝い、お願いできる?」
「がってん」
カウンターの反対側に、茶色いアップライトピアノがある。
お姉ちゃんにうなずくと、その前に、あたしはスタンバイした。
まだハンカチで目を抑えてるおばさんの背中を支えながら、お姉ちゃんが歩いてくる。
「ご安心くださいな。さっそく、ミュージカルナンバーを処方いたします」
「頼みますよ。なるべく強力なやつ」
ピアノから少し離れたたった一つのテーブル席におばさんを座らせて、お姉ちゃんはピアノのふたをあけ、両手をその上に置いた。その栗色の目と、あたしの目があった――今だ。
どこかのんびした、かわいらしい前奏が流れ出す。
あたしはお姉ちゃんのピアノに合わせて、『さよなら、ごきげんよう』を踊った。
有名なミュージカル『サウンドオブミュージック』の中の曲。楽しいパーティーが 終わって、子どもたちが大人にお別れを告げて休みにいく歌なんだ。まだ遊びたいけど、もう寝る時間。おやすみなさい……。
あっという間に、曲は最後のターン。なるべく眠気を誘うように、両手を広げてふんわりと、軽やかに回る。
つまさきでなるべく音をたてないように着地をしたとき、ふわぁぁっという野太いあくびが聞こえた。
「さすがは一流のミュージカル屋さんね。オペラ座の怪人が地の果てから叫ぼうが、今夜はよく眠れそう」
すかさず、お姉ちゃんはポプリのような袋を、おばさんの手に渡す。
それは、店の棚にも並んでる、音符の形をした角砂糖だ。
「こちら、お薬です。眠れないとき紅茶に落とすと、カップがこの曲を奏でて、すぐに眠くなりますわ」
満足したおばさんはお会計を済ませて赤茶色のドアの取っ手をとった。
「また来るから、そのときも安くていいナンバーを期待してるわ」
振り返ったときに見えた、厚くて真っ赤な唇の両端が上をむく。
「ありがとうございました」
お姉ちゃんがきれいなおじぎをしたのにならって、あたしもあわてておだんごの頭を下げた。
とまぁ、お姉ちゃんのお店のお仕事はこんな感じ。
『魔法のミュージカル屋さん』は簡単に言うと、元気がない人に、ミュージカルのワンシーンや音楽、ダンス、お薬という名のグッズを処方して、元気を取り戻してもらうお店。
バーナードおばさんみたいに、健康診断代わりみたいに来る常連さんもいるけど、もっとちゃんと、深刻な問題をかかえて元気をなくしてるお客さんだって、たくさんくる。
時にはミュージカルに出てくる登場人物たちがお茶を飲みがてら相談ごとにきたりもするらしい(手伝いのあたしはまだ会ったことないけど)。
ここへきて、話はようやく冒頭に戻る。
ミュージカル女優になりたい。新しい夢を見つけたそのときから、コッツウォルズっていう田舎町にいるパパとママと離れて、ミュージカルの劇団や劇場がわんさかあるロンドンのお姉ちゃんのところで一緒に暮らしてるのは、そのチャンスをつかむため。
じつは今日も、これからミュージカル劇団募集のオーディションにでかける予定だったりする。
ぶっちゃけると、今まで不合格になったオーディションは星の数ほど。
でも、今度こそ、ぜったい合格するんだ。
意識したら、お腹のあたりが鈍く傷んだ。
だめだめ。
本番に向けて万全の状態でいることも、試験のうちなんだから。
カウンターに腰かけると、香ばしい香りといっしょに、コトリとなにかが目の前に置かれる。
黄色いスクランブルエッグに、ケチャップをかけたソーセージ。ビーンズのトマト煮と、カリカリのベーコン。
完璧な定番朝食プレートだ。
そして一曲踊った今、すごくお腹がすいてる。
ふつうならうれしい気づかいのはずなのに、今のあたしには拷問だった。
手をつけずにいると、横から金色の後れ毛がのぞき込んでくる。
「チュチュちゃんたら、昨日からなにも食べてないでしょ?」
そう。
ダンサーにとって、踊ったとききれいに見えるように、体重をコントロールするのは大事だから、ときにはお腹がすいても食べるのを少しにしたりする。
でもあんまりそういうことをするとお姉ちゃんが心配するから、
「さすがに、緊張してるんだよね」
っていうことにする。
お姉ちゃんはしばらく、あたしを見た。長いまつ毛が伏せられてる。
「チュチュちゃんがつらいなら、オーディション、無理して受けなくていいのよ」
朝食の優しい香りが、声が、どうしてか神経に触った。
「なんでそんなこと言うの!? あたしはどうしても今回のオーディションに受かりたいの」
お姉ちゃんの栗色の瞳が、見開かれる。
「お姉ちゃんにはわからないよ。天才歌手だった人に、何度も失敗して、振り落とされる悔しさなんか!」
あたしは乱暴に階段を駆け上がて部屋から用意してあった荷物をつかむと、また一階に駆け下りてドアを出た。
「チュチュちゃん――」
お姉ちゃんに、行ってきますすら、言わなかった。
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