行くところのない女
増田朋美
行くところのない女
行くところのない女
暑い一日だった。最近は暑い日が多い。梅雨の季節だというのに、なぜか暑い日が続いている。梅雨は何処に行ったのだろうか、とか、思われてしまうのではないかと思う。それゆえ雨が降れば、大災害となってしまうし。もう一体何だろうか、と思われる日々である。
その日、ジョチさんは、知り合いの参議院議員である、中澤議員の還暦祝いに出席するため、富士グランドホテルにいった。とりあえず、二時間ほどでパーティーは終了し、ジョチさんは、小園さんの運転する車で自宅兼焼き肉屋ジンギスカアンに帰ってきた。
「ただいま帰りました。」
と、ジョチさんは店舗の正面玄関から、一応自宅の一部になっている、店舗の中に入った。客は何人かいたけれど、皆楽しそうに焼肉を食べていた。
「お兄さんお帰りなさい。」
君子さんが、迎えに出てくれたけど、何か様子が変なのだ。何か困った事があったような、そんな顔をしている。
「どうしたんですか。何か困ったことでもありましたか。」
「ええ、それが、、、。」
と、君子さんは、一寸嫌そうな顔をした。
「どうしたんですか。何かあったんですね。隠しても、そのうちわかってしまうことだし、何かあってからでは遅いんですよ。其れよりも、敬一は何処に行ったんですか?」
ジョチさんが、そういうと、
「ええ一寸トラブルがありまして。」
と、君子さんがいった。
「何か家庭争議でもしたんですか?」
と、ジョチさんがいうと、
「いや、家庭争議というモノではありません。でも、それに近いと言えば近いです。実は今、お客さんが来ていて、敬一さんは彼女の相手をしています。名前は、望月れい子という女性で。」
君子さんはそういったのであった。
「望月れい子?ああ、何処かで聞いたことがある名前ですね。」
「ええ、お兄さんだったら、すぐわかると思います。望月さんと言えば、あの大物議員として有名な、、、。」
「望月修一郎衆議院議員ですね。僕たちが支持している党とはまた別の党に所属していますので、僕はあまり親しく付き合った事はありません。しかし、望月議員というのは、国会に関わる方であればすぐにわかってくれることでしょう。そして、望月れい子さんは、」
「ええ。望月さんのお姉さんです。」
ジョチさんがそういうと、君子さんは、そういった。
「それはしっています。しかしなぜ、彼女がうちに来たんですか?一番問題になるのはそこでしょう。」
ジョチさんがそういうと、座敷席の方から、泣き声が聞こえてきた。其れから判断すると、女性の
声だった。ジョチさんは、仕方ありませんね、と、いいながら、その声がする方へいってみた。座敷席は、個別になっていて、ふすまで間仕切りをしているようになっている。ジョチさんはふすまを開けて、失礼いたします、といい、その個室へ入った。
「おう、兄ちゃんか。お帰り。中澤さんの還暦祝いどうだった?」
太ったチャガタイがジョチさんの方を振り向いた。その向かい側に、泣いている女性の顔が見える。化粧も涙で落ちてしまって、大変な顔になってしまっているが、彼女は、間違いなく、望月修一郎衆議院議員のお姉さんの望月れい子さんだった。
「すみません。望月れい子さんですね。僕は、この店の当主をしています、曾我正輝です。一体どういう理由でうちの店にいらしたんですか?」
「いやあねえ、兄ちゃん。そんな深刻な聞き方しないで、もっと明るく話してくれよ。なんでも彼女がこの店で働かせてくれというんだ。そりゃあ確かに、この店は人が足りないことで困っているんだけどさ。」
ジョチさんが聞くと、チャガタイは急いでいった。
「そうかもしれませんが、大物議員のお姉さんを焼き肉屋で働かせるというわけには行きません。そんなことをしたら、望月議員に何をいわれるかわかりませんからね。」
と、ジョチさんはいった。
「そうだけど、兄ちゃん。そこをまげて何とかしてあげようよ。髪形を変えるなどとして、ごまかせば、何とかなるんじゃないか?彼女、すごく悩んでいるようだし。俺も、それを解決させてやるには、彼女を家の外から出してやるしか方法が無いと思うんだよ。ほら、あの顔を見ればわかるだろ。もしかしたら、うつ病とか、そういう事もあるかもしれない。だからさ、うちで働かせてあげようじゃないか。」
チャガタイは、いつもと変わらず、のんびりした口調でそういうことをいうのだが、ジョチさんは深刻であった。
「しかしですね。与党の大物議員のお姉さんをこちらでかくまったとなると、僕たち自身の立場という物もありますし。」
ジョチさんは、一寸ため息をついた。
「兄ちゃん。そういう立場とかそういうことに拘っていたら、人助けはできないぞ。彼女は、かわいそうな女性じゃないか。何とかしてやらないと、このままでは、発狂してしまう可能性もあるよ。」
「そうですが、僕も先ほど、中澤議員の還暦祝いに出席したばかりなので。中澤議員といえば、望月議員と喧嘩のような討論をすることで有名ですよね。国会中継を見ればわかると思いますけど。」
ジョチさんがそういうと、チャガタイはそれもそうだなという顔をして、また困った顔をした。
「ごめんなさい。申しわけありません。私がどうしても普通になりたいと思ってしまったばっかりに。」
座席から、望月れい子さんの泣き声が聞こえる。
「普通になりたい?それはどういう意味でしょうか?」
ジョチさんが急いでそう聞くと、
「いえ、私が、あまりにも周りの人たちと違いすぎるから。それは、弟が有名になって、経済的にすごいことになっているから、そのおかげじゃないかって、いうものですから。それで私はどうしても普通になりたくて、それで家を飛び出して来てしまったんです。」
と彼女は答えた。
「そのおかげじゃないかと言ったのは、だれなんでしょうか?ご家族?ご親戚?其れとも友人のかたでしょうか?」
とジョチさんがいうと、
「ええ。家族はそういうことは言わないようにしてくれたんですが、世間がそういっています。家族はそういうセリフを言わないようにしていますが、周りの家の人がそういっています。それは本当です。だって、それが聞こえてくるんですから。それに、私の周りには、いつもお手伝いさんがいて、私がおかしなことをしないように、見張りをしているんです。」
と、彼女、望月れい子さんは答えた。
「その、見張りをしている人物は、なんという名前なのでしょうか?」
ジョチさんが聞くと、
「名前はわかりませんが、女の人です。でも、本当なんです。私を監視している、看守みたいな人がいうんです。弟が、何かいっているのかもしれません。弟が、雇っているのかも。」
と、彼女は答える。
「じゃあ、その女性は、いつも何をしているんですか。掃除ですか?洗濯ですか?其れともほかの事を手伝っているのですか?」
ジョチさんはもう一回言った。
「そんな事はしていません。私が何かして言うのかを監視して、弟に報告しているんだと思います。」
「はああ、幻覚ですね。」
れい子さんの発言を聞いてジョチさんはそう結論をつけた。
「おそらく彼女は、何らかの精神疾患でしょう。影浦先生に見せればすぐにわかると思います。でも、こういう障害のある人は、嘘をつくということは難しいと思われますので、幻覚の中に真実が混じっていると考えましょう。もちろん、彼女の事を監視している看守という物は存在しないと思いますが、彼女が、弟さんの家庭にいて、何か居づらいことがあるということは真実だと思います。」
「兄ちゃん、そんな分析はしなくて良いから。それより、彼女の居場所を何とか作ってあげようよ。彼女は、本当に行き場所がなくて、悩んでいると思うよ。それだから、彼女は幻覚とか、そういう症状があるんだよ。そんな分析するよりも、何かしてやる方法を考えなきゃ。」
チャガタイは、ジョチさんの話しにそういうことを言った。
「そうですね。その通りですが、うちの店で働くというわけには行きません。精神病院に連れていくにしても、家族の同意がない場合はできませんので、其れも僕たちにはできませんね。其れならどうするかということですが、弟さんが一番毛嫌いする場所に雇ったらどうでしょう。」
ジョチさんがそういうと、
「たとえばそれは何処かなあ?」
とチャガタイは聞いた。
「ええ、仕方ありません。水穂さんの世話役として、来てもらいましょう。」
ジョチさんは、きっぱりといった。
「それでは、明日から、僕と一緒に製鉄所に来てもらいましょうか。」
「なるほど。やっぱり兄ちゃんだな。こういう時は頼りになるよ。」
チャガタイは、半分涙をこぼしながら、そういって、ため息をついたのだった。
翌日。ジョチさんは、れい子さんを連れて、製鉄所に行った。そして彼女と一緒に建物に入って、彼女を四畳半へ連れていく。四畳半には水穂さんが布団に寝ていて、杉ちゃんが近くにいた。なので多分、ご飯を食べさせたところだろう。
「また、食事をしないで困っていたんですか?」
とジョチさんが聞くと、
「まあそういう事だ。今日も食べる気がしないんだって。またたくあん一切れだけだよ。」
杉ちゃんが答える。
「そうですか。わかりました。杉ちゃんね、御願いなんですが、彼女に今日から水穂さんの世話をさせて下さい。彼女の名前は望月れい子さん。何でも家を飛び出してこちらへ来たそうです。」
ジョチさんがそういうと、
「望月れい子って、あの望月修一郎とかいう変な政治家の知り合いかなあ?」
と、杉ちゃんは答えた。
「ええ、まさしくその通りです。知り合いどころか、望月修一郎さんのお姉さんです。」
「はああ、なるほど。若いころ女郎をしていたこともあったよな?」
杉ちゃんがいう通り、望月れい子さんは、雑誌にヌード写真を投稿していた事もあった。なんでも生活のためだと言っていたようだが、弟さんが大物議員になってしまった以上、生活に困っていることは無いと思われる。
「しかしなんで、こんなところに雇われることになったんだ?お金がないとはおもえないし。何かわけがあって、ジョチさんと一緒にここに来たんだろ?まあ、女郎までやっていたっていうんだから、相当悩んでいたと思うけど。」
杉ちゃんがいうと、ジョチさんは、
「ええ。理由はなにかわかりませんが、彼女は幻覚の症状もありますから、相当なにか苦しんでいた事があったんでしょう。それを相談する人もいなかったと思います。」
と、いった。
「なるほどねえ、まあいわゆる金持ち病みたいな物かなあ。衣装住に不自由しなかったから、悩みにどっぷり浸かれたんだ。」
と、杉ちゃんがいうと、彼女は又泣き始めた。
「杉ちゃんも理事長さんも、そんな言い方はしないでください。彼女だって、きっと其れなりに悩んでそうなってしまったんだと思います。そんな言い方をするのは、一寸かわいそうです。」
そういったのは、水穂さんだ。それを聞いて、彼女は泣くのを辞めてくれた。
「まあいいか。よし、今から水穂さんの体を拭いてやるから、それを手伝ってやってくれ。」
杉ちゃんは急いで水穂さんの体の向きを変えて、まず、着ていた着物の紐を解いた。そして、水穂さんを、うつぶせに寝かせて着物を脱がせ、背中を出して、それをタオルでがりがりと拭いてやった。水穂さんの体はげっそりと痩せていて、もう肩甲骨や、肋骨が一本一本見えるほど痩せていた。もう、かわいそうなのはどっちですかね、とジョチさんはつぶやきながら、応接室に戻っていった。現在製鉄所は、新規の利用申し込みが多く、電話の近くにいておかないといけないのだった。
「よし、次は足だよ。」
杉ちゃんの方は手早く水穂さんの体を拭いた。
「じゃあ、着物を取り換えるから、悪いけど、古い奴をたたんでくれるか?」
と、急いで杉ちゃんは水穂さんの着物を箪笥から出して、手ばやく別の物に変えさせた。葵の葉がかかれた、銘仙の着物である。
「これ、正絹なんですか?」
と、彼女、れい子さんはいう。
「正絹にしてはなんかざらっとしているから。」
「ああ、これはねえ。銘仙という着物だよ。正絹とは全然違うよな。まあ大金持ちのお前さんには縁もないだろうな。」
杉ちゃんはさらりと答えた。
「それは、どんな着物なんですか?」
と、れい子さんは興味深そうに聞いている。
「まあ、そうだな、特別な地区に住んでた人が、日常的に着ていた着物かな。」
と杉ちゃんは、間延びした声で言った。
「特別な地区って何ですか?なにかそういう地区があったんですか?」
れい子さんはそう聞くと、
「うーん、知らぬが仏だな。お前さんのような大金持ちのお嬢さんが知っても、意味がない事だろう。」
と杉ちゃんは答えた。同時に水穂さんが、せき込み始めたので、あ、ほらほらと言って、杉ちゃんは彼に薬を飲ませ、口の周りに付着した吐瀉物をふき取った。幸い、この時は畳を汚さないで済んでくれたので、よかったと杉ちゃんはいった。薬は眠気を催す成文があるのだろうか、水穂さんはすぐに
眠ってしまった。
「ずいぶん、似たような柄の着物ばかり持っているのね。」
と、水穂さんの箪笥を覗き込みながら、れい子さんがいった。
「まあな。こういう柄を銘仙柄というんだが、お前さんにはわからないだろうな。金持ちのお嬢さんが絶対着ることはない着物だろ。着るとしたら、羽二重みたいなそういうものを着るんだろうな。まあ、それで良いやにして置けばいいよ。」
杉ちゃんは、そういう顔をしている。
「そうなの?なにかそういわれたら、余計に気になってしまうわ。私は、金持ちのお嬢さんということになるのかもしれないけど、そんなの何も楽しくないわよ。普通の生活がしたいのに。其れなのになんで、それができないのかしらと思うのに。銘仙というお着物は、一般的な庶民であれば着ているの?」
れい子さんがそういうことを言ってくるので、杉ちゃんは困った顔をした。
「まあ、一般的な庶民というか、その人たちから差別されて来た人が、この着物を着るんだ。まあ着物に詳しい人であれば、貧しい人が着るものだって、馬鹿にするだろうな。」
とりあえずそういっておく。
「そうなのね。なんか、明治時代の頃に流行って、今では完治できそうな病気で寝ているなんて、そういう理由だったとしか思えないものね。それはわかります。私は、彼の事を馬鹿にするとか、そんな事はしません。」
と、彼女はそう言った。それは、嘘偽りはなさそうだ。変に同情しているような雰囲気もない。
「でも、お前さんの弟さんは、馬鹿にするだろうね。殺すことだって厭わないんじゃないか?大物議員なら、そうなる事もあるんじゃないの?」
杉ちゃんがいうと、
「ええ、弟はそうかもしれない。でもあたしは違うわ。だって、理由もないのに、そういう人を馬鹿にするのは、よくないことだと思うし。それに、私は、政治家のお姉さんと言われるけど、其れのせいでずいぶん苦しんだ事もあったんだから。」
と、彼女は言ったのである。
「そうだねえ。そう思ってくれるなら嬉しいが、まあ、現実はそうはいかないだろう。本当は馬鹿にして当たり前だぜ。お前さんは、そうするように教育されて来ただろうしな。」
と、杉ちゃんはカラカラと笑った。
丁度、その時、玄関の戸がガラガラっと開いた。ジョチさんがいきなり何をするんですかと言っているのも聞こえてきたが、杉ちゃんたちにはこう聞こえてきたのである。
「あのこちらに、望月れい子という女性がいるはずなんですが。近所の方に聞き込みをして、ここにいることが分かりました。彼女を自宅へ連れ戻せと、望月修一郎先生から命令が出ております。」
多分、警察官か、ガードマンかそういうひとだろう。彼を使わせたのは、望月修一郎だ。
「こちらにいることは、近所の方の話しでわかっているんです。元々この建物を建設したのは、精神障害者に居場所を与えるという目的で、実は利用費などをだまし取っているんじゃないかとか、いろいろ噂が絶えない場所でしょうからね。望月れい子をこちらへ返してもらいますよ。」
と言いながら、鴬張りの廊下が痛そうな音を立てなった。いつもなら、鴬張りはとても心地よいはずなのに、その時の音は痛そうだった。そして四畳半のふすまがバタン!と音を立てて開けられた。この音がとても大きな音だったので、水穂さんも目を覚まして、杉ちゃんに支えてもらいながら布団の上に起きた。
「はあなるほど。駆け落ちでもするつもりだったんですかね。しかし、こんな身分の男性と恋仲になるなんて、れい子さんも変わっているというか、なにかおかしいですよ。さ、変な戯言はしないで、帰りましょう。」
ガードマンは、デカい声でそういったが、れい子さんは
「私、帰りません。この人の力になりたいんです。」
とちょっと強く言った。
「何をいっているんですか。えたの身分の人の力になりたいなんて、れい子さん、本当におかしくなってしまったんですかね。それでは、もしかしたら、入院の必要が出るかもしれないですね。後で、修一郎先生にお知らせしなければ。」
「えたの身分?」
れい子さんは、驚いてそういうと、
「ええ。」
水穂さんはきっぱりと答えた。れい子さんの顔が一瞬崩れるが、でもすぐに戻って、
「いえ、そういうことであれば、私、あなたの力になりたいわ!あたしが、何かすれば、あなたが、楽に生きられるようなるのなら、あたしはそれを生きがいにしたっていいわ!」
と強い意志をこめて言った。
「何を言っているんですか。生きがいにするなんて、れい子さんが傷つくばかりではない。修一郎先生の顔に泥を塗ることになります。そうならないためにも、れい子さん、帰りましょう。」
ガードマンがそういうが、
「何をいっているの!あんな居場所がない生活はもううんざりよ!其れなら、この人のそばにいて、ずっと、一緒にいてやりたいと思うわ!其れなのに何をいうのよ!」
れい子さんは、声を荒げていう。
「れい子さん、もう、帰ってくれますか。」
水穂さんが弱弱しく言った。どうしてという顔をするれい子さんに、
「先ほどのガードマンの方のいう通りですよ。僕は、あなたの弟さんの顔に泥を塗るしかできない人間なんです。」
と、又弱弱しく言って、せき込んで倒れこんだ。おい、ばか、こんな時に、と杉ちゃんが急いで彼の背を叩いたりしている間に、れい子さんは、ガードマンに連れられて、平和な世界へ帰ってしまったのだった。
行くところのない女 増田朋美 @masubuchi4996
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