番外編

第44話 早乙女葵の多忙なる日常

 ※時系列的には、二話の後のお話となります。



「葵、キスなさい」


 いきなり彼女が言った。


 今のように堂々とした調子の彼女。でも、これは今の彼女じゃない。


 忘れもしない、これは十年前、ボクが初めてこの屋敷で迎えた朝、彼女がボクに言った言葉だ。



「えっ」


 ボクはと言えば、呆けてしまって言葉を返せない。


「聞こえたでしょう? キスなさいと言いましたの」


 彼女は語気を強めて続けてくる。それでも言葉を返せずにいると……


「葵、これは命令よ。キスなさい。それとも、わたくしに逆らうつもり? もう約束を忘れたのかしら? それなら――」


 目のまえで、彼女の姿が残像みたいにブレる。つぎの瞬間、



「思い出させてあげるわ」



 口の中いっぱいに、甘く温かい味が広がった――




 目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。


 カーテンを閉めているという点を考えても、本当に真っ暗。すこし目が慣れていないと、なにも見えないに違いない。


 どうやらボクは夢を観ていたらしい。ボクの人生を大きく変えることとなった、あの日の夢を。


 唇に手を触れる。けど、そこには何もなくて、味の余韻もまるで感じない。なぜだか、それが妙に物悲しい。



 それから十秒くらい経ったかな? 目覚まし時計の音が鳴った。ボクは目覚ましを止め、ベッドから起きて、窓は開けずに部屋の電気をつける。


 目に入るのは勉強机やさっきまで寝ていたベッド、本棚には娯楽小説くらいは置いてあるけど、あまり無駄のない、質素ともいえる部屋。でもボクにとっては、これでも十分だ。


 寝間着を脱いで仕事着――エプロンドレスに着替える。


 時刻は、午前四時過ぎ。いつも早起きの同僚たちさえ寝ているこの時間から、ボク……早乙女さおとめあおいの一日は幕を開けるのだ。




 ボクが起きて一番最初にする仕事は、庭掃除だ。そのあとは、邸内の掃除。すこしすると、同僚の人たちが起きてくるので、掃除を交代してもらう。これが朝の五時過ぎ。


 そのあとに、ボクはパンと目玉焼き、ココアとで簡単に朝食を済ませる。ボクには別にやらなきゃいけないことがあるから。


 朝食の準備だ。自分のではないけど。メニューはどうしようかな……。そうだ、今日は契約してる農家から卵が届いていたから、オムレツにしよう。あとはスープとパンを用意して朝食は完成。そのあとで、寝覚めの紅茶を入れるんだけど……


 これがかなり気を遣う。正直、掃除や朝食の準備よりも、これが一番。好みがかなりうるさいから。


 まず、使う水は必ず軟水じゃなくちゃいけない。それから鉄分の含まれたポットは使わない。軟水をやかんに入れて沸騰させる。具体的には、五円玉くらいの泡がボコボコ出るくらいまで。そして紅茶を入れる前にポットとカップにお湯を注いで全体を温める。


 温めたポットに茶葉を入れて、沸騰したてのお湯も入れる。この時、お湯は勢いよく淹れなくちゃいけない。そして蒸らしているときは、ポットにティーマットを使って保湿効果を上げる。とにかく温度を下げないことがポイントらしい。


 そしてカップは、内側が白く、浅い形のものを使う。こうすることで、紅茶の命である色と香りを最大限に楽しむことができる……らしい。


 とにかく、彼女は紅茶には特別拘るのだ。



 紅茶を入れ終えたボクは、彼女を起こしに行く。これが午前六時ジャストで、毎朝のこと。平日も休日も変わらない。


「お嬢様、お時間でございます。起きていらっしゃいますか?」


 まずは声をかけてみるけど、返答はない。


 つぎに扉をノックしておなじ声をかけてみても、返答はなかった。


 でも、これもいつものことだ。ボクがノブを回すと、ドアはあっさりと開いた。鍵はかかっていない。これもいつものこと。


 部屋は薄暗い。もう太陽は登っているけど、カーテンが閉まっているから。


 ボクがカーテンを開け、さらに部屋の換気と起こす意味もかねて窓を開けると、朝の空気と共に風も吹きこんできた。まだ五月だから、朝の風はちょっと肌寒い。たぶん、部屋の一点でもぞもぞと動く気配があるのは、それが理由だろう。



「うぅ……ん……なんでですの……」


「お時間ですよお嬢様。起きてください。お紅茶も冷めてしまいます」


 ベッドに近付き、体を軽く揺する。すると、お嬢様は天蓋とフリルのついた大きめのベッドの上で、またもぞもぞと動く。あ、あれ……?



「お、お嬢様? あ、あの、そろそろ起きていただかないと……」


「言葉遣い」


 ボクの声を遮るように、お嬢様は言う。その声色は、ちょっと不機嫌そうだった。



「今ここにはわたくしたちしかいませんのよ。それに、忘れていることもありますでしょう?」


 そう言って、ベッドの中から、なにかを求めるような視線をボクにむけてくる。


「で、でも……」


「逆らうつもり? あなた、わたしに逆らえる立場だったかしら」


 そう言われると、ボクはもう何も言えなくなってしまう。うぅ……やっぱりやらなきゃダメかなあ……


 その場にしゃがみ込むようにして、ボクはお嬢様の顔に自分の顔を近づけていく。そして――



「ん……っ」



 口の中に広がる、甘くて温かい味。


 ボクはお嬢様……ダリアちゃんの唇に、ゆっくりと自分のそれを重ねた……。


 ダリアちゃんは啄むようにしてくる。自分から誘っておいて、なんだか控えめだ。だからボクは、つい……こうしちゃえ……っ!



 ダリアちゃんの頭を両手で挟むようにして自分の顔に押し付け、そこへさらに自分の顔も押し付ける。



「んむぅ……っ!?」



 すると、ダリアちゃんは驚いたような顔をして、くぐもった声を出した。でも、それだけだ。……このくらいじゃまだ抵抗しないんだ。ふーん。それなら……


 ボクは試しに、自分の舌をダリアちゃんの口の中に滑り込ませようと――


 したところで、ダリアちゃんはボクを半ば突き飛ばすようにして顔を離した。



 どうやら、今日はここまでらしい。でも……


 最初に比べると、だいぶ行けるようになってきたな。




「……やっぱり、寝起きはこれに限りますわね」


 紅茶を一口飲んだダリアちゃんは、満足そうに言った。よかった。今日も紅茶に文句はないみたい。


 拘るだけあって、彼女は飲み方も律義にマナーに従っている。例えば、カップのとっては指を入れずにつまんだり、飲むときは顔は近づけずにカップを近づけ、顎は上げずにカップを傾けたり、なんてことだ。そうすることで、エレガントな印象を与えることができるらしい。でも……



「これに限るって、どっちのこと? 紅茶? それとも……キス?」


「ぶふっ!?」


 エレガントに紅茶を飲んでいたダリアちゃんが、エレガントに紅茶を噴き出した。



「きゅっ、急になにを言い出しますのあなたはっ!?」


 ケホケホ咳をして、荒い息の下で言葉を紡ぐダリアちゃんは、ちょっと恨めしそうにボクを見てくる。


「どっちも毎朝やっているから、気になっちゃって……」


「そっ、それは……べ、別にどちらでもよろしいでしょう!?」


 口ごもっていたダリアちゃんは、顔を赤くして、逆ギレ気味に返してきた。相変わらず、攻めには弱い子だ。



 だから、ボクもつい意地悪をしたくなる。普段はあれだけ堂々としてる子がこんな風なのだから、つい悪乗りをしてしまうんだけど……。


 ていうか……こんな簡単に照れるくせに、どうしてキスをさせるんだろう? ダリアちゃんとの付き合いは長いけど、まだ分からないことも多いんだよなあ……。




 ボクが、ダリアちゃんのお世話をするようになって、今年で十年目になる。


 自慢ではないけど、ボクの家は、お金持ち



 ボクが自分を「わたし」ではなく「ボク」というのは、幼少期の家の方針だったりする。


 でも、あのままいけば、「ボク」はいつか「わたし」になって、いつかお父さんの跡を継ぐはずだった。……そう、だった。十年前までは。



 十年前に起こった世界的な金融危機によって、お父さんの会社が多額の負債を抱えて倒産した。


 お父さんはもちろんだけど、ボクも、お母さんも、あのときは不安で仕方がなかった。でも……


 そんなボクたちに手を差し伸べてくれた人たちがいた。


 それが、御郭良みかくら家の人たち。


 ダリアちゃんのお父さんがボクのお父さんを雇ってくれた。そして……



 ボクは、ダリアちゃんの世話役のメイドとして雇われた。というか……



 それが、お父さんを雇ってもらう条件だった。




(――「葵! あなた、これからわたくしのお屋敷で働きなさい! お屋敷に住み込み、わたくしの身の回りの世話をするのです! そうすれば、あなたのお父様を、わたくしのお父様の会社で雇って差し上げます! 一刀両断とはこのことですわ! おーーっほっほっほっほっほっほっ!!」――)




 と、たしかこんな感じのことを言っていたけど、たぶん、一挙両得って言いたかったんだと思う。それから、




(――「それから、あなたはこれからわたくしに逆らわないこと。どんな命令にも、必ず従いなさい。いかなる場合においても、口答えは許しません。いいわね?」――)




 最初はなにかの冗談かと思った。けど、ダリアちゃんはそんな冗談を言う子じゃない。本気だってことはすぐに分かった。


 当時を思い出すと、ボクは今でも胸が熱くなる。あのときのダリアちゃんは、本当にきれいで強くって、女神のようにさえ見えた。



 もちろん、ボクは一も二もなく引き受けた。すると、ボクはその足でダリアちゃんのお屋敷に連れていかれ、その日からメイドとして働くこととなった。


 覚えることはたくさんあったし、学業と両立させなきゃいけない。今までお世話される側だったのがする側になったわけだから、生活環境もがらりと変わる。正直、最初は不安だったけど、意外とすぐに慣れることができた。


 紅茶はもちろん、キスに関しても、そのころから強要されているものだ。



 初めに言われたときは本当にびっくりした。ダリアちゃんが紅茶が好きなのは知ってたから、淹れ方に関しては「やっぱりな」くらいにしか思わなかったけど……



 キスって! キスって!



 最初はなにを言ってるんだろうって思った。ついに頭がおかしくなったのかと思ったけど、思っている間にキスされた。


 最初は、「これも家のため」と思ってしていたけど……



 ボクは一度思考を止めて、目の前に集中する。


 ボクの仕事は、ダリアちゃんの身の回りの世話をすること。それはなにも、起こしたり、紅茶を淹れたりすることだけじゃない。


 今みたいに、髪をすくこともその一つ。


 ダリアちゃんの髪はきれいな金髪だ。本当に、思わず見惚れるくらいにきれいな金髪。そのあとで、いつもの髪形にセットする。そして……



「葵、早くしてくださる? 風邪をひいてしまうわ」


「う、うん……」



 そう言われて、ボクはあくまでも事務的に、それを続ける。



 ダリアちゃんの、着替えを。



 身の回りの世話がボクの仕事だから、それも、当然ボクの仕事だ。



 ネグリジェを脱がせると、白い肢体があらわになった。


 ボクと同い年の女の子の体だけど、ボクとはまるで違う。具体的には凹凸。食事のメニューはたしかに違うけど、使ってる素材はどっちも高級のはずなんだけどなあ。


 最初は、とくになにも思わなかった。子供同士だったし、仕事だと思っていたから。でも……



 小学五年生あたりだったかな。ダリアちゃんの胸が大きくなってきた。最初は「あれ?」みたいな、ちょっと違和感を覚えるくらいだったけど、あるとき、目に見えて大きくなってきた。


 それからしばらく、ボクはずっとドキドキしてた。着替えさせているときはもちろん、それ以外のときも。学校にいるとき、授業中、休み時間、屋敷で仕事をしているとき……ボクの頭の中には、ずっとダリアちゃんの裸が焼き付いていた。でも……



 なんか、もう慣れちゃったなあ……



 ドキドキしていた時が嘘のよう。最近は、とくにどうも思わなくなってきた。こんなことにまで慣れてしまうだなんて、人間ってすごいなあ。


 なんて考えつつ、ダリアちゃんを制服に着替えさせる。



 ダリアちゃんは、制服をちょっとだけ改造していた。といっても、ブレザーの袖口にフリルをつけて、スカートの下にペチコートを穿いて、裾が見えるようスカート丈を調節してるくらいだけど。


 このくらいでは校則違反にはならないんだから、うちは結構緩い校則なのかも。


 着替えが終わると、ダリアちゃんは姿見に映った自分の姿を見て、満足そうな笑みを浮かべた。



「ありがとう、葵」


「うん」



 答えると、ダリアちゃんは、またボクにキスをしてきた。


 とくに抵抗することなく、ボクはそれを受け入れる。



 そして、口の中に広がるのは、ココアみたいに、甘くて温かい味……



 これもいつものこと。ボクには抵抗する権利がないから……そう思って、キスしてた。最初は。けど……



 いつからだろう? 今ではボクは、自分の意志で、キスをしている。ちょっとイタズラというか、こっちから攻めるくらいの余裕も出てきた。


 だからかな。本当に、最近……というか、今さらになって、当然ともいえることが気になってきた。



 ダリアちゃんは、どうしてボクにこんなことをするんだろう?



 単なるイタズラ? それとも、気まぐれ……ではないよね。もう十年もやってるんだし。


 舌を入れようとすると、やっぱりダリアちゃんは逃げるように顔を離す。



「もういいですわ。わたくしは朝ごはんをいただきます」


 妙に無感情な声で言って、ダリアちゃんはスタスタと部屋から出ていってしまった。



 これ、逃げられた……んだよね? 自分からキスしてくるくせに、こうなんだもんなあ。


 十年も一緒に暮らしているのに、最近、ダリアちゃんのことがよく分からない。




 ボクたちが通う学校は私立の女子高で、白鳥峰学園っていう名前だ。


 ここはお金持ちの通う、いわゆる〝お嬢様学校〟だから、本来はボクが通えるところじゃないんだけど……


 そこに通って、しかも自転車通学って、いまだにちょっと慣れないなあ……


 まえを見ると、そこではダリアちゃんも自転車をこいでいる。


 ていうか、ダリアちゃんて自転車乗るときすごく姿勢がいいんだよね。背筋がピンと伸びてて。これでヘルメットでもかぶっていたら、ボクは多分吹き出していた。



 学園の敷地に入って、駐輪場に自転車を止める。でも、この時間には生徒はほとんどいない。時間はまだ、朝の七時前だから。いるのは部活動で朝早く来ている人と顧問の先生くらい。ちなみに、ボクとダリアちゃんは帰宅部。じゃあ、どうしてこんなに早い時間に登校しているのかと言えば……



「おはようございますわっ!!」



 とても早朝とは思えないハイテンションなあいさつに、しかし返してくれる人はだれもいない。ダリアちゃんが嫌われているから……とかではなく、人がだれもいないから。繰り返すけど時刻は七時前。あ、いや、今七時になった。


 ともかく、そんな時間に教室にいる人はまずいない。ほとんどの人は登校中か朝食を食べてるだろうし、下手をすれば寝てる。白鳥峰学園は朝のHRが始まるのが八時四十分、一時間目が九時からだから、この時間は早すぎるくらいだ。じゃあ、どうしてこんな時間に来るのかといえば……



「やりましたわ葵っ! 今日もわたくしたちが一番ですわよっ!!」



 ダリアちゃんは満足そうだった。もう輝くくらいの笑顔なんだけど、正直ボクはニコリと笑うので限界だ。


「ねえ、ダリアちゃん。こんなに早く来るの、もうやめない?」


「なにを言っていますの!? 御郭良家長女のわたくしが二番になるなど、決して許されない話です! なら、登校するのも一番でありませんと!」


 と、いうことだ。


 ダリアちゃんの意味不明な虚栄心を満足させることと屋敷での仕事を兼任するボクは、毎朝四時起きを敢行してる。正直言って、超眠い。なんなら、いまからHRまで仮眠を取りたい。


「それに、この時間に来る理由は、それ一つではありません」


 そう言って、ダリアちゃんはくるりとターンし扉まで戻る。スライド式の扉を閉めると、来た道をツカツカ戻って、ボクの顎を掴んで上をむかせて――



「ん……っ」



 鼻先に、ダリアちゃんの顔があった。そして口の中に広がるのは……ココアのように、甘く温かい……うぅん、熱いくらいだ。



 これも、いつものことだ。だれもいない朝早くの教室で、ボクたちはこうしてキスをする。散々屋敷でもしている、言ってしまえば、もう慣れた行為のはずなのに……


 どうしてか、まるで違う行為のように思えて体が熱くなる。ときどき外から聞こえてくる朝練に興じる声が、ボクを知らない世界へといざなっていった。



「んむぅ……っ!?」



 ボクが舌を口の中に滑り込ませると、ダリアちゃんはまた体を震わせた。やっぱり攻めには弱いんだなあ、自分からしてくるくせに。


 あっ、ダリアちゃん、いま声出した。ドキドキしてるのかな? ふふっ、かわいいなあ……。


 でも、それはボクも同じだ。屋敷でするよりも、ずっとドキドキする。


 もっと……もっと! 


 ここで、ダリアちゃんが体をよじって逃げようとしてきたので、ボクは体を押し付けるようにする。その勢いにのせて唇もより強く押し当て……


「っ!」


 たところで、ダリアちゃんはボクを突き飛ばすようにして体を離した。



「もっ、もういいですわ。だれかが来るかもしれませんもの」


 今までの経験からいって、クラスメイトが来るまであと三十分はあるけど。ま、言わないでおこう。



 こういう時のダリアちゃんは、いつもと違って余裕を失ってるっぽいから。




 三十分くらい経って、クラスメイトたちが登校し始めた。律義にみんなに挨拶をして、みんなからも返されるダリアちゃん。こういうところを見るに、べつに嫌われてるとかじゃないんだよね。……本人が、ちょっとアレなだけで。


 みんなが来る頃には、いつもと変わらない堂々とした調子を取り戻していたダリアちゃんだけど、もう三十分くらい経った頃、ちょっとソワソワし始めた。やがて立ち上がって、ドアの前に仁王立ち。それから一分くらい経つと、ガラッとドアが開いて、二人の女子生徒が入ってきた。



「ごきげんよう、伊集院いじゅういんさん! そして来ましたわね、天王洲てんのうすさくら! 今日こそあなたとの決着をつけますわよっ!!」



 ダリアちゃんがビシッと指をさす。


 すると、その相手……長い黒髪の女子生徒は「おおっ」と楽しそうな声を出した。



「ダリアちゃん、今日も元気だねー」


 長い黒髪の女子生徒……天王洲さくらちゃんは、かるーく言った。


 さくらちゃんは、白鳥峰学園の理事長先生の娘さんで、ダリアちゃんはなにかというと勝負を挑んでいる。……というか、なにもなくても挑んでる。


 挑んでるんだけど……


「今日はどんな勝負する?」


 この通り、さくらちゃんは軽くあしらってる感じなんだよね。


 まあ、それも仕方ない。だって、ダリアちゃん全敗してるし。



「ちょっとあなた! 真面目に聞いてますの!?」


「聞いてるよ。勝負するんでしょ? なにする?」


「あなたやっぱりふざけてますでしょう!」


 なんて、この二人には温度差がある。無理ないけど。



「おはよう、伊集院さん」


 あの二人を(というよりダリアちゃんを)気にしていたら話が進まないので、ボクはもう一人の女子生徒に話をかける。


「うん。おはよ、早乙女さん」


 ちょっと控えめに答えてくれたのは伊集院いじゅういん椿つばきさん。この人はさくらちゃんとは幼馴染らしい。


 髪を染めて、お化粧をきちんとして、制服もおしゃれに着こなして、スカートも普通より短く穿いている。ボクなら裾が気になっちゃうけど、大丈夫なのかなあ。


 なんていうか……女の子! って感じの子だ。ボクはこういう格好ができないから、羨ましいというか……正直憧れてる。



「御郭良さん、相変わらずだね」


 伊集院さんがちょっと引いてる。この人、どうもダリアちゃんが苦手らしい。


 仕方ない。いちおうフォローしておこう。


「うん。ごめんね、なんか巻き込んじゃって」



 さくらちゃんと伊集院さんとは、白鳥峰学園に入学してからできた友達だ。仲良くなった理由は、入学式当日、ダリアちゃんがさくらちゃんに勝負を挑んだことに端を発する。


 二人が勝負してる間にボクと伊集院さんとで話をして、なんとなく昼食も一緒に取るようになって……みたいな感じだったかな。いつの間にか仲良くなってた……と、思う。



 ボクとしてはそう思うんだけど、なんか伊集院さんには、一線を引かれてるっていうか、距離を取られてる……までは感じないけど、ちょっと遠慮されてる気はする。


 そう考えていたら、まえにさくらちゃんが、「人見知りするだけだから、そのうち打ち解けられると思うよ」とこっそり教えてくれた(どうりでダリアちゃんが苦手なはずだ)。だから、時間が経てばもうちょっと仲良くなれるんじゃないかなあ。



 そんなことをしてる間に、朝のHRの予冷がなる。こうして、ボクらの学校生活が始まるのだ。




 授業中、ボクは先生の話をぼんやりと聞きながら、板書された内容をノートに書き写す。


 繰り返すけど、ボクは毎日四時起きだ。これから授業を受けて、屋敷に帰れば仕事が待っている。だからだと思うけど、授業中っていうのは本当に眠くなる。とくに、歴史みたいに先生がひたすら説明をしてる教科は。



 正直に言うと、最初のころは舟を漕いでしまったことが何度かあった。席が一番後ろだったからか、幸いにもバレたことはない……と思う。


 なんにしても、これはいけないと思って、頑張って起きていようとしたんだけど、睡魔に打ち勝つのは本当に難しい。眠りたいけど授業も受けたい……そう思いながら頑張っていた結果、ボクは最終的に半分寝た状態で板書し、しかも先生の話も覚えているという、自分でもよく分からないクジラみたいな技術を体得するに至った。人間ってすごい。



 歴史の授業はスムーズに進んでいく。挙手を求められると、ダリアちゃんがさくらちゃんに一人で張り合うからちょっと騒がしくなるんだけど、幸いというべきか、今回はそんなことにはならなかった。いつも、どの授業でもこうだといいんだけど……




 なんてボクの願いは、つぎの授業で粉々に壊された。


「おーーっほっほっほっほっほっほっほっほっ! ついにこの時が来ましたわ!」


 青空の下、ダリアちゃんの笑い声が響いている。


「今日こそあなたを倒して見せますわ! この……テニスで!」


 テニスラケットを突き付けるみたいにさくらちゃんにむけるダリアちゃんは、もうすでに勝ったみたいなテンションだ。



 三時間目の科目は体育。競技はダリアちゃんの言った通りテニス。


 二人組に分かれて試合したてもいいし、ダブルスでやってもいい、試合をせずにただボールを打ち合うだけでもいいという、自由度の高い授業なんだけど……



「ほうほう、プロに教えてもらったことのあるわたしに挑むとは、すごい自信だねえ」


「そのくらい、わたくしにだってありますわ! 世界ランク十位の方にご調教いただきましたのよ!」



 ダリアちゃんの言葉に、クラスのみんなだけじゃなくて先生までビックリしてた。


 さくらちゃんと伊集院さんは、ダリアちゃんが言葉をよく言い間違えるのを知ってるけど、知らない人はビックリするよね。とくに今回みたいな間違いは。



 ボクはダリアちゃんに「ご教授だよ」と訂正しておく。この間違い方はさすがにアレだもんね。


 とにかく、この二人は試合する気満々だった。というか、ダリアちゃんだけ。さくらちゃんはそうでもなさそう。



 いまのボクたちは、みんなスコートを穿いて、テニスコートに集まっていた。


 白鳥峰学園では、体育の授業ではとくにテニスに力を入れている。その理由は、「スカートを着用する女性のテニスは、女らしさという規範にも合致している」というもので、先生は、いまは現役を引退しているけど世界ランキング七位にもなった女性が担当している。


 テニスコートも、天然芝のグラスコートだ。



「伊集院さん、ボクと一緒にやらない?」


 話しかけると、伊集院さんは一瞬ビックリしてたけど、ボクだと分かるとちょっと表情を緩めてくれた。


「う、うん。そうだね。やろっか」


 ダリアちゃんはさくらちゃんと試合するみたいだし、普段あまり話さない人と組むのもなんだからね。伊集院さんとなら気楽にできるだろう。



 話し合った結果、ボクらは試合はせず、適当に球を打ち合うことにした。伊集院さんは運動が苦手らしいし、そのほうがいいだろう。


 コートに移動して、まずはボクがサーブ、というか、軽くボールを打つ。伊集院さんはラケットを振って……



 スカッ



 空振りした。


「ごっ、ごめんねっ?」


「うぅん、いいよ。気にしないで」



 一瞬気まずい空気になったけど、気を取り直してもう一度。今度は伊集院さんがボールを打つ。それはボクの方まで飛んできた。打つ。今度は伊集院さんがラケットを振って……おっ、成功。今度はボクが打って、伊集院さんが打って、ボクが打って、伊集院さんが……空ぶる。



 申し訳なさそうにする伊集院さんに「気にしないで」と返していると、ボクたちを見ていたらしい先生がやって来た。


 丁寧に指導してくれる先生の話を、伊集院さんは真剣な様子で聞いて、丁寧にお礼を言っている。でも、合間合間に挟まれていた小話や冗談には、愛想笑いしかできてなかった。さくらちゃんの言う通り、本当に「人見知り」みたい。それも典型的な。


 それからボクたちはまた打ち合いをした。何回か打ち合いをして伊集院さんがボールを落として……を繰り返す。でも回数自体は増えてるし、コツはつかめてきたのかな? と思ったときだった。



 ちょっと離れた場所から、歓声が聞こえてくる。


 なんだろ? と思って二人で見に行くと、そこでは――



「やりますわね天王洲桜! このわたくしと渡り合うなんて!」


「ダリアちゃんこそ! テニス本当にうまいんだねっ!」



 なんて言いながら、試合をする二人。ダリアちゃんとさくらちゃんだ。


 歓声の意味はすぐに分かった。



 うまい。あの二人、テニス超うまい。



 テレビで見るプロ同士の試合みたいだった。先生もちょっと驚いている。



「すごいね、あの二人」


「うん……」


 返ってきたのは、ほとんどため息に近い声だった。伊集院さんは、じっと二人を……うぅん、さくらちゃんを見てる。


 ボクも視線をまえに移して、ダリアちゃんを見た。


 ……うん、やっぱり上手だ。素人の目からだと、フォームがきれいだってくらいの感想しか出てこないけど……



 結局、ボクたちは残りの時間、ずっと見入っていた――




 学校が終わって屋敷へ帰ると、ボクには仕事が待っている。


 洗濯物を取り込み、たたんだあとは、お風呂の掃除だ。これがもう大きい。床はタイル張りで、お湯はライオンの口から出るという、いかにもなお風呂だ。


 それを終えた後は、ボクは自由時間をもらってる。といっても、本当の自由時間じゃない。ボクはこの時間を利用して、ダリアちゃんといっしょに今日の復習と明日の予習をする。んだけど……



「葵、あなたこんな問題も分からないの? 本当にダメな子ね」


「んむっ」



 そう言って、ダリアちゃんはボクの口を塞いでくる。



「言いましたでしょう? あなたが間違えるたびにキスをします、と」


「う、うん……」



 イタズラっぽく笑うダリアちゃん。自分だってよく言葉を言い間違えるくせに。……だけど、内心ボクもちょっと笑ってしまう。


 見た目によらず、ダリアちゃんは結構繊細な子だ。今日も、さくらちゃんに負けたことで落ち込んでいたみたいだし。


 あの後、ちょっと元気づけようとしてみたけど……あの時のダリアちゃん、かわいかったなあ……



 正直に言うと、ボクは学校の勉強には何とかついていけている。だから問題を間違えることもそれほどないんだけど……


 まえに一度も間違えずにできたとき、ダリアちゃんは、ちょっと不満そうというか物足りなさそうな顔をしてた。


 どうやらダリアちゃんは、ボクとキスがしたいみたい……なんか自意識過剰な感じがする言い方だけど、たぶんそうなんだ。


 だって、キスをした後のダリアちゃんは、とっても幸せそうだから。でも……


 そんなダリアちゃんの顔が見たくてわざと間違えたり、逆に不貞腐れたような顔が見たくてあまり間違えなかったり、そんなことをしてるんだから、ボクも人のことは言えないよね。




 勉強がすむと、ダリアちゃんは夕食の時間になるので、ボクはその給仕をする。


 食器を片付けたら食後の紅茶とデザート。今日はイチゴのタルトだ。おいしそう。



 ダリアちゃんのご両親はお仕事で忙しいらしく、それをダリアちゃんは一人ですましている。


 考えてみれば、ダリアちゃんはこの広いお屋敷に一人でいるわけだ。ボクを含めて、使用人はたくさんいるけど、それはやっぱり他人でしかない。



 ボクをここに置いてくれるのは、本当はさみしさを紛らわすため……っていう理由もあるんだろうか?


 ときどきそう考えるけど……




「さあ、葵! 今日もわたくしの体を洗いなさい! 舐めまわせるくらいキレイに!」


 こういうことを言われると、この子はさみしさと無縁なんじゃないかと思ってしまう。



 午後八時半、ボクたちは一緒にお風呂へ入る。……いや、この言い方は正確じゃないかも。入るには入るけど、ボクはエプロンドレスを着たままだから。入浴するのはダリアちゃんだけで、ボクはその体を洗う係だ。


 普段は堂々とした態度のダリアちゃんだけど、こうしてみるとやっぱり体が細い。スポーツをすることもあるから、筋肉がついてないわけじゃないけど。線が細くてしなやかで、最初はやっぱりドキドキしたのに……



 やっぱり、慣れちゃったなあ……



 ボクの学校でのことといい、本当に人間ってすごい。っていうかちょっと怖い。




 ダリアちゃんが入浴した後、使用人たちも入浴することができる。この屋敷に住み込みで働いているのはボクを含めれば三人で、全員女性だ。この点は、たぶんご両親がダリアちゃんに配慮してるんだと思う。他の人たちは、御郭良の家が近くに持っている土地に建てた社員寮から働きに来てる。



 三人で広い浴室を使えるところは、ちょっとうれしい。なんだか温泉にでも来た気分になれるから。でもなあ、ほかの人のまえで裸になるっていうのは、ちょっと恥ずかしい。よくダリアちゃんは平気だな。それとも、相手がボクだから……? なんて、たぶん他意はないよね。ダリアちゃんだし。


 それよりも、早くお風呂をすませて寝なくっちゃ。明日も早いんだから。




 自室に戻ったとき、時間は午後の十時過ぎだった。


 ここから一時間が、ボクの本当の自由時間。ココアを飲みながらの読書だ。


 そうして十一時。ボクの一日が終わる。


 明日も四時起きかあ。……まあ、仕方ない。この生活にももう慣れたし、御郭良家の人たち……ダリアちゃんにも、本当に感謝してる。それを思えば、このくらいは安いもの。せめてもの恩返しだ。



 ――明日も頑張らなくっちゃ。



 ボクは電気を消して、ベッドの中に潜り込む。



 待つほどもなく、緩やかな波に乗って、ボクの意識は夢の中に誘われていった―― 

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