第43話 春を愛するひと
フツーってなんだろう?
最近の私は、ふとそんなことを考える時がある。
変わってるね、と言われることがある。
私は人見知りをするから、初対面の人とはあんまりよく話せないし、人付き合いもそれほど良くない。
いちおう、これでも努力みたいなことはしてる。なるべく愛想よくするようにしたり、気分でも変わるかと思って、高校に入ってから髪を茶色に染めたりした。ま、結局なにも変わらなかったけど。
だから私は、春って季節が好きじゃない。出会いの季節なんていうけど、正直面倒なだけだ。でも……
ホント、こういうところ、私とさくらは真逆だ。
さくらは私に、かわいいとか、好きとか、そんなことを簡単に言ってくる。
さくらのことだし、どうせ大した意味はない。でも……もし、もしそういう意味だったとしたら?
それってフツーなんだろうか? それを期待してしまう私は、フツーなんだろうか?
もし、そういう意味で、そう言われたら、私は?
私たちの関係は、フツーじゃなくなるのかな……?
制服に着替えてリビングへ行くと、そこではもうさくらが朝食の準備をしていた。
「おはよう、椿ちゃん」
私に気づいたさくらが、顔をちょっと上げて挨拶をしてくれる。
「おはよ。……なに作ってるの?」
キッチンに行くと、さくらはフライパンで食パンを焼いていた。一つはもう出来上がっていて、焼いた食パンの上から砂糖がまぶしてあって、生クリームまでついていた。
「フレンチトースト?」
「うん。最近作ってなかったから」
と言っている間に、焼きあがったらしい。さらに移して砂糖をまぶして生クリームをつけて……
「これ、運んでくれる? わたしコーヒー淹れるから」
「分かった」
皿をテーブルに並べる。リビングに漂っているのは、香ばしくて甘い匂い。
匂いっていうのは、人間の記憶を強く刺激するらしい。私がこの匂いで思い出すのは、あの日のこと。
さくらが、初めて朝食を作ってくれた日のことだ。
あの日から、もう一年が経ったんだ――
――――
――――――――
目を覚ますと、見慣れない天井が目に入った。
辺りを見回すと、そこはやっぱり見慣れない部屋。決して狭くはないけれど、まだ開けられていない段ボールがいくつか置いてあって、それに閉塞感を与えられる。
枕元に置いたスマホで時間を確認すると、七時まえ。そろそろ起きなきゃ。私はのろのろと身を起こしてベッドから出る。
真新しい制服に身を包んで、私は姿見で自分の姿を点検する。うん、とくにおかしいところはない。首元がちょっと気になるけど。ブラウスを第一ボタンまで留めてリボンをつけているから、どうも……
試着を除けば、この制服を着るのは今日で二回目だ。落ち着いていて、かわいいデザインで、結構気に入ってる。けど……
私はちょっとだけ考えて、スカートを一回だけ外側に折ってみた。……このくらいなら、大丈夫だよね?
「おっはよう、椿ちゃん! そろそろ起きる時間だよっ!」
突然のことに、ビックリして悲鳴を上げてしまう。声のしたほうを見ると、そこに立っていたのは……
「さっ、さくら。なに……?」
「なにって、ただ起こしに来ただけだよ」
さくらはなんでもないように答える。さくらも、私とおなじ制服を着ていた。
「じゃあ、普通に起こして。あとノックして」
「ごめんごめん」
分かっているのかいないのか、反省しているのかいないのか、さくらは「あはは」と笑って続ける。
「ご飯できたから、一緒に食べよう?」
リビングに入った途端、香ばしくて甘い匂いが私の鼻をくすぐった。
なんだろうと思ってテーブルを見ると、そこにはフレンチトーストとサラダが置いてあった。
「これ、さくらが作ってくれたの?」
「うん、そうだよ。椿ちゃんのお父さんから聞いたけれど、お家じゃほとんど朝ごはん食べてなかったんでしょ?」
「まあ、うん。朝は食欲が出なくて」
「ダメだよ、朝はちゃんと食べなきゃ。こういうお菓子みたいなものなら食べてくれるかもって思って、作ってみたの」
「そう、なんだ……」
私のことを考えて、私のために……
ちょっと気恥しいかも。でもそれ以上に……うん、うれしい。
「ちょっと待っててね、いまコーヒー淹れるから」
「え、うん……」
なんか、至れり尽くせりだ。ちょっと恐縮してしまう。
どうしようと迷いつつ、私はイスに腰を下ろした。
この春、私は高校に進学した。
白鳥峰学園。さくらのパパさんが理事長を務めている高校で、生徒が望めば寮生活もできるらしい。らしいんだけど……
(――「寮の定員がいっぱいみたいなの。だから、ここで暮らすのはわたしたち二人だけだから安心してね!」――)
ていうことを、入学式を終えて、ここに来たときに言われた。
寮に入れないからとさくらのパパさんが用意してくれたらしい。そういうことならと私は寮生活を止めて家から通おうかと思ったんだけど、さくらに言ったら、
(――「ダメだよそんなの! せっかく寮があるんだから活用しなきゃ! 大丈夫! ここで暮らすのはわたしと椿ちゃんの二人だけだから、安心してっ!」――)
と、意味不明なことを言われた。
大丈夫ってなんだ、安心してってどういう意味だ。私が人見知りするからってことかな?
そう、人見知り。私は、初対面の人と話すのがあまり得意じゃない。だから、環境の変化が大きい春って季節は、ちょっと苦手だ。
「椿ちゃん、どうかしたの?」
いつの間にかキッチンから戻っていたさくらが、不思議そうな顔で私を見ていた。
「なんでもない。ちょっとボーっとしてただけ」
「そっか」
答えると、さくらはすぐに笑って私にカップを渡してくれる。
「はい、砂糖は入れてあるから」
「……ん」
ホント、至れり尽くせりだ。一口飲んでみると、それはとても私好みの味だった。もう一口飲も。
「……どうかな?」
フレンチトーストを一口食べると、さくらが訊いてくる。めずらしく、その顔はちょっとだけ不安そう。
「うん。おいしい」
「そっか。よかったあ」
さくらは本当に安心したって感じで笑う。その顔を見ていると、なんだか罪悪感みたいなものが生まれた。
「なんか、ごめんね、いろいろ……」
「気にしないで。わたしが好きでやっていることだから」
初めてのことでされるがままだったけど、食事を始めてから、ようやくその言葉を言えた。
寮のことで一番驚いたのは、寮生が私たちだけっていうてんじゃなく、寮を監督する先生がいなくて、そこでの炊事洗濯をすべて自分たちでやるっていうところだった。
いや、私たちっていうか……
「でも、洗濯もさくらがやってくれたんでしょ?」
昨日、さくらは「全部わたしがやるから全部わたしに任せて!」と言い出した。さすがにそれは悪いし、せっかく一緒にいるんだから分担しようって言ったんだけど、さくらの圧に負けてつい甘えてしまった。
言葉どおり、炊事洗濯は全部さくらがやってくれたみたい。
「でもさ、椿ちゃん、昨日下着出さなかったでしょ?」
「そっ、そんなのあたり前でしょ?」
「どうして……まさか!?」
そこでさくらは言葉を止めて、驚いた顔で私を見てきた。なんだろ? いったい何を……
「昨日の下着いまもつけてるの!? ダメだよ椿ちゃん! ちゃんと下着は毎日変えなきゃ!」
「そんなわけないでしょ!? ちゃんと毎日変えてる! 寝るときと起きてるときにも変えるからだいたい半日くらいで変えて……って変なこと言わせないで!」
「椿ちゃんが自分から言ったんじゃん」
「だってさくらが変なこと言うから!」
ホント、朝から変なことを言うのはやめてほしい。
……あれ? 私たち、なんの話してたんだっけ……?
「でも、じゃあどうしてるの?」
「えっ? なにが?」
「下着の話。洗ってないわけじゃないでしょ?」
「あたり前じゃん。自分で手洗いして部屋干ししたの」
「椿ちゃんて、手洗いじゃないとイヤなの?」
「違うけど……その、恥ずかしいでしょ? それだけ。下着はこれからもそうするから」
「でもさ、それって結構手間じゃない? 毎日のことだし。それに生地も傷みやすいよ、きっと」
「それは、まあ……」
「毎日でなくてもいいから、たまには洗濯機で洗ったほうがいいと思うな。ね?」
「う、ん……」
圧。
いつの間にか、うなづいてしまっていた。
……ていうか、どうしてさくらは、そんなに私の世話をしたがるんだろう?
なんとなく、多分だけど、その理由は分かる。
それは、さくらが昨日言っていた言葉。
(――「ここでたくさん思い出を作ろうね。学校を卒業して大人になっても、しわだらけのおばあちゃんになっても、こんなことあったねって、楽しかったよねって、そうやって笑いあえるように」――)
寮でのことも、多分その「思い出作り」の一環なんだろう。……多分。
「よしっ! じゃあはやく食べちゃおう? 今日は始業式なんだから、遅刻できないよ!」
自分から変な話をふったくせに。でも……
こういう朝も悪くないなんて思ってしまう私も、やっぱりフツーじゃないのかもしれない。
あんなに苦手だった春を、好きになれそうって、思ってしまうなんて。
「もうすっかり春だねー」
登校中、さくらが独り言みたいな口調で言った。
たしかに、二週間くらいまで残っていた雪も完全に溶けて、代わりに目に入るのは、きれいな桜並木だ。
「そうだね……」
答えながらも、私の目はなにかに吸い寄せられたみたいに一点に留められて、離すことができない。瞬きすら忘れて、見入っていた。
春風に
「わたしね」
春風に乗って、さくらの柔らかな声が届く。
「この季節があんまり好きじゃなかったの」
「そうなの……?」
私はさっきとは違う理由から、幼馴染のきれいな顔を見た。そこには、ちょっと恥ずかしそうな表情が浮かんでいる。
私も、この季節があんまり好きじゃないっていうか、苦手意識があるから。さくらもおなじだったなんて思ってもいなくて、だから好奇心から、無意識のうちに訊いていた。
「なんで?」
すると、さくらは「秘密」とだけ答えた。……なんだろ?
「ねえ、椿ちゃんはどう? 春って、好き?」
私はちょっと考えた。これで「苦手」って答えたら「どうして」って理由を訊かれて、「人見知りするから」なんて答えたら……
うん、絶対からかわれる。といって、「好き」ってウソをつくのもイヤだ。だから私は、ほんのすこしだけ見栄を張ることにした。
「フツー、かな」
私の答えを聞いたさくらは、ちょっと笑って「そっか」とつぶやいた。
その笑顔はすこしだけイタズラっぽくて、多分そのせいだと思うけど、私は自分の心を見透かされて、見栄を見抜かれたような気がした。
なんだか恥ずかしくなって、さくらから目をそらす。けど、
「わたし、いままではこの季節がキライだったけれど、これからは好きになれそうな気がするんだ」
そらした視線は、またすぐに元の位置に引き戻された。
そのさきで、さくらは続ける。
「だって、この季節は――」
――――――――
――――
「――椿ちゃん?」
名前を呼ばれて、ハッと我に返った。
辺りを見回すと、そこはきれいな桜並木。風に揺られて花弁が舞い散る中に、さくらが端然と立っている。その顔の眉はハの字になっていた。
「ごめん。ちょっとボーっとしてた。なに?」
「大したことじゃないんだけど……もうすっかり春だよねーって」
さくらとしては何気ない言葉なのかもしれないけど、私はちょっと驚いた。
「……それ、去年も言ってたでしょ」
すると、今度はさくらが驚いた顔をした。
「覚えてたんだね」
「まあ、うん……」
覚えてたっていうか、思い出したっていう感じだけど。
あれから一年。いろいろなことがあった。一気に距離が近づいて、ちょっとだけ関係が変化して。
そして迎えたこの季節。いままでは、この季節が来ると憂うつな気持ちになった。新しい環境っていうのが、苦手で仕方がないから。でも……
「ねえ、さくら」
「? なあに、椿ちゃん」
「さくらはさ、この季節、好き?」
さくらの足が止まった。だから私も足を止めて、隣にいる幼馴染を見る。
すると、柔らかな春風のなか、さくらはふわりとほほ笑んで、
「うん。好きだよ」
ハッキリと、そう答えた。
「わたし、この季節が好き。大好き。……うぅん、好きになれたの。椿ちゃんのおかげだよ」
「私の?」
意外な言葉が混じっていたので訊き返すと、さくらはコクリとうなづいた。
「うん。椿ちゃんと一緒に暮らすようになったから、私は春を好きになれたの。だって、春はわたしたちの季節だから」
――わたしたちの季節。
その言葉が、一年前、あの日に聞いた言葉と重なる。
そう、あの日も、さくらはおなじ言葉を言っていた。
「だって、わたしたちの名前には〝春〟があるでしょ? だから、春はわたしたちの季節ってことだよ」
多分、深い意味はない。ただの言葉遊びだ。でも……
どうしてだろう? それを聞いたとき、いままで感じていた不安が急にバカバカしくなったような、世界が広がったような、そんな気がした。
「椿ちゃんはどう? 春、好きになれた?」
今度はさくらが訊いてくる。わたしがした質問を。あるいは、去年自分がした質問を。
「……それ、訊きかた変じゃない? まるで、私が春を嫌ってたみたいな感じする」
「嫌ってるとまでは言わないけれど……椿ちゃん、春が苦手でしょ?」
「うっ」
ピタリと言い当てられて、思わず声を漏らす。
私の様子を見たさくらは「やっぱり」とクスクス笑う。
「うるさいっ。苦手っていっても、その……ちょっとだけだから」
「じゃあ、いまはどう? まだ苦手?」
苦手だ。この季節は。新しい環境っていうのは、どうにも不安だし。でも……
「まえほどじゃない、かな。だから……」
そう、まえほどじゃない。去年より、今年のほうが春を好きになっている。
だから来年は今年より、再来年は来年より、すこしずつ、でも確実に、春を好きになっていくだろう。
自分自身を。そして……さくらを。
だから、だから私は……
「好きだよ。私も」
返答を聞いたさくらの言葉は、
「よかった」
と、一言だけ。でも、なんだかとても満足そうというか、うれしそうだった。
「行こっか、椿ちゃん」
「うん。さくら」
私たちは、短く言葉を交わして。
ゆっくりと、一歩一歩、確かめるみたいに歩いていく。
想いを胸の内にそっと秘めて、もっともっと、この季節を愛せるようにと願いながら――
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