第35話 どうか私に奇跡をください

 ――もし、私が産まれなかったら世界はどうなっていたんだろう?


 そんなことを考える時がある。



 もし私が産まれなかったら、ママはもっと自分のために時間を使えただろう。そして、パパともっと幸せになっていたかもしれない。


 もし私が産まれなかったら、パパは静かにママの死を悼むことができただろう。そして、新しい道を私が知らないだれかと歩いていたかもしれない。


 もし私が産まれなかったら、さくらがあの本を読んではいなかったことにだれも気づかなかったろう。そして、さくらはまだ本を読むふりをしていたかもしれない。


 そして――



 そして、世界はすこしだけ変わっていたはずだ。


 それはきっと、だれも気づかないくらいのちいさな変化。けれど、確実に。


 世界はすこしだけ違う姿をして、けれど変わらず廻っているはずだ。


 そう、私たちが、なにを選択したとしても。


 これからも、ずっと――




「えっ? 用事、あるの……?」


 思わず、さくらの言葉をオウム返しにしていた。



 今日は十二月二十三日。明日からのクリスマスイベントにさくらを誘ったら、


「うん、ごめんね? わたし、二十四日はイベントにゲストとして出席しなきゃいけなくて……本当、ごめんね……? 今日帰ってきてからいきなり電話で言われて……」


 なんでも、元々クリスマスイベントにはさくらの四つ上のお姉さんがゲストとして出席して、ピアノを演奏していたらしい。でも、今年は体調を崩してしまってそれができなくなったとかで、代わりにさくらが出席して、一曲歌うらしい。


「そうなんだ……お姉さん、大丈夫なの? お見舞いとかは?」


「ありがとう。でも大丈夫だよ。ただの風邪だから、心配ないってさ」


 よかった。いや、よかったのかな? さくらのお姉さんが大事ないのはよかったけど……


 そっか。さくら用事あるんだ。ってことは……あれ? イベントには一緒に行けないってこと、だよね。てことは……マフラー、どうしよう……いや、普通に渡せばいいか。絶対にイベントでなきゃダメってこともないんだし。でも……



 なんだか、急に夢から覚めた気がした――




 ――――



 ――――――――




 ――あれ? 私、なにしてたんだっけ……?


 てか、ここどこだろ? あ、私の部屋だ。いつの間に戻ってきたんだろう? さっきまでシチュー食べてたのに……いま何時?


 って、あれ? ウソ、日付変わってる。そこに気づいた瞬間、頭の中の靄が急に晴れたみたいになった。


 私はいま寝間着だし、ベッドで横になってる。いつの間にか、寝ちゃってたんだ。



 なんか、夕食以降の記憶がない。昨日は、たしかマフラーを完成させて、それでさくらをクリスマスイベントに……あっ。


 思い出しちゃった。私、昨日さくらをクリスマスイベントに誘って、断られたんだっけ……


 それがショックで、いつのまにか寝ちゃってて……いやいや! なに考えてるんだ私。そんなはずない。残念ではあるけど、なんだショックって。それでいつのまにか寝ちゃってて、しかも記憶がないだなんて。それじゃ私、バカみたいじゃ――



「くしゅんっ!」


 ……寒い。それになんか、部屋、暗くない? 時間は……朝の七時過ぎ。いくら十二月とはいえ、もう外は明るくなっているはずなのに。


 天気予報を確かめてみると、うわ、氷点下五度。寒いはずだ。天気は曇りのうち……雪。午後から、雪が降るかもしれないらしい。



 そっか。じゃあ、ホワイトクリスマスか……


 まあ、私には関係ないけど。





 部屋を出ると、人の気配がまったくなかった。音もしないし、廊下は薄暗くて寒い。まるで、さくらが家の用事で寮を開けた日みたいに。


 リビングに行くと、やっぱりっていうか、さくらの姿はなかった。そしてテーブルの上には、あの日みたいな置手紙があった。


 そこには、イベントの打ち合わせとリハーサルがあること、いちおうお姉さんに顔を見せに戻るのでもう出ること、朝食と昼食は用意してあるから温めて食べて、ということが書かれていた。


 こんなことなら、もうちょっとはやく起きればよかったかな……いやいや、べつにそんな必要ないじゃん。寒いし、せっかくの休みだし。……シャワー浴びよ。



 朝は昨日のシチューの残りと、トマトとレタス、そしてオレンジを使ったフルーツサラダ、ベーコンエッグだった。……そうだ、あとホットミルクでも入れよう。寒いし。


 そういえば、一人で食事をするのはあの日以来だ。なんかさみしい……わけではないけど、ちょっとアレだ。テレビでも見ようかな。でも、この時間はニュースばっかりだ。光テレビも、とくに見たい番組はない。仕方ない、スマホいじろ。


 さくらがいると「お行儀悪いよ」って怒られるし、家でもできないから、こういうことをするのはちょっと新鮮っていうか、なんかドキドキする。


 ニュースサイトを回ったり、動画を見たり……そんなことをしながら食事を進めた。うん、おいしい。サラダもちょっと甘いし、私の好きな味だ。でも……



 気のせいかな。ホットミルクだけは、さくらが入れてくれた方がおいしい気がする。温度も、なんかちょっと違う気がする。なにが違うんだろ? ……はちみつとか入ってたのかな? と思ってちょっとはちみつを入れてみたんだけど……


 結局、味は違うままだった。うーん……?




 朝食の後片づけを終えたあとは、なんとなく部屋に戻る気もせず、私はリビングのソファーでごろごろしていた。


 スマホをいじったり、ファッション誌を読んだり……でもどっちも身に入らない。テレビでも見ようかとつけてみたけど、クリスマスがどうとかそんなのばっかりだ。……消そう。


 と思ったとき、手が止まる。ワイドショーで組まれていた特集で、クリスマスイベント……ウィンターイルミネーションが紹介されていた。六百万球以上の電球を使ったイルミネーション、市を上げてのイベント……


 そして、そのイベントに出場するゲストとして、さくらの紹介もされていた。



『最後の歌姫』――



 最近聞いていていなかった単語が、テレビから聞こえてくる。


 さくらが過去にテレビ出演した映像も流れて、コメンテーターの人がきれいな歌声ですねーなんて感想を言っている。


 そういえば、さくらが出演したテレビ番組はDVDに撮ってあるんだよね。さくらには秘密だけど。なんか恥ずかしいし。



 特集が終わって、天気予報が始まる。天気はこのまま曇りが続いて、午後にはやっぱり雪が降る地域もあるらしい。


 今度こそテレビを消して、ちょっと目をつむってみる。でも眠いわけではないから、とくに睡魔は襲ってこない。


 ……勉強でもするか。休み明けには、実力テストもあるわけだし。いまから準備しとかなきゃ。


 勉強がひと段落つくと正午を回ってた。……なんか、お腹すいちゃった。ご飯にしよう。



 昼食を終えて後片付けもすませて、一息つく。


 これからどうしようかな? 多分、さくらはしばらく帰ってこないよね。何時に帰ってくるんだろ? ご飯とか作っといた方がいいかな? それとも、夕食も付き合いですませるのかな? じゃあ、夜も一人か。せっかくのクリスマスイブなのに、ずっと一人で……


 ああ、ダメだ。なんかモヤモヤする! 一人でこんな気持ちになって、これじゃバカみたいだ。


 寮に閉じこもってるのがいけないのかも。ちょっと、外に出てみようかな。


 それに……そう、イベントで忙しいとはいえ、プレゼントを渡す暇くらいあるだろうし。だから……うん、それだけ。



 午後四時にもなると、十二月の空は薄暗い。


 昼間にすこしだけ上がった温度も下がってしまって、寮を出た瞬間、思わず身震いをする。さむっ、と声を漏らせば白い息が薄暗い空気の中に消えていった。


 私は頭に黒い帽子をかぶって、ショート丈のベージュのコートにボリューム感のある編み模様の白いニット。下はサーキュラーミニスカートに黒のひざ丈のロングブーツを合わせた格好だ。


 この服は、御郭良さんの編み物教室がお休みだった日を使って買いに行ったものだ。その日、さくらは生徒会の仕事でいなかったから、一人で。さくらに褒めてもらいたくて、一日かけて選んだのに。それに貯金してたお小遣いも使って……って、あれ? 私いま、なにか変なこと考えなかった? いや、気のせいだよね。



 灰色に見える街も、駅に近づくにつれてだんだんと明るくなってくる。それは、この時期だけ街を彩る、クリスマスのイルミネーションだ。


 人通りもだんだん増えて、私はその中にひっそりとまぎれる。


 ショッピングモールにつくと人込みはいよいよ多くなって、代わりに点灯されたイルミネーションの数は減っていった。私は人の合間を縫うみたいにして進んでいく。


 すると、遠くに大きなクリスマスツリーが見えた。天窓までふき抜けになった広間の真ん中、そこには天窓まで届きそうなくらいに大きなクリスマスツリーが飾られている。私からは見えないけど、その近くにはステージも作られているはずだ。さくらが歌う、ステージが。


 もうちょっとまえに行けば、ステージも見えるかな? 人にぶつからないように、ゆっくりと進んでいくと、ようやくステージが見える位置を確保できた。


 イルミネーションのライトアップは、五時ちょうど。腕時計で時間を確認すると、四時五十分過ぎだった。


 上を見ると、二階や三階からも見ている人がいた。テレビ局の人らしき姿もあって、人もかなり多くなってる。そろそろなにかある頃かな?


 と、そう思ったときだった。



 フッ



 光が消えた。


 同時に、音も消えた。さっきまで喧騒に包まれていたのに、ウソみたいに静まり返った。けど、それはほんの何秒間。すぐにざわざわと話声が聞こえてくる。集まった人たちは、一緒に来た人とどうしたんだろうと話してる。


 私はといえば、無言で辺りを見回す。だって一人だし。


 すると、視線は一点に引き寄せられる。多分、私以外の人も。ステージに、スポットライトが当てられたからだ。


 ステージに、イベントのスタッフらしい、サンタのコスプレをした若い女性が登る。



「みなさま、本日はお忙しい中、ウィンターイルミネーション、光の箱庭にお越しいただき、誠にありがとうございます」


 暗い空間に、マイクで拡張された声が静かに浸透していく。


「五時より、イベントを開催させていただきます。よろしければ、一緒にカウントダウンをお願いします! 10、9、8、7……」


 雰囲気に触発されたのか、だれからともなくカウントダウンの声が重なっていく。


 そして、五時になった瞬間――



 世界に、光が点った。



 さっきまでの、ショッピングモールの電気じゃない。


 色とりどりの光、それぞれ違う形をした光……様々な光が、私たちを包み込んでいた。


 それはショッピングモールの外までも連なって、辺り一帯を照らしているはずだ。


 それから、ステージではゲストによる出し物が始まり、集まった人はその場に残ったり外のイルミネーションを見に行ったりしている。


 私はといえば、広間に残っているままだ。外と比べると、ここは多少温かいし、それに……



 また、音が止んだ。すくなくとも、私の世界の音は、完全に止んでいた。



 それを破ったのは、高いヒールが奏でる足音だった。カツカツと、静かな音と共に、ゆっくりと歩く一人の少女。


 桜色のドレスを着た、長い黒髪の少女――


 さくらがいた。でも……


 化粧をして、ドレスを着たその姿は、普段とはまったく違う雰囲気だ。それに、髪もいつもより長い気がする……ハーフウィッグつけてるのかな?



 私の視線はくぎ付けになった。


 そのさきで、さくらは歌う、唄う、詠う――


 曲なんてついていない、さくらのアカペラが、広間を包み込んでいく。



 イルミネーションの光が、まるで雨みたいにステージに降り注ぐ。


 その中心にいるさくらは、どのイルミネーションよりも輝いていて、まるで妖精か天使のようにも見えて、とても幻想的な光景だった。


 なんだか不思議な気分だ。自分の知っているやつが、こんなにもキラキラ輝いて、人から注目されているなんて。


 いま、この場の中心は、間違いなくさくらだ。彼女は夜空に輝く大きな星で、私はそれを見上げることしかできないちいさな野良猫……


 いつかの感情が、また私を飲み込もうとしている。


 こうしていると分からなくなる。私にとって、さくらは遠いのか、近いのか。普段は、手を伸ばせばすぐに触れられるところにいるのに……



 歌が終わった。


 しばらくのあいだ……実際には、それほど長くはなかったかもしれない。なんだか体感時間が鈍っていて、私にはよく分からなかったけど……


 広間は一斉に拍手に包まれた。無意識のうちに、私もその中に加わっていた。


 さくらはきれいにお辞儀をして、ステージを降りていく……と思っていたんだけど、そうはならなかった。


 さっきのサンタ服の女性とテレビ局のアナウンサーらしき女性がステージに上ってきて、さくらの歌を褒めちぎったあとで、コメントを求めている。どうするつもりなんだろうと思ったら、さくらはあたり前みたいに応じていた。……めずらしい。さくらが歌った後にトークするなんて。初めて見た。



「本日は都合のつかなかった姉の代わりに参加させていただきました。人様のまえで歌うこと自体久しぶりでしたから、不安でしたけれど……皆さまから拍手を戴けていまは一安心です。

 もし失敗でもしたら、父に叱られてしまうところでした。そうなったら、プレゼントもクリスマスケーキもお預けです」


 スピーチをする姿はとても堂々としていて、こういうところ、本当にすごい。私は人前に出ること自体苦手だし、きっとムリだろうな。


 ああ、まただ。また、さくらを遠くに感じる。目のまえにいるはずなのに……



 さくらも司会の人も、集まった人もみんな笑っていて、でも私は笑えなくて、私はなんだか自分だけ違う世界の住人のように感じた。イルミネーションの光も、まるで私だけ避けてるみたいに……


 ……って、ああもう! ダメダメ! また悪い癖が出てる。こういうのダメって分かってるのに、いざそういう場面に出くわすと、どんどん変な方向に考えが行ってしまう。……外に出よう。外に出て、頭冷やさなきゃ。



 ショッピングモールを出た途端、突然冷たい風が吹いた。反射的に帽子とスカートの裾を抑えて、目もつむってしまう。でも……


 目をつむっていても、なんだか暗くない。もう日は沈んでるはずなのに、昼間よりも明るいような? 疑問に思いつつ目を開けると……


 思わず、声を上げそうになった。


 目のまえに広がっていたのは、文字通りの〝光の箱庭〟――。


 色とりどりの電球に彩られた、箱庭だ。まるでカラフルな星が降り注いでいるような、無数のイルミネーション。



 私はどこへ行くでもなく、道なりに進んでいく。やっぱりいつもより人通りが多い。それもカップルばっかりだ。手を繋いで、幸せそうに歩いてる。つぎに多いには家族連れ。楽しそうにイルミネーションを見ていた。私みたいに一人なのは、逆にちょっと目立っちゃうかもしれない。ほかに一人の人もいなくはないけど、あれは多分待ち合わせだと思う。やっぱり、一人で来るようなイベントじゃないよね、これ。



 歩いていると、やがてイルミネーションの演出が変わってくる。動物を模ったオブジェや光る木のイルミネーション。犬のオブジェがなんだかかわいかったので、スマホで写真を撮ってみる。他にも何枚か写真を撮ってからさきに進もうとして……やめた。なんか、周りはカップルばっかりだし。一人でいるのもちょっとアレな感じだ。そろそろ戻ろう。



 ショッピングモールに戻ると、相変わらず人は多いけど、なんだか雰囲気は変わっているように思えた。ステージのほうへ目を凝らしてみると、そこにはもうさくらの姿はどこにもなかった。


 どこに行ったんだろう? 考えてみたら、控室みたいなのがどこにあるのかとか、全然知らない。まさか、もう帰ったなんてことは……


 いや、悩んでないで電話すればいいんだ。せっかく文明の利器があるんだし、活用しなきゃ。


 バッグからスマホを出して、さくらにかける。コール音が鳴り始めて……



「わたし、さくら。今あなたの後ろにいるの」



「きゃあああああっ!?」


 耳元でささやくような低い声に、飛び跳ねるみたいにして悲鳴を上げる。後ろを見ると、そこには……


「お待たせ、椿ちゃん」


「さっ、さくら……」


 ホッと息をつく。


 さくらは、もういつものさくらに戻っていた。ドレスを脱いで私服を着ていて、髪の長さも戻ってる。


 まるで、魔法が解けたみたいに。



「もう、ビックリさせないでよ。ていうか、なに? お待たせ?」


 変な言い方をするやつ。それじゃまるで、私たちが待ち合わせをしていたみたい……


「なにって、ここで待ち合わせしてたでしょ? わたしたち」


「えっ?」

「えっ?」



「「……ゑっ?」」



 さくらがキョトンとした顔をしてる。でも、私もおなじような顔をしてると思う。だって……え?


「待ち合わせって、なんのこと……?」


「なんのことって……もう、忘れちゃったの? わたしのゲストとしての仕事が終わったら一緒にイルミネーション見ようねって約束したじゃん」


 え、ウソ。全然記憶にない。そんな約束、したら絶対に忘れないと思うけど……



 ひょっとして、アレかな? 昨日の私は、さくらに「用事がある」って言われてから、ちょっとボーっとしてたから。聞こえてなかったのかも。


 って、いやいや! なんだそれ。それで約束したことを忘れる……っていうかそもそも聞こえてないとか、どれだけショックだったんだ私。


 これは……そう、ド忘れだ。ちょっとうっかりしてて、忘れちゃってただけ。うん、考えてみたら、そんな約束してた気がするし。思い出してきた。



「あれ? してたよね? 約束……」


 気づけば、珍しくさくらが不安そうな顔をしてる。


「うっ、うん。してた、約束。ごめん、ちょっとボーっとしてたみたいで……」


「そっか、よかったあ。言ってなかったかと思っちゃった」


 ホッとした顔で言うさくら。それを見て、私も安心する。同時に、ちょっと罪悪感もあるんだけど。



「……」


 だからかもしれないけど、危うくさくらの言葉を聞き逃すところだった。


「なに?」


「そのお洋服。とってもよく似合ってるよ。いつもよりちょっと大人な感じだね。わたしは初めて見るコーデかも」


 褒めてもらえた。なんだか落ち着かなくなって、スカートの裾をいじったり……うぅ、なんか急に恥ずかしくなってきたかも。



「でも、どうしたの? 椿ちゃんが帽子かぶるのって、珍しいよね」


「ああ、うん……」


 帽子を押さえるみたいにしてから、髪を手櫛ですく。


「ちょっとね。髪がプリンになってて。染めようかと思って美容院に電話もしたんだけど、予約いっぱいだったから」


 染めようかどうが微妙な感じだったから、迷ってるうちにタイミングを逃しちゃったんだよね。さくらは「残念だったね」とちいさく笑う。



「さくらも、その……似合ってるよ。その服」


 さくらが着ているのは、シンプルなニットにロング丈の白いフレアスカート。その上に丈の長いトレンチコートをきれい色でまとめていて、いつもより清楚で大人っぽい雰囲気だ。


「ありがとう。そう言ってもらえて本当にうれしい。これね、今日のために選んだの」


「そうなんだ……」


 そっか。さくらも、そうなんだ……


 さくらは、なぜか口をもごもごさせてる。なにしてるんだろう? それに、気のせいか顔も赤くなっているような……



「あ、あのさっ!」


「なっ、なに?」


「もしかして、なんだけど……そのお洋服、今日のために用意してくれたの?」


「そうだけど……」


 自分でもビックリするくらい簡単に、そう答えることができた。


 それができたのは、さくらも私とおなじことをしてくれてたってことが分かったから。けど……


 実際に言葉にするのって、なんか恥ずい……



「えへへへへ」



 聞こえてきたのは笑い声。さくらが私のまえでよく見せる、間の抜けた笑い声だった。


「べっ、べつに深い意味はないから。ただその……新しい冬物の服が欲しかっただけ」


 なんだか急に恥ずかしくなって、ついそんなことを言ってしまう。すぐにしまったと後悔したけど、



「うんうん。もちろん分かってるよ……えへへへ」


「~~~~~~~~っ! もういい! 私行くからっ!」


「待ってよ椿ちゃん! えへへっ」



 外に出ると、また冷たい風が吹いた。


 けど、どうしてだろう……? さっきとは違って、寒さなんてすこしも感じない。



 はあ、と息を吐くと、キラキラ輝く空気の中で漂っていた。




 ――もし、私が産まれなかったら世界はどうなっていたんだろう?


 そんなことを考える時がある。



 もし私が産まれなかったら、ママはもっと自分のために時間を使えただろう。そして、パパともっと幸せになっていたかもしれない。


 もし私が産まれなかったら、パパは静かにママの死を悼むことができただろう。そして、新しい道を私が知らないだれかと歩いていたかもしれない。


 もし私が産まれなかったら、さくらがあの本を読んではいなかったことにだれも気づかなかったろう。そして、さくらはまだ本を読むふりをしていたかもしれない。



 今日だってそうだ。もし私が産まれていなかったら、世界はどうなっていたんだろう?


 多分、それほど大きな変化はない。私はさくらと違って、ゲストに呼ばれたわけでもないし。


 でも、もし私が産まれていなかったら、さくらはどうしていたんだろう? さっきみたいにゲストに呼ばれて、そしてそのあとは……私が知らない人と、知らないところに行ったりするんだろうか……?


 それは……ちょっとイヤだな。それに、ちょっと悔しいかも。うぅん、ちょっとじゃないかも……



「椿ちゃんってば!」


「ぅえ? な、なにっ!?」


 突然名前を呼ばれて驚いたけど、さくらの顔が近くにあることに気づいてもっと驚いた。



「なにって……もう、どうしたの? さっきからずっとボーっとしてるけど……ひょっとして、まだ照れてる?」


「うるさいしつこい」


「ごめんごめん。でも、ホントどうしたの? こういうのあんまり好きじゃない?」


「うぅん、べつに。イルミはきれいだと思う」


 その言葉にウソはない。


 イルミネーションはとてもきれいだ。さっきよりも、いまのほうが。


 見ている光景はおなじはずなのに、まるで初めて見たみたいで、眩いくらいに輝いてる。


 それはきっと、さくらと一緒に見ているからで……なんて、もちろんそんなこと口には出せないから、


「こういうの結構好きだから。ちょっと見入ってただけ」


 さくらはちょっと私を見ていたみたいだけど、結局「そっか」と答えて、


「ね、椿ちゃん。ここよりもあっちのイルミネーションのほうがすごいみたいだよ。行ってみようよ」


「ちょ、ちょっと待ってよっ」


 さくらがさきに行ってしまったので、私は慌てて後を追う。



 どうして、さきに行っちゃうんだろう? いつもなら、頼んでもないのに私の手を取って、引っ張っていってくれるのに……


 なんて、まだ暗いことを考えちゃってたけど、



 私は、圧倒的な光に包まれた。



 どこを見ても光がある。上も横も下も輝いている。〝光のトンネル〟だ。


「どう? イルミネーションの目玉の一つなんだってさ」


「すごい……」


 口から出るのは単純素朴な感想。


 正直、きれいとは思わない。〝すごい〟っていうのが感想しか出てこなかった。でも……



 光のトンネルを抜けたとき、私の目に飛び込んできたのは〝光の宮殿〟だった。水面を彩っているのは、青いレーザーとライト。そしてその中心に、煌めく黄金宮が浮かんでいる……


 それはとても幻想的で、私は目を奪われた。


 瞬きすら忘れた。そのくらいにきれいな宮殿だった。これも、さくらと見てるからそう感じるだけなのかな……?


 だから、私は確かめたかったのかもしれない。さくらも、おなじ気持ちでいてくれるとうれしい、そう思って……



「ねえ、さくら……」


 隣を見る。きれいだね、って言おうとして。けど、さくらはいなかった。もう一度名前を呼びつつあたりを見回してみても、さくらはどこにもいない。え、マジか。どこ行ったの? せっかく一緒にイルミ見てるのに。なんで黙ってどっか行くんだ。これじゃあ私、一人で舞い上がってるみたいじゃん……


「お待たせっ」


 と思った瞬間、さくらに声をかけられた。


「はい、これ」


 と思ったら、目の前になにかが差し出される。



「なにこれ……ホットドリンク?」


 それはクリスマス色のカップの上には生クリームが乗っていて、さらにその上からはチョコレートソースがかけられている。


「うん、そうだよ。クリスマスの限定ドリンク。ね、あっちのベンチが開いてたから、一緒に飲もうよ」



 ベンチへ移動して、私は勧められるままに一口飲んで……


「おいしい……」


 生クリームの濃厚な味、それにコーヒーにはチョコレートが溶かされているみたいで、甘くて暖かい。



「ホント? よかった」


 さくらは安心したみたいに言って、それから自分も一口飲んでいた。


「よかったあ……」


 それから、白い吐息と共に、もう一度。なにをそんなに安心してるんだろう、なんて思ってたら、


「やっと椿ちゃんの笑顔が見れた」


 なんて、予想もしなかったことを言われた。



「えっ? なにそれ、私、そんなに変な顔してた?」


「変っていうか、ずっと難しい顔してたから」


 そんな顔しちゃってたんだ。たしかに、変なことは考えてたかもだけど……


「でもよかった。いつもの椿ちゃんだ」


 なんて答えたらいいのか分からなくて、私は言葉に詰まってしまう。



 見られていたことが、うれしいような、でも恥ずかしいような、なんかくすぐったい感じ。


 私は誤魔化すみたいに、カップに目を落としたまま言う。



「なんか急にいなくなってたけど、知ってたの? これが売ってるってこと」


「うん。今日のために調べておいたんだ。椿ちゃんと一緒に飲みたかったから」


「ふーん……そうなんだ……」


 そっか、そうなんだ。さくらも楽しみにして、準備しててくれたんだ……


 私だけじゃなかったんだ。そう思ったら、なんだか急に体が温まった気がした。コーヒーを飲んだときよりも、もっと……



「ありがと……」



 ぼそっと呟いてみる。なんだか恥ずかしくて、思ったよりも声はちいさくなってしまった。だから、ひょっとしたら聞こえなかったんじゃないかと思ったけど……


「えへへ、どういたしましてっ」


 返答はすぐに来た。さくらはなぜか笑っていて、つられて私もちょっと笑ってしまう。だから、私は気づいたときには、


「さくら、渡したいものがあるの」


 なんて言っていた。その瞬間、頭の隅で、緊張とか、羞恥とか、いろいろな感情が混ざり合って、大きくなっていくような気がした。だから、それを自覚するよりもまえに、私は急いで続ける。


「これなんだけど……っ!」


 手に持っていた紙袋を、さくらに押し付けるみたいにして渡す。


「その……クリスマスプレゼント……!」


 さっきから、声が上ずっているのが分かる。大きな声を出してるつもりなのに、かすれた声しか出てくれない。


 受け取ってくれるかな? 使ってくれるかな? いままで何度も頭に浮かんだ疑問が、またぐるぐる回りだす。


 いやそれ以前に、いつもみたいに「え?」とか訊き返されたらどうしよう。もう一度言う勇気なんて……



「ありがとう!」



 私の迷いを吹き飛ばすみたいにして、聞こえてきた言葉。それは、私がなにより待ち望んでいたものだった。


 さくらは、そっと、私から紙袋を受け取ってくれた。



「椿ちゃんがプレゼントくれるなんて思わなかった。……見てもいい?」


「いいけど……その、べつに大したものじゃないっていうか……えっと、御郭良さんに教わって、あの人はうまかったけど私はあんまりっていうか、いちおう形には……なったんだけど……」


 最初の言葉だけを言うつもりだったのに、気づけば私は言わなくてもいいことばかりをしゃべっていた。もう、どうして私は毎回こんな……


「ありがとう、椿ちゃん」


 さくらは私のプレゼント……白いマフラーを見て、さっきとおなじ、でも今度は静かな声で言った。



 視線が自然とさくらに戻る。すると、さくらはいま首に巻いているマフラーを取って、代わりに私があげたマフラーを巻いてくれた。


「どうかな?」


「いや、えっと……似合ってる、けど……?」


「当然だよ! だって椿ちゃんがくれたプレゼントだもん!」


「なにそれ」


 自分で訊いておいて。よく分かんないやつ。



「ホントにありがとう。すっごくうれしいよ。……ねえ、さっきダリアちゃんに教わったって言ってたけれど、もしかして最近出かけてたのって……」


「うん。マフラー、編み方教わってたの。その……サプライズにしたくて、秘密にしてた」



「そうなんだ……そっか、そうだったんだ……もう、一人でモヤモヤして、わたしバカみたい」



「? なにか言った?」


 声がちいさくてよく聞こえなかった。


「ありがとうって言ったの。とっても暖かくって、気持ちいよ。ちょびっと不格好かもだけど」


「……そんなこと言うなら返して」


「ごめんごめん、冗談だよ。あのね、お返しってわけじゃないけれど、わたしからもプレゼントがあるんだ! はい、これ」


 さくらに渡されたのは、大きめの紙袋。イベントスタッフの人から貰ったプレゼントかなにかだと思ってたけど……



「私に? いいの?」


「もちろん。受け取ってくれるとうれしいな」


 中を開けてみると、そこに入っていたのは毛糸の手袋だった。ほかにも、毛糸のセーターや帽子やパンツ、それに……マフラーもあった。



「もしかして、これ、全部さくらが……?」


「そうだよ! 全部わたしの手作り!」


 胸を張って宣言。


 全部手作りって……いったい、いつから準備してたんだろう? それって、ずっと楽しみにしてくれてたってこと、だよね?



「椿ちゃん、真冬でもミニスカートばっかりだし。こういうの、役立つかなって思って」


「うん、ありがと。……マフラー、つけてみていい?」


 もちろん、とさくらがうなづく。私はいま巻いているマフラーを取って、白いマフラーを巻いた。


「うん、似合ってる。かわいいかわいい!」


「ねえ、なんかバカにしてない?」


「え~してないよ~」


 なんかへらへらしてる。私はちょっとムッとした表情になってしまって、さくらも一度は笑うのを止める。けど……


 お互いの視線が合うと、また笑いだした。今度は私も一緒に。



 楽しい。


 二人で並んで、コーヒーを飲んで、お互いのマフラーを巻いて、笑いあって……ただそれだけのことが、たまらなく楽しくて、うれしくて。それに、幸せな……



「椿ちゃんっ!」



 突然だったからビックリした。体を震わせちゃったのが、ちょっと恥ずかしい。コーヒーを飲み終えた後でよかった。


「えっ? なに?」


「そろそろ始まるみたい。行こっ?」


 なにが、と私が訊くよりもはやく、さくらは席を立ってしまった。



 もう、なんなの? 眉をひそめながら後を追う。そのさきで、急に光が変化した。


 流れてきた音楽に合わせて、イルミネーションの色や形が変わっていく。それはまるで、光のパレード。色とりどりの光に囲まれて、私はまるで別世界にいるような気持になった。



「これをね、椿ちゃんと一緒に見たかったんだ」


 私の意識の合間を縫うみたいにして、さくらの声が聞こえてくる。


「うん……」


 自分の声が、どこか遠くで聞こえる。


 きれいだ。本当に。そう思えるのは、やっぱり……



 ――もし、私が産まれなかったら世界はどうなっていたんだろう?


 そんなことを考える時がある。


 もし私が産まれていなかったら、今日、さくらはどうやって過ごしていたんだろう。


 さっきみたいにゲストに呼ばれて、そしてそのあとは……私が知らない人と、知らないところに行ったりしたんだろうか? いまさくらの隣にいるのは、私じゃなくて、私の知らない人かもしれなくて。でも……



 いま、私はたしかにここにいる。この世には天使がいるわけでもなければ、奇跡なんて起きないかもしれない。でも、もし、もし奇跡が起きてくれたら……?


 いま、たしかに私はここに、さくらの隣にいる。


 私は、それを確かめたくなったのかもしれない。


 自分が、ここにいることを。さくらの世界に、自分が存在していることを。だから私は、精一杯の勇気を振り絞って……



 ぎゅ



 さくらの手に、そっと自分の手を重ねた。


 私には、外の音はなにも聞こえなかった。耳に届くのは、うるさいくらいに響いている、自分の心臓の音だけ。


 本当は分かってる。そんなはずないって。けど、それでも……


 不安で仕方なかった。いま、私は本当に存在しているのか。さくらの世界に、私は……



「っ!」



 唐突に、思考が弾け飛んだ。


 私の手のひらを、そっと柔らかな感触が包む。それは、とても温かくて、やさしい感触。



 さくらが、私を受け入れてくれたんだ。



 うれしい……


 どうしよう、うれしい。うれしいうれしいうれしいうれしい……!



 なんだか無性にうれしくて、私の頭の中はそれだけでいっぱいになった。


 あれだけきれいだと思ったイルミネーションも、いまは目に入らない。周りの人たちなんてどこかに行って、私は広い世界にさくらと二人きりになった気分だった。


 自分にとって、さくらがどれほど大きな存在になっているのか、そんな当たり前のことを再認識した。そして……


 いるんだ。私は、たしかに、いま、ここに。


 さくらの隣にいて、さくらは、私を見てくれているんだ……




「ありがとう」



 どこか遠くで、そんな声が聞こえた気がした。


 けど、それが私の言葉だったのか、それともさくらの言葉だったのか、私には分からなかった。



 分からないまま、言葉は空をさ迷って、落ちてきた白い雫の中に吸い込まれてしまった――





 ――もし、私が産まれなかったら世界はどうなっていたんだろう?


 そんなことを考える時がある。



 もし私が産まれなかったら、ママはもっと自分のために時間を使えただろう。そして、パパともっと幸せになっていたかもしれない。


 もし私が産まれなかったら、パパは静かにママの死を悼むことができただろう。そして、新しい道を私が知らないだれかと歩いていたかもしれない。


 もし私が産まれなかったら、さくらがあの本を読んではいなかったことにだれも気づかなかったろう。そして、さくらはまだ本を読むふりをしていたかもしれない。


 そして――



 そして、世界は大きく変わるはずだ。


 だれの目にも見えて明らかに。


 世界はいまとはまったく違う姿をして、けれど変わらず廻っていく。


 そう、私たちが、なにを選択したとしても。


 これからも、ずっと――

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