第30話 To be or not to be
――自覚すべきか、すべきでないか――
本来、存在しないはずの、この気持ちを……
「わあ。なんか、お客さんすごくたくさん入ってる」
「え? どこどこ……あ、本当だ……」
「私、緊張してきちゃった」
「私もー。セリフ忘れちゃったらどうしよう……」
劇場の舞台袖。暗幕の間から客席を見ているクラスの人たちは、不安そうに、でもどこか楽しそうに、ヒソヒソと話してる。
私はといえば、そんな会話を、どこか遠いものに感じていた。
うぅ……ヤバいヤバい、これヤバい。私の精神状態と、あと語彙力が。
心臓がバクバクいってるのが分かるし、なんだか落ち着かない。私、メチャクチャ緊張してるみたい……っていうのが分かるくらいには、冷静さも残ってるみたいだけど……
そんなことを考えていると、不意に意識が自分から離れていくのを感じた。気づけば舞台袖がざわついていて、私はなにかに引き寄せられるみたいに、ある場所を見る。そこにいるのは……
「衣装、とってもよくお似合いですっ」
「ええ、本当に。まるで宝塚の方みたい」
「きれいですっ! あとで、一緒に写真撮ってもらえませんかっ?」
クラスメイトの人たちと、その中心にいるのは……さくら。ハムレットの衣装を着こんだ、さくらだ。
飛び交う誉め言葉に、さくらはニコニコ笑いながら「ありがとう」とか、「私に合うように衣装を作ってくれた人たちが~」とか、素直に受け取ったり謙遜しつつも相手を立てたり……なんて会話をしてる。私には逆立ちしてもムリだ。
ていうか……そっか。さくらの衣装、似合うんだ。ここからじゃよく見えないけど。
じつは私、さくらが衣装着たところ、まだちゃんと見てないんだよね……
って、あれ?
ちょっと目を離した隙に、さくらがいなくなってる。どこ行ったんだろ……
「だーれだっ」
いきなり視界が塞がれて、うしろから囁くみたいな、ちょっと低い声が聞こえてきた。いつもならビックリするところだけど、
「なに? さくら」
なぜだか分からないけど、だれなのかもすぐに分かって、とくに驚くこともなかった。……そのことには驚いたけど。
「あれ?」
不思議そうな声が聞こえてきたあと、さくらの手がパッと離れる。
「なんか、あんまりビックしてないね」
と、なぜか拍子抜けしたような声。
「なにそれ、どういう意味……」
私はあたり前みたいに振り返って、思わず息をのんだ。
豪華な服に身を包み、腰には模造刀を下げて、髪を一つに束ねた姿はまるで別人みたいで、なんというか……
「……カッコいい」
無意識のうちに、私はなにか言っていた。……って、あれ? 私いまなに言って……
「まあ! まあまあ!」
慌てて口元を手で押さえるけど、どうも遅かったらしい。さくらはニマっと笑ったと思えば、わざとらしく驚いている。
「椿ちゃんがそんなこと言ってくれるなんて思わなかったなあ。カッコいいだなんて。えへへ、わたし、カッコいいかな?」
うへへへへ、みたいな力の抜けた笑い方をした。うん、いつものさくらだ。
「しっ、知らない……」
そんなこと、言った覚えないし。いや、思いはしたけど、言ってはない。多分。ていうか……
「カッコいいって言われてうれしいの?」
女子への誉め言葉としてはちょっと間違ってないかな。私自身、言われたところを想像してみると……ちょっと、微妙な感じ。
けど、さくらはなぜかまだ笑ったまま、
「あたり前じゃん。椿ちゃんが褒めてくれたんだもん。うれしいに決まってるよ」
「そ、そう……」
まあ、さくらがいいならいっか。……いや、よくない。
「で、急になに? なにか用?」
「べつに用ってほどのこともないけど……椿ちゃんってさ、なんか構いたくなる背中してるんだよね」
「なにそれ」
訳が分からん。でも、たしかにさくらって、よくうしろから抱き着いてくる。
「でもよかった。椿ちゃん、思ったよりも緊張してないみたいだから」
今度は、べつの意味で予想外のことを言われた。
……でも、そっか。私を心配して、抱き着いて来てくれたん、だ……? いや、違う、いまのなし。えっと……そう、心配してくれたんだ。
「べつに、もともと緊張してたわけじゃないし……」
ウソは言ってない。いちおう、変に冷静さも残ってたみたいだし。それに……
さくらと話してたら、なんか落ち着いたし。
「そっか。ならよかった」
ニコリと笑うさくら。を見た瞬間、私は反射的に顔をそらしてた。
なっ、なんか、いまの笑顔……うん、アレだ。
今日のさくらはなんていうか、カッコいい。いつもはちょっと間の抜けた顔をしてる時もあるのに。それも様になるのが、ちょっとズルいけど。
どうしよう、一度意識しだすと止まらない。私、いまどんな顔して……
「皆さん、準備はよろしくて? そろそろ上映時間ですわよ」
限界までトーンを落とした声が、私の思考を遮った。一瞬だれだか分からなかったけど、それは御郭良さんだった。……この人、こんなちいさな声も出せたんだ。
その横には葵ちゃんもいて、二人も衣装を着ている。御郭良さんの言葉で、まだちょっと緩かった空気が完全に張り詰めたみたいだ。みんな、口をつぐんでしまう。
「よしっ」
と言ったのはさくら。ちいさく手を鳴らす。それでも、クラスの人たちは、御郭良さんも、黙ってさくらに視線をむけたようだった。
「みんな、今日までの練習と準備、本当にお疲れさまでした。練習通りに、落ち着いてやりましょう。もしセリフを忘れても大丈夫。カンペの用意は万全だから」
クラスからは苦笑が漏れる。
空気はちょっとやわらいで、さくらも笑っていたんだと思う。
といって、顔をそらしたままの私には、それは見えなかった。それどころか、自分がどんな顔をしているのかさえ、分からないまま。
ついに、舞台の幕は上がる。
――――
――――――――
『私はおまえの父の亡霊。夜の間はさ迷い歩き、昼の間はこの世で犯した罪と共に地獄の業火に焼き清められる定め――父を殺したその毒蛇は、いま頭に王冠を戴いている――』
城に現れた父王の亡霊がハムレットに自分の死の真相を伝える。
『――誓え。剣にかけて、誓え』
亡霊の言葉が低く響いてる。
『なんと不思議な! これはいったい?』
『この天と地の間にはなホレイショー、哲学などの及ばぬことがある――今宵見たことは、なにがあろうと口にせぬ――この世の関節が外れてしまったのだ! なんの因果か、それを直す役割を与えられようとは――』
父を殺した叔父へ、復讐を誓うハムレット。
そして、私ことオフィーリアの出番。なんだけど……
『ハムレット様が、ハムレット様が、いきなり部屋の中に。私の手首をお取りになり、ぎゅっと、痛いほどお握りしめになって、それからうしろへ下がられ、片方の手をこめかみにおかざしになり、じっと私の顔をお見つめに……なって……』
あ、ヤバい。どうしようヤバい。想像しちゃった。
ていうか、思い出しちゃった。
昨日の朝、見た夢。それはいま私が言ったシーンだ。
さくらが私の手を痛いくらいに握りしめて、じっと私を見つめてくる。そして、どんどん顔が、頬が触れ合うくらいに近くまで――
うああああああああああああダメダメっ! いま本番中なんだって! ……って、
あっ、あれ? どうしよう、セリフ忘れちゃった。
えっと、えぇっと……そうだ! こんなときのことも、たしかさくらが言ってた。セリフを忘れても、私が演技を止めなかったらお客さんは気づかないとかなんとか……ああ、もうっ!
私は大げさな身振り手振りで悲観に暮れる演技をする。すると、私がセリフを忘れたことを察したらしいクラスの人がカンペを見せてくれた。おかげで、なんとか二幕一場を終えることができた。
『生きるか死ぬか、それが問題だ――』
そして、始まるのは三幕一場。
私はシェイクスピアに詳しくないけど、このセリフは知ってる。
――To be or not to be――
『ハムレット』で、多分一番有名なセリフだ。
生か死か、復習を成すべきか成さぬべきか、世にある世にあらぬ……様々な形に翻訳されてきたセリフ。
――自覚すべきか、すべきでないか――
一瞬頭に浮かんだ考えを、慌てて霧散させる。いまは劇の途中なんだから、集中しなきゃ。
『ハムレット様、いただいたものを、お返し申し上げようと思いまして。どうぞ、お受け取りあそばして』
『オフィーリア、おまえはウソのつけぬ女か? あるいは、器量自慢か? 誠実さと器量はつき合わせぬ方がよかろう――尼寺へ行け。なにも考えず、いますぐ尼寺へ行くのだ!』
『ああっ! どうか、どうかあのお方をお救い下さいますように!』
狂気を装うハムレット。悲観に暮れるオフィーリア。
『お姫様、お膝の間に座り込んでもよろしいかな?』
『困ります。そのようなこと』
変態になるハムレット。困惑するオフィーリア。
そして恋人の変貌と父の死に悲観したオフィーリアは詩を詠みあげる。
『でも私、どうしていいか分からない。ただ泣くだけ。だって、冷たい土の中で眠っている人がいるのだもの。みなさま、お休みなさいまし――』
そして……
オフィーリアは、ついにデンマークの川に沈んでしまう。
けど、私はとりあえず一安心。そのシーンは直接描かれないから、私の出番は終わったことになる。セリフを忘れたときはどうしようかと思ったけど……うん、なんとかなってよかった。
劇は問題なく進んでいって、ついに最終局面。
オフィーリアの兄、レイアーティーズとハムレットの剣術試合だ。
『それ、もう一本! どうだ?』
『かすった! かすりましたぞ!』
……なんか、すごい。
演技って分かってるけど、まるで本当の試合を見てるみたいだ。
そういえば、レイアーティーズ役の人はフェンシング部なんだっけ? だからかな。でも、それについていけるさくらはやっぱりすごい。
戦いの中で毒剣で傷を負ったハムレットは、死にゆくレイアーティーズから真相を聞かされ、ついに王を殺して復習を果たす。
そして、それを語り伝えるようホレイショーに言い残し、この世を去った……
――――――――
――――
舞台の幕が下りた瞬間、場の空気が緩むのを私は肌で感じた。
そしてあちこちから、囁くみたいにちいさな声での会話が聞こえてくる。「終わったー」とか「緊張したー」とか、そんな内容だ。
もちろん私もその一人で、一人でため息をついて体から力を抜く。と、
「つーばきちゃんっ」
「ひゃあっ!?」
また入った。うしろから、急に抱き着かれたせいだ。
「あれ、ビックリした?」
当然だけど、うしろから聞こえてきたのはさくらの声。でもその声は、なぜかちょっと不思議そう。
「あっ、あたり前でしょ?」
ビックリしたし、あと耳がくすぐったい。
「急になに?」
「んー? なんでもないよ。ただ、なんか隙だらけの背中があったから、つい」
またそれか。訳の分からないことを。
ちょっと顔をむけると、そこにあるのは見慣れた顔。さっきまでは凛々しい、本当の王子様みたいだったくせに、いまの表情はちょっとへらっとしてる。無事に舞台を終えられて、さくらも安心してるのかな。
「ね、どうだった? 私、ちゃんとできてたかな?」
ちょっと気になったので訊いてみる。すると、さくらはすぐに答えてくれる。
「よくできてたよ。でも、セリフちょっと忘れちゃってたでしょ?」
後半の言葉は、からかうみたいに笑っていたけど。
「う、ん……」
他人事みたいに。私がセリフを忘れたのはさくらのせい……あれ? いや、私の自業自得か? うーん……いや、やめよう。あのことはもう忘れよう、うん。
「でもすごいじゃん。アドリブでつなげるなんて。ビックリしちゃった」
「まあね……さくら、言ってたでしょ? セリフを忘れても、演技を止めなければ気づかれないって……」
「覚えててくれたんだ。役に立てたならよかったよ」
なんて、さくらはちょっと笑っている。
……どうしよう? 言うならいまだよね。
簡単だ。ただ一言、言うだけ。
よかったよって、カッコよかったよって、そう言うだけ。
べっ、べつに変な話じゃないよね。さくらも私の演技を褒めてくれたんだから。いま言えば、自然な流れのはずだよね、うん。
「ねえ、さくら」
「? どうし……」
さくらの言葉を遮るみたいにして、離れた場所からさくらを呼ぶ声が聞こえてくる。見ると、舞台袖の入り口に一人の生徒が立っていた。
……あれ? なんかあの人、どこかで見たことがあるような……と思ったけど、考えてみれば考えるまでもなかった。あの人、さくらを「会長」って呼んでたし、多分生徒会の人だ。
さくらは「ちょっと待ってて」と言って、その人のところへ行く。それからなにか話してる。なに話してるんだろ?
そういえば、このあとは私と一緒に文化祭を回るんだっけ。そのために、なにか引継ぎでもしてるのかも? あ、こっち帰ってきた。
「ごめんね、椿ちゃん」
と思ったら、急に謝られた。……あれ、なんだろ。なにかイヤな予感が……
「私、生徒会の仕事ができちゃった。だから、一緒に回れそうにないの……」
予感的中。さくらは申し訳なさそうに、両手を合わせて謝ってきた。
「ホント、ごめんね……」
「うん。まあ……気にしないで」
残念だけど、仕方ない、よね。さくらのせいってわけじゃないし、怒るのもなんか違う気がするし。
でも、どうしよう……
考えがあとから追いついてきた。さくらが仕事でいないってなると、私は一人で文化祭を回ることになるのかな?
でも一人で回ってもな……そうだ、たしか図書館が解放されてるはずだから、本でも読もう。それでさくらの仕事が終わったら、まだ時間があったら、一緒に回ればいい。
図書館が人でいっぱいだったら……そのときどうするかは、あとで考えよう。
まずは、服を着替えなくっちゃ。
「伊集院さん、もしよかったら、ボクたちと文化祭を回らない?」
教室に戻って着替えている途中、葵ちゃんにそんなことを訊かれた。
「えっ、私?」
予想外だったので、思わず訊き返してしまう。すると、葵ちゃんは「うん」とうなづいて、
「せっかくのお祭りなんだし、一緒に楽しもうよ」
「う、うん……」
珍しく、葵ちゃんの押しが強い。だから思わず頷いちゃったけど……
「いいの? 葵ちゃん、御郭良さんと一緒に回るんじゃない?」
「もちろん。だって……」
「おーーっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほ!!」
葵ちゃんの言葉をかき消す、お馴染みの高笑い。え? いまの笑うところだった?
「もちろん構いませんわ! 三人で回るというのは、わたくしの発案ですものっ! おーーっほっほっほっほっほっほ!」
すでに着替え終わったらしい御郭良さんが、どうしてか自慢げに言ってきた。……ていうか、笑いすぎじゃない?
葵ちゃんを見ると、私の困惑を察してくれたのか、
「ダリアちゃん、ちょっと疲れてるみたいなんだ。衣装の準備であんまり寝てないから」
「葵! 余計なことは言わなくて結構ですわ! ともかく、伊集院さん、あとはあなたのお気持ち次第ですわ。どうなさいます?」
「えっと」
多分だけど、二人はさくらがいないから私に気を遣ってくれてるんだよね。そういうことなら、今回は遠慮しよう。そういうの苦手だし。
「気持ちはありがたいんだけど……」
「伊集院さん」
御郭良さんの言葉は、普段とは打って変わった低い声。それなのに、どうしてだろう。私はさきを続けることができなくなった。
「あなたひょっとして、なにか勘違いしてませんこと? わたくしたちは、なにも気を遣ってあなたを誘っているんじゃありません」
え、そうなの? ていう考えが、顔に出ちゃってたのかもしれない。今度は葵ちゃんが、
「ボクたちはね、友達として伊集院さんを誘ってるだけ。もしさくらちゃんがいたら、四人で回ろうって誘ってたよ」
「ええ、葵の言う通りですわ!」
御郭良さん、今度は大声。ちょっとテンションを統一してほしい。ビックリするから。
「わたくしたちは、友人としてあなたと回りたいから、誘っているのです。改めて訊きますわよ。どうなさいます?」
そう、だよね……。なんか、変な方向に考えが行っちゃってた。ダメだな、こういうの。悪い癖って、分かってはいるんだけど……
そのせいか、一瞬、私は「ごめん」と言いそうになった。でも違う、こういうところだ。こういうときは、えっと……
「ありがとう。一緒に行ってくれる?」
着替えをすませた私たちは教室を出で、適当に廊下をブラブラする。
着替えっていっても、すぐに済んだ。私はブレザーとカーディガンを脱いで、その上から衣装を着ていたから。
それでも衣装を脱ぐと、なんというか、開放感みたいなものがあった。私の文化祭は、半分は終わったんだなあ、みたいな感じだ。
「ボク、こういう雰囲気好きなんだ」
葵ちゃんが言った。
「こういう、ちょっと浮ついた、にぎやかな雰囲気。なんだかお話の中にいるみたいで」
「あ、なんか分かるかも」
私もこの雰囲気は嫌いじゃない。といって、私が好きなのは雰囲気だけ。人込みは苦手だから。
「この非日常って感じ、結構いいよね」
みんな浮足立って、普段はなんともないことでも笑いあう。みんなそれぞれ楽しんでるんだなってことが、ただ歩いてるだけで分かる。
「おーっほっほ! 二人とも、雰囲気だけ楽しんでも意味がありませんわよ! ほら、こっちに来なさいな!」
そんな雰囲気を吹き飛ばすくらい、元気な人もいるけど。いや、この人はいつも通りかな。
校舎の外には出店がたくさん並んでる。
それはたこ焼き屋だったり、焼きそばとかじゃがバターとか、お祭りで出るような屋台ばっかりだ。他のクラスの出し物には気を配ってなかったから、なんか、ちょっと意外だな。
「白鳥峰学園ってオシャレだし、出店もオシャレなのかと思ってた」
「校舎の中には、そうした出し物もあるようですわよ。例えば社交ダンス部などは、舞踏会のような出し物をしているようですし。
それに、来賓の方々の目つくようなところにはきちんとお金をかけてあります。クラスや部活動の出し物は、あくまで〝学生らしく〟ということでしょう。限られた予算内でやりくりするのも、こうしたイベントの醍醐味ですもの」
……なんか、思ったよりも真面目な答えが返ってきた。そこまでガチな答えが聞きたかったわけじゃないんだけどな。どうしよう、これ。なんて返そう……
「でも、パフェ売ってるお店もあるみたいだよ。ちょっと行ってみない?」
葵ちゃんのフォロー。私は一も二もなく同意して、御郭良さんもそのあとに続いた。
私たちはパフェの出店まで行って、それぞれ注文。
私はイチゴパフェを買った。葵ちゃんはフルーツパフェ、御郭良さんはチョコレートパフェ。
お店で出て来るみたいな大きなものではなくて、盛りつけもちょっと簡単なものだ。多分、食べ歩きができるようにっていう配慮もあると思う。……食べ歩きしてる人、ほとんどいないけど。さすがみんな育ちがいい。してるのは、ほとんど他校の人とかのお客さんたちだ。
かくいう私たちも、ベンチに座って食べているわけで。
「こっ、これ……!」
「うっ、うん……!」
一口食べるなり、目を見開く私と葵ちゃん。こっ、このパフェ……!
「普通、だね……」
「うん。思ってたより、普通だね」
文化祭の出し物だし、普通なのが普通だけど。あまりに普通で、ちょっと肩透かし。いや、おいしいはおいしいんだけど。
「あなたたち、存外失礼ですのね。やはり現代人は舌が肥えているのかしら」
御郭良さんにそう言われるのは、ちょっと心外。
でも、たしかにそうかも。……いや、失礼の方じゃなくて、舌が肥えてるの方。
さくらが普段作ってくれる料理、デザートとか、たまに作ってくれるお菓子もだけど、全部味が私好みだから、それに慣れちゃってるのかも。
「でも……そうですわね。たしかに、普段葵が作るパフェの方がおいしいですわ」
結局、御郭良さんが私たちの側に来た。っていうか……
「葵ちゃん、パフェ作れるの?」
すると、葵ちゃんはちょっと苦笑いをした。
「うん。作るっていうか、パフェって材料を上に乗せていくだけだから。お屋敷で作るパフェは、その材料がいいんだ」
「ふーん……?」
あれ? 一瞬納得したけど、いま、なにか違和感が? ……あ。
さっき御郭良さんは、「普段葵が作るパフェの方が」って言って、葵ちゃんは「お屋敷で作るパフェは」って言ってた。それって……
「二人って、一緒に暮らしてるの?」
「あら、言ってませんでしたかしら? 葵は、御郭良のお屋敷で働いてるんですのよ」
御郭良さんは何でもないことみたいな口調なので、
「え、そうなの?」
私はろくに驚くことができなかった。
「うん。ちょっと縁があって、雇ってもらってるんだ。それでこの白鳥峰学園にも通えてるんだよ」
なんか、複雑な事情があるっぽい。訊かないほうがよかったかも。
ちょっと変な空気になってしまった。葵ちゃんもそれを察したのかな? 話を変えてきた。
「伊集院さんは寮住まいなんだっけ?」
「うん」
寮っていうか、家っていうか、だけど。
「でもね、寮の定員がいっぱいで、そこには入れないから、べつのところに入ることになったんだ」
まえにさくらから説明されたことを話す。
「じゃあ、伊集院さんとさくらちゃんで、二人暮らしってこと?」
「うん。いちおう、寮の管理人さんもいるらしいんだけど、炊事洗濯は自分たちでやってるから」
「そうなんだ。大変そうだね」
「ま、まあね」
葵ちゃんは感心してくれたみたいだけど、私は曖昧に返すしかない。だって最近までそのほとんどをさくらが一人でやってくれてたわけだし。
「あら、そうでしたの。でも、お弁当のメニューは違いますわよね。ご自分で作ってますの?」
「うぅん、さくらが。それぞれに合うメニューをって作ってる」
こうやって話していると、まだ私たちは、お互いのことをほとんど知らないんだな、と感じる。
それは、多分私が無意識のうちに壁を作っちゃってるからっていうのも、理由の一つなんだろうけど。
二人は私を友達って言って、いろいろと気にかけてくれてるんだから、私も、もう少し歩み寄っていかなきゃ。
それから私たちは、話をしながら一緒に出店を回った。……御郭良さんが一番しゃべってて、私はあんまり話せなかったけど。
そうこうしているうちに、辺りは薄暗くなってきた。時間を見ると、もう五時十分前。十月も下旬になると、ずいぶん日も短くなった。
五時から閉会式があるから、そろそろ移動しなきゃいけない。体育館に行くと、もう生徒たちは結構集まっていた。待つほどもなく時間がきて、開会式が始まる。
実行委員長のあいさつの後は教頭先生のあいさつ、そしてさくらのパパさん……の代理人さんのあいさつ。そうしてプログラムは進んでいって、最後は生徒会長……さくらの閉会の言葉だ。
全校生徒や教職員、来賓の人をまえにしても、その態度は堂々としている。
……結局、さくらと文化祭を回ることはできなかったな。もしかしたらラインにメッセージとか来るかもと思って、スマホを確認したりもしたけど、そんなこともなかったし。
仕事ができたって言ってたけど、なにしてたんだろ? そんなに忙しかったのかな……?
とか考えている間に、閉会の言葉も終わって、閉会式も終わった。ってことは、そっか……
文化祭が、終わったんだ。
文化祭自体は終わったけど、今日のイベントはまだ終わっていない。あと一つ、残ってる。
後夜祭。
学園の敷地内にある舞踏会場で、をダンスしたり談笑したりする。ダンスをする生徒には、ドレスも貸し出すみたい。自由参加なんだけど、私はどうしようかな……
まあ、いちおう参加していこう。ここまで来て帰るのもなんだし、さくらを待つ意味でも、いちおう。
後夜祭が始まってすこしして、私の視線はある人たちに吸い寄せられた。いや、私だけじゃない。私以外の人も、みんなその人たちを見てる。葵ちゃんと、御郭良さんを。
会場の中心で、曲に合わせて優雅に踊る一組。立場上、私もパーティーに参加した経験はあるから、ダンスの知識はあるにはある。他の人たちもそうだろう。でも、だからこそ、あの二人のすごさが分かる。
踊っているのは、ワルツだ。
ナチュラル・ターン、オーバーターンド・ターニング・ロック、ウィング、シャッセ・ツー・ライト……
会場の中心で、御郭良さんのリードに引かれ、葵ちゃんの体はクルクル回転してる。
いまあの子の目に、この世界はどう映っているんだろう?
昔ダンスを習ったとき、先生が言っていた。ワルツは、別世界への入り口だって。
踊っている間はだれでもなくなって、時の流れからも解放される。でも……
いまも私は私で、時の流れに身を任せるままで、ただ憧れるだけで、手を伸ばしたり、声を上げる勇気さえ持てないままだ。
――To be or not to be――
本来、存在しないはずのこの気持ち。私じゃない私の気持ちを……
「――っ!?」
突然体が震えたので、思わず声を上げそうになる。でもすぐに気づいた。震えたのは私じゃなくて、私のスマホだ。
ブレザーの内ポケットからスマホを出すと、また声を上げそうになった。
さくらから、メッセージが来てる。
『会場の二階まで来てくれる?』
二階? どういうことだろ……?
一度首をかしげて、それから顔を上げて……あっ。見つけた。
舞踏会場には放送室があるんだけど、そこに見つけた。黒いカーテンの隙間から、さくらがこっちを見てる。あっ、目が合った。
……どうしよう、さくらが手を振ってる。振り返したほうがいいよね? でも……どうしよう、ちょっと恥ずかしい。それに、まさか私以外の人に振ってるなんてことは……さすがにないか。
結局、私はちょっとだけ手を上げて、ちいさく左右に振る。それから席を立って、放送室へとむかった。
「さくら? いるの? その……入るよ?」
ドアをノックしても返事がなかったので、ドアノブを回す。すると、カギはかかっていないみたいで、簡単に扉は開いた。でも……
部屋の中は真っ暗だった。でも曲を再生するための機械は動いてるよね? なんか、音聞こえるし。
声をかけながら部屋に入る。ドアが閉まると、外の音は遠くに聞こえて、なんだか違う場所に来たみたいだった。
「いないの? ねえ、さく……きゃっ!?」
いきなり後ろから抱き着かれて、思わず悲鳴を上げる。けど、それ以上は動揺せずにすんだ。だって……
「急に抱き着かないでって言ってるじゃん。さくら」
それがだれなのかは、すぐに分かったから。
「ごめんね……」
後ろから、いつも以上に素直な声が聞こえてきた。ていうか、さくらにしては素直すぎる。でもそのおかげで、私はいつもより冷静になれた。
「いいよべつに。いつものことだし」
「そうじゃなくて。今日のこと。わたし、約束したのに……」
さくらの声は、普段からは考えられないくらいにちいさい。
「わたしね、椿ちゃんが誘ってくれて、すごくうれしかったの。だから、今日すごく楽しみにしてて……一緒に楽しもうって、約束したのに……」
さくらの言葉を聞いていて、私の心は自分でも不思議なくらいに落ち着いていった。
仕方ないことだって、頭では分かってた。さくらが生徒会長になったとき、こうなることもあるだろうって、考えてはいた。そもそも、それを覚悟して推薦したんだから。でも……
そんな物分かりのいい考えとは裏腹に、私はさくらにムカついていた。うれしいって、楽しもうって言ったくせに、結局仕事を優先して、口だけじゃんなんて思って。
けど、いまはそんなこといいって思える。さくらも私とおなじ気持ちなんだってだけで、もう十分だ。
――To be or not to be――
私の中にある、本来存在しないはずの、この気持ち。
この気持ちは、まだ自分の中にしまっておこう。いまは、さくらが私とおなじ気持ちでいてくれただけで、十分だ……
「いいよ、大丈夫。最初は不満だったけど、もう怒ってないから」
「ほっ、ホント?」
「ほんとほんと。ね、だから電気つけようよ。真っ暗って、なんかやだ」
すこし間があって、さくらは私から離れたみたいだった。それからまたすこしして、パッと電気がつく。
急に明るくなったので、反射的に目をつむる。手をかざしながら、徐々に目を慣らしていくと、ボンヤリと人影が見えた。徐々に輪郭もハッキリしていって……
その姿を見たとき、私は思わず呆然となった。そこにいたのは、たしかにさくらだった。けど、その姿は、予想もしていなかった姿。
さくらはドレスを着ていた。ピンク色の、胸元から腰にかけて白い刺繍の施されたドレス。胸元にはネックレスをかけて、耳にはイヤリング。きりりとした化粧で彩ったさくらは、まるで別人みたいだった。ハムレットを演じていたときとはまた違う、これは……そう。いつかの雨の日、ドレスを濡らしながら私のところに駆けつけてくれた、あの日みたいな……
「どうかな? 変じゃない?」
唐突にわれに返った。さくらはちょっと不安そうな顔で私を見てる。そんなことにも気づかないくらい、私は見惚れてしまっていた。
「うっ、うん。似合ってる……」
「そっか。よかった」
安心したように、さくらは笑ってた。その顔は……うん、いつものさくらだ。
「でも、どうしたの? なんでドレス?」
「椿ちゃんと踊りたくて。貸してもらったの。ほら、ドレスの貸し出ししてるでしょ?」
さくらは、ゆっくりと手を差し出して、
「踊っていただけますか?」
そんなことを言ってくる。まるで、舞踏会で言うみたいに。
「えぇっ? わ、私、ダンスそんなに得意じゃないんだけど。それに、制服のままだし……」
「大丈夫、リードするから。それに、ただ体を揺らしてるだけでも楽しいよ」
手を差し出したままで、さくらは笑いかけてくる。すると、私の手はなにかに吸い寄せられるみたいにして、気づけばさくらの手の中にあった。
「機械、操作しなくて大丈夫なの?」
それがなんだか恥ずかしくて、誤魔化すみたいに言う。
「うん。最初だけすれば、あとは自動でやってくれるから」
たしかに、いつの間にかワルツは終わって、タンゴに変わり、そのあとはルンバになっていた。そして……
またワルツがかかった。
ワルツは、テンポのいい舞曲だ。優雅で、優美な舞曲。
けど、私たちがしているのは、そんなに難しいことじゃない。ただ、体を合わせて、適当に揺らしているだけ……
なのに、どうしてだろう? 私は、まるで別世界にいるみたいだった。時間の流れにも縛られない。前から津波みたいに押し寄せた時間は、私たちを飲み込んで、けど私たちはそれに流されることなく、取り残されたみたいに立っている。
どこか懐かしい感覚だ。いつかの安心感。大丈夫、ここにいる間は、イヤなことなんて何一つ起こらない。そう確信できる。とてもやさしくて、暖かい……
そっか。
ようやく自覚した。
私が学校に泊まった理由……それは、さくらがいるからだ。
さくらのおかげで、私は一歩、踏み出すことができたんだ。
「……椿ちゃん」
「うん」
「ありがとう」
「……うん」
交わした言葉は、それだけ。
あとはもう、お互いになにも言わなかった。
曲が終わるまで、私たちはただ黙って体を揺らしていた――
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