第28話 文化祭/題目決め

 朝。私はいつもみたいに、アラームで目を覚ます。


 いつもとおなじ朝。だけど、私の体は、いつもよりちょっと重い。それは、時間のせいだ。


 六時。


 もう一度見ても、やっぱり六時。


 いつもより、一時間はやい。だから私の体と気も、一時間分重いんだけど……


 もう起きなきゃ。


 ベッドから出た私は、のろのろと起き上がって、なるべくテキパキと制服に着替える。そして……



「おっはよう、椿ちゃんっ! さあさあ、今日も起きる時間だよ!」



 さくらが私の着替えを覗くのも、一時間はやくなっていた。


「おっ、ちゃんと起きられたんだね! えらいえらへっ!?」


 だというのに、さくらはいつものように元気だ。私が枕を投げつけても、いつもみたいにへらへら笑っているんだから。




 着替えをすませて、私はさくらと一緒にリビングへとむかう。


 いつもなら、もう朝ごはんができているけど……


「ねえ、なに作るの?」


 今日からは違う。今日からは、私も一緒に朝ご飯を作るようになった。


 いままで私が手伝っていたのは、夜ご飯くらい。朝は時間がないからってことでさくらが作ってたけど、料理にも慣れてきたからってことで、今日からは私も一緒に準備をする。


「えっとね、ワンプレートにしようと思ってるんだ」


「わんぷれーと?」


 なんだそれと思ったけど、要するに、一つのお皿にご飯やおかずを乗せたものを言うらしい。



「そういえばさ、さっきニュースで見たんだけど」


 作りながら、さくらが、


「お父さんがね、宇宙旅行に行ってたよ」



 当たり前みたいに当たり前じゃないことを言いだした。


 どうやら、天王洲てんのうす家が民間で初めて宇宙旅行に成功したらしい。



「椿ちゃんのお父さんも一緒にいたよ。宇宙でね、お父さんがアメを投げて、それを口でキャッチしてた」


「ふーん」


 そういえば、宇宙旅行に行くって電話で聞いた気がする。てっきり冗談だと思ってたけど……


「夢のある話だね」


「あんまり興味ない感じ?」


「そういうわけじゃないけど……宇宙って、なんか怖くない……?」



「宇宙ではあなたの悲鳴は誰にも聞こえない」


 さくらが脅かすみたいな低い声で言った。


「あの映画見たせいだったりする?」


「たぶん、そうかも」


 金曜日の夜に見た映画。久しぶりに見たけど、結構怖かった。



 そんな会話をしながら、二人で手分けをして作った。


 その中で、さくらは私を褒めてくれた。「すごい」とか「上手だよ」とか、素直な言葉で。


 それがうれしくて、でもやっぱり照れ臭くて……


 料理を初めてちょっと経って、あくまで自分の基準でだけど、手際もマシになってきたと思う。


 もう、私は指を切らなかった。


 ……いや、べつにガッカリなんてしてない。痛いのキライだし。



 成長したってことなんだから、よかったんだよね……うん。





「ちっともよくありませんわっ!」



 教室に、御郭良みかくらさんの声が響き渡る。


 衣替えの季節を迎え、そして生徒会選挙を終え、白鳥学園は新たなイベントを控えていた。


 御郭良さんのこの言葉は、そのイベントの話し合いをしている最中に発せられたものだ。


「どうしてわたくしがクローディアスの役なんですのっ!?」


 午前中。まだ一時間目だっていうのに、御郭良さんはとても元気だ。


「せっかくの文化祭なのに、わたくしが仇の役だなんて!」



 そう、文化祭。私たちは、文化祭で劇をすることになった。


 題目は、『ハムレット』。


 シェイクスピアの四大悲劇と言われている戯曲の一つ……らしい。


 ともかく御郭良さんは、配役がお気に召さなかったみたい。


 ちなみに、さくらは主人公であるハムレット。


 葵ちゃんは、ボローニアス。これはデンマーク王国の侍従長。御郭良さんの役、クローディアスは、ハムレットの叔父。デンマークの国王を殺害して王位を奪った、御郭良さんの言う通り、敵役だ。


 私はといえば……


「わたくしはレイアーティーズの役をやりたかったのです! 伊集院さんの兄の……いいえ、オフィーリアの兄の!」


 私はオフィーリアの役をやることになった。


 どうしてそうなったのかといえば、偶然だ。くじ引きで決めたから。


 ていうか、私の兄って言い方止めてほしい。私ひとりっ子だし。それに、この人が兄って、なんかすごく疲れそう。


 私と葵ちゃん、それにほとんどの役はくじで決まったんだけど、さくらと御郭良さんだけは、クラスメイトたちの投票で決められた。まあ重要な役だし、これは当然かも。


 御郭良さんはまだ納得していないみたいだから、葵ちゃんが説得してくれている。


「ダリアちゃん、そんなにレイアーティーズがやりたかったの?」


 さくらが訊くと、御郭良さんは「当然ですわっ!」と言った。


「レイアーティーズは、最後にハムレット王子と戦うじゃありませんの! そこでわたくしが勝てば、天王洲桜に勝ったということになりますもの!」


「勝たれたら困るんだけどな……」


 言葉通り、さくらが困ってる。


 こんな時でも、御郭良さんは相変わらずだ。ていうか……


 今回の配役に、首を傾げたいのはむしろ私の方だ。


 オフィーリアって、かなり重要な役のはずだけど、それをくじで決めちゃっていいんだろうか? しかも、そのオフィーリアが、よりによって私って……


 そんな不安とともに、文化祭の準備は幕を開けた。




『ハムレット』は、急死したデンマーク王が夜な夜な城壁に現れ、ハムレットに自分の死の真相を伝えるところから始まる。


 あらすじは……悲劇だ。くらーい話。なんだけど、


「やっぱり納得いきませんわっ!」


 そんな暗い雰囲気も、御郭良さんの元気な声で霧散する。


「やはりレイアーティーズ……いいえ、せめてハムレットがやりたいですわ! そして天王洲桜がレアティーズを演じれば、わたくしは天王洲桜に勝つことができますもの!」


 なんて、訳の分からないことまで言い出した。


「それはちょっと難しいと思うよ。ハムレットって、ダリアちゃんほど自信家じゃないし」


 葵ちゃんはちょっとズレたツッコミ。ていうか、御郭良さんはそれでさくらに勝ったとしてもうれしいのかな? よく分からない人だ。いつものことだけど。




 机とイスを教室の後ろへ片づけて、さくらと御郭良さんをはじめとして、役を割り振られたクラスメイトの人が中心に集まる。それ以外の人たちは、さくらたちを取り囲むみたいに辺りに立った。


 今日は重要なシーンだけやってみようということで、台本を読みながらの練習が始まる。


 亡霊が現れて、ハムレットが復讐を誓って、狂気を装って……


 オフィーリアは、恋人の変貌を悲観して詩を詠みあげる。


 さくらの演技はとても堂々としていて、私は自然と目を奪われた。


 けど私は、うまくできそうにない……かも。




 放課後、私はさくらと一緒に帰ろうと思ったんだけど、


「ごめんね。わたし、今日は生徒会があるの」


 さくらは申し訳なさそうな顔でそう言ってきた。


「昼休み中に終わらせる予定だったんだけど……今日はさきに帰ってて?」


「分かった」


 文化祭が近いし、なにかと忙しいんだろう。仕方ない。


「ありがとう。じゃあ、気をつけて帰ってね」


「あ、待って」


 さくらが教室を出ていこうとするので、私は慌てて引き留めた。


「? なあに?」


「その……ごはん、作っておくから」


 すると、さくらは一瞬キョトンとした顔になったけど、


「うん。楽しみにしてるね」


 そう言って笑ってくれた。


 私は仕事がんばってって言おうとしたんだけど……


 それよりもまえに、さくらは教室を出て行ってしまった。




 私は葵ちゃんたちと途中まで一緒に帰った。


 二人と別れたあと、私はスーパーへ向かおうとして、その足を止める。


 さくらは生徒会の仕事をしてくるわけだから、多分疲れて帰ってくるよね……? だったら、ちゃんと献立を考えたほうがいいかも?


 いやだって、さくらは私のことを考えて作ってくれてたわけだし、このくらい普通……だよね、うん。


 なんか言い訳するみたいになっちゃったけど、私は一度近くのベンチに座って、スマホでレシピを調べてみる。


 どうしようかな……えぇっと、疲れて帰ってくるんだから、精がつく食べ物とか? それってどんなのだろ……



 ……あ、牡蠣の炊き込みご飯っておいしそう。いや、ご飯はもう朝準備したんだっけ? じゃあムリか。うーん……あ、牡蠣の味噌チーズホイル焼き? ってなんかおいしそうかも。これと、あともう一品、作ってみようかな。レシピ見ながらなら、なんとかなるよね? ……多分。


 私はブレザーの内ポケットから生徒手帳を取り出して、そこのメモ欄に材料を書き込んでいく。……よし、OK。


 書き終えたらいつものスーパーに言って買い物をする。メモを見ながら籠に入れていって……これで大丈夫かな?


 レジにむかおうとして、足を止める。そういえば、柔軟剤がなくなりそうなんだっけ? それも買っといたほうがいいよね。えっと、いつも使ってるやつは……あった。籠に入れて、今度こそレジにむかった。



 買い物をすませた私は、一人帰路につく。最初、エコバッグは手で持っていたんだけど、どうにもかさばるから途中から肩にかけた。


 太陽は、もうほとんど傾いてる。この時期になると、寒いとまではいかないけど、ちょっと涼しい感じ。


 やがて、私はある場所まで来た。駅ナカ。ちょうど帰宅と下校ラッシュに重なっちゃったみたい。人がいっぱいだ。そういえば……


 まえ、さくらと一緒に……下着を買いに行った帰り道。あのときも、こんなふうに人がたくさんいたっけ。


 あのとき、人込みに呑まれそうになって、さくらが手を取ってくれて……それでそのまま、手を繋いで帰ったんだよね。


 いろんな感情が体中に広がっていって、それはあっという間に私から溢れ出して、顔を上げることすら恥ずかしくなっちゃって……


 ふと手のひらを見る。そこにあるのは、もちろん私のだけだ。あのとき感じたぬくもりはない。けど……


 思い出すだけで、なんだか体が温かくなった気がした。


 唇がすこし緩みそうになったので、慌てて引き締めて顔を上げる。と、


 ――あ。


 偶然、見つけた。


 さくらだ。さくらが、向こうから歩いてくる。だから私は、ごく自然に名前を呼ぼうとして、


「さく……」


 でもやめた。


 人違いだったわけじゃない。それはたしかにさくらだ。けど……


 さくらは一人じゃなかった。


 その周りには、四人の女子がいる。おなじ制服を着ているから、白鳥学園の……多分、生徒会の人たち、だと思う。


 その人たちは、なにやらさくらと話をしている。その人たちは笑顔で話してて、さくらも笑顔で応じて、楽しそうに話してる。



「……っ」



 あれ? なんかいま、変な感じが……チクッと……? いや、気のせいだよね。エコバッグがちょっと重いから、そのせいだ。


 ……なに話してるんだろ?


 ちょっと、ちょっとだけ気になるような――っ!?



 さくらと目が合った。



 いま、たしかに目が合った。だから私は、思わず視線をそらしてしまった。


 あ、あれ……? 私、なんで目をそらしたんだろ? べつにそらす必要なんてなかったのに……


 どうしよう。いまの、感じ悪かったよね? だって、バッチリ目が合ってたし……


 さくら、怒ってるかな? ……うぅん、さくらのことだ。いまからでも顔を上げて、普通に声をかければ、いつもみたいに笑って答えてくれるはず。


 うん、大丈夫、大丈夫……


 自分に言い聞かせて、意を決して顔を上げる。けど……



 私が顔を上げたとき、もうさくらはどこにもいなかった。


 さっきはちょっと温かいと思ったのに、いまは、寒いな……




 なんか、変な感じになってしまった。


 べつに気にするようなことじゃない。そんなこと、頭ではちゃんと分かってる。


 いままでだって、何度もあったことだ。ていうか、ずっとそうだった。さくらの周りにはいつも誰かがいて、さくらはいつもその中心にいて……


 そう、ずっとそうだった。高校に入ってから一緒にいる時間が増えて忘れかけてたけど、あれはいつもの、なにも変わらない光景。だから、なにも気にする必要なんてない。


 あれ? でも……


 さくらは、あの人たちとどこに行くんだろう? どこかで、ご飯を食べたりするのかな? もしそうなら、せっかく買い物したのに、ムダになっちゃったかも……


 ああ、私、なんかバカみたいだ。一人で盛り上がって、落ち込んで。なにやってるんだろ……



「だーれだっ?」



 急に視界が暗くなった。


 なにも見えなくなって、一つ感じるのは人の気配。だれだか分からないけど、そいつは私の背中に張り付くみたいに立っていて……


「な、なにっ!? い、いやっ! はなし……っ!」


 怖くなって手を振りほどこうとすると、むこうから手を離してきた。


 ので、急いで逃げようとする。と、


「あ、待って待って」


 今度は腕を掴まれた。


「やだっ! やめてっ! はなして……って、さくら……?」


 振りほどこうと抵抗して、ようやく気づいた。そこにいたのが、さくらだということに。


 さくらの顔を見て、強張っていた体から力が抜けていって、同時に安堵のため息をついた。


「ごめんね? そんなに驚かせるとは思わなくて……」


「あっ、あたり前でしょ? 変質者かと思って、怖かったんだから……」


「ごめんごめん。さみしそうな背中を見かけたから、つい調子に乗っちゃって」


「なにそれ……」


 またよく分からないことを。ていうか……


「なんでここにいるの? さっきの人たちはいいの?」


 すると、さくらはコクリとうなづいて、


「うん。べつになにか用事があったわけじゃないから」


「ホント? もし私に気を遣ってるとかなら……」


「もう、そういうわけじゃないったら」


 さくらはちょっと呆れたみたいに笑った。


「生徒会のお仕事が終わったから、途中まで一緒に帰ってただけ。だから気にしないで」


 やっぱり、アレ生徒会の人たちだったんだ。じゃあ、やっぱり、大丈夫なのかなって疑問が出てくる。だって、私のせいでさくらが生徒会で浮くとかなったら、イヤだし。まあ、ないとは思うけど……


「ねえ、椿ちゃん。なに買ったの?」


 言いながら、さくらは私の肩にかかったエコバッグを覗き込んでくる。


「え? えぇっと、いろいろ。夕食の材料とか」


「そっか……ね、一人じゃ重いでしょ? 半分持つよ」


「いいよべつに。それに、バッグ一個しかないし」


「いいから。ほら、半分ちょうだい?」


 言うや否や、さくらは私が肩にかけたままにしてるエコバッグを手で持つ。……片方だけ。だから私は、もう片方を持つことになって……


「ね? こうすれば、あんまり重くないでしょ?」


「う、ん……まあ……」


 二人で持ってるわけだから、当然と言えば当然だけど、重さは半減した。正直、結構助かった。肩が痛くなってきてたから。


「ありがと……」


「うぅん、どういたしまして」



 それから、私たちは二人で一緒に歩きだした。


 行こうとか、帰ろうとか、そんなことは一切言わずに、あたり前みたいに。


 それが、なんだか無性にうれしかった。


 さくらと一緒にいるだけで、私の心は驚くほど軽くなる。まだ、肩にはちょっとだけ違和感が残ってるけど、もう、そんなことどうでもいい……



 私たちは、二人で一緒に歩きだした。まるで、それがあたり前みたいに。


 そう、あたり前のことなんだ。だって、私たちはおなじ寮で住んでいるわけだし。いままでだって、そうだったんだから。けど……


 さっき生徒会の人たちと一緒にいるさくらを見たとき、なんだか見ちゃいけないものを見ちゃった気がした。


 さくらの周りに人がいるなんて、いつものこと。いままで、ずぅっとそうだった。


 けど、高校に進学して、さくらとの距離が一気に近くなって。いままで見ていた光景を見る機会もめっきり減った。だって、私とさくらは、ほとんど一緒にいたんだから。


 だから、さくらの回りに、私じゃないだれかがいるのを見たとき、それを認めたら、昔に戻ってしまう気がしたんだ。いつか感じた、星と野良猫に……


 ダメだな。ちゃんと覚悟して、さくらを生徒会長に推薦したはずなのに、いざとなったらこんな気持ちになるなんて。本当に、自分にほとほと嫌気がさす……



「ありがとね、椿ちゃん」


 だから、急にそんなことを言われても、私はなにも言うことができなかった。


「柔軟剤。今朝、そろそろなくなるってわたしが言ったの、覚えててくれたんでしょ?」


「なくなったら、私も困るから」


 そっけなく答える。すると、さくらはちょっと笑って「そっか」と言った。


 けど私は、しまったと後悔した。ちょっとそっけなさすぎたかも。


 いや、じゃあどう答えるのが正解だったんだろ?


 さくらが言ってたから買ってきたよ、とか?


 むりむり、そんなこと言えたら苦労しない、こんな気持ちにも……


 また一人で淀みそうだったので、私は軽く頭を横に振って、誤魔化すために口を開く。


「ねえ、さくら。劇、本当に大丈夫かな?」


 それは、学園で練習をしたときから、もっといえば配役が決まった瞬間から、ずっと心配だったことだ。


 つまらない見栄のせいでふわっとした言い方をしちゃったけど、要するに、私が言いたいことは……


「やっぱり不安?」


「うん……」


 私自身のことだ。私が、オフィーリアを演じられるか。


「大丈夫だよ、椿ちゃんなら」


「どうしてそう思うのさ」


 無責任な、とちょっと逆ギレ気味に考えてしまう。


 さくらの演技は、私から見れば……うぅん、きっとほかの人から見ても完ぺきだったけど、私は違う。不安だらけだ。


「だって、椿ちゃんはなんにでも一生懸命な子だもん。それに、人が大切にしてることを大切にできる。これってすごいことだよ?」


 返ってきたのは、いつにもましてまっすぐな言葉。だから私は、いつもよりも照れてしまって、声がほんのすこし上ずった。


「それっ、なにか関係あるの?」


「もちろん。そんな椿ちゃんは、みんなが楽しみにしてる文化祭を成功させるために、きっとすっごく頑張るから。だから、大丈夫だよ」


 そんなふうに言われると、悪い気はしない。けど……


「もうちょっと、具体的なアドバイスはないの?」


 照れ隠しも兼ねて訊いてみる。するとさくらは「うーん」とうなって、


「もしセリフを忘れちゃっても、とにかく演技を止めないこと、かな。椿ちゃんが演技を止めなければ、お客さんは気づかないから」


「そう言われても……」


 そんなこと、できそうもない。セリフを忘れたら、きっと頭が真っ白になっちゃう。もしそうなったら……ああ、考えたくもない。


 さくらはといえば、ちょっと黙ってから、


「じゃあさ、寮でわたしと練習しようよっ!」


 どうこの名案! と言いたげな様子。


「ね、いいでしょ?」


 さくらは重ねて言ってくる。そんなに自信があるのか。


 でも、たしかにいい案かも。不安なのは本当だし、さくらが練習に付き合ってくれるのは……うん、かなり助かる。


「じゃあ……ちょっとだけ」


「うん、もちろんっ!」


 なぜかさくらは笑顔。


 そんなに練習するのがうれしいの? それとも……


 やっぱりさくらも、ちゃんとできるかが不安なのかな?





 練習するまえ、私が役を演じられるか不安と言うと、さくらは私を安心させるみたいに笑いかけてくれて、


「シェイクスピアってね、劇を書くときは、まずは〝事件〟から書いていったんだって。事件のいきさつを、最初から最後まで追っていたらしいの。

 だからまずは、キャラクターの心理じゃなくて、作者の心理を追って考えていくのがいいと思うよ。例えばわたしは、〝ハムレットの性格〟を考えるんじゃなくて、〝劇中でのハムレットの役割〟を考えて演じていくって感じかな」


 丁寧に演技指導をしてくれた。


 たしかに、私はオフィーリアがどういうキャラクターかってことばかりで、役割については考えてなかった気がする。



『ハムレット』は悲劇だ。内向的で道徳的な青年が、復讐のために狂気に身を染めていく。


 そして、たくさんの人が死んでしまう。私ことオフィーリアは自殺する。四大悲劇の一つと言われるだけあって、救いがない。あらすじを知ったときは、暗い話だなあと思った。けど……



『お姫様、お膝の間に座り込んでもよろしいかな?』



 ……………………



 …………なんていうか、アレだよね。よろしくない。


 シェイクスピアの作品って、詩的ではあるけど、同時に変態性もあると思う。


 事件を追っていって、婚約者の膝の間に座るなんて考えに、普通なるかな?



 さくらことハムレットは、妙に真面目な顔で意味不明なことを言い出した。……いや、台本通りではあるんだけど。


『困ります。そのようなこと』


『ただ頭を乗せるだけさ。それでも?』


「っ!?」


 思わず声を上げそうになった。だって、さくらがその場に座り込んで、ホントに私の膝に頭を乗せてきたから。


 デンマーク王や王妃と一緒に、黙劇を見るというシーン。私はイスに座ってオフィーリアを演じなくちゃいけないんだけど……


 さっ、さくらの頭が、私の膝に……っ。なんだろ、なんかちょっとチクチクする。髪の毛か、これ。


『いっ、いえ、どうぞ』


『なにか野卑なことでも?』


『べっ、べつに……』


『女の子の膝の間に寝るというのは、それほど大したことでもあるまい』


 ……なにそれ。自分から寝てきたくせに。……いや、これ演技なんだっけ。じゃあ、怒るのも変な話か。


 あれ? セリフなんだっけ? えぇっと……


『なんです? なんだかとってもお楽しそう』


『なにを言う。我こそ一介の狂言作者。楽しむほか手などない――父上が亡くなってから、まだ二時間と経っていないのだから』


 さくらの語調はいつもと違う。緩急と抑揚のつけ方、素人の私でも分かる。舞台役者のしゃべり方だ。けど……


 いまの私には、セリフを聞いている余裕さえない。



 さくらの頭が、私の足の間にあるから。



 私はちょっと足を開いて、さくらはその間に頭を入れている。


 なんか、すごく変な感じだ。足を開いているせいか、ちょっとスースーするし、それに……


「椿ちゃん?」

「うぇっ!?」

「んむっ!?」


 ビックリしすぎて声を上げてしまった……って、あれ? なんか、足の間に違和感が……!?


「ご、ごめんっ!」


 勢い余ってさくらの顔を挟んでしまった。慌てて足を開く。


「いいけど……大丈夫? つぎ、椿ちゃんの……」


「まっ、待って! いまうしろむかないでっ!」


 いま私は制服のままでスカートがアレで足を開いてるわけだから、見られるのはその……困る。


「ご、ごめん……」


 今度はさくらが謝って、なんだか微妙な空気が流れた。


 あれ? 私たち、いまなにしてるんだっけ? あ、劇の練習か。


 どうしよう? なんか、続ける感じじゃなくなっちゃった。でも、せっかくさくらが付き合ってくれてるんだから、やらなきゃ……


「きょっ、今日はこのくらいにしとこっか? いい時間だし、ご飯にしよ?」


「う、うん……」


 と思ったけど、さくらが言うんじゃ仕方ないよね、うん。でも……


 セリフを覚えるための練習なのに、どうしよう、これ。



 覚えられたとしても、私、ちゃんとできるかな。


 これからこのシーンをやるたびに、今日のことを思い出しそうだ。

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