第20話 プール掃除と椿の憂鬱

 アラームが鳴るまえに私は目を覚ました。といっても、寝覚めは悪い。


 暑い……


 思わず口の中でつぶやく。当たり前だけど、そんなことじゃ涼しくなんてならない。


 七月の上旬。まだ朝の七時だっていうのに、部屋のなかはメチャクチャじめじめしていた。タイマーをかけていたクーラーがきれたせいだ。


 窓を開けると、朝の風が静かに迷い込んでくる。さすがに、この時間の風はちょっと涼しい。


 心地よくて気持ちいい。けどそれ以上に……気持ち悪い。私の体が。寝ている間に汗をかいてしまったらしい。


 シャワーを浴びて、制服に着替える。


 ブラウスを第二ボタンまで外してリボンをつけて、それから袖をまくった。スカートを二回折って穿いて、ブラウスの裾をスカートの折り目に入れていく。


 夏服ではベスト着ないし、こうしないとスカートの折り目が見えててちょっとカッコ悪いから。


 ソックスも履いて、鏡で自分の姿をチェックする。……うん、こんなもんかな。どうせ髪はあとでセットするんだし。


 夏服もだんだん着なれてきたな。最初はなぜか、ちょっと気恥しいような、落ち着かない感じだったけど。そもそも……


 私、夏ってあんまり好きじゃないんだよね。暑いし、その……薄着になると、ウエストを引き絞らなきゃなこともあるし。


 気をつけて服選ばないとなあ。みっともないところは見られたくないし。


 なんて、どこか気楽に考えてたんだけど……




「皆さん、来週からいよいよプール開きです」


 朝のHR。担任の先生の言葉に、思わず私は固まった。


「きちんと体調を整えて、万全の体調で臨んでください」


 クラスメイトたちは「やったー」なんて喜んでいる人がいれば、「おなかー」とか「ふとももー」とか「にのうでー」とか言って笑っている人もいる。


 私はといえば、笑ってなんていられない。


 どうしよう、気楽に考えていられなくなった。




「そう気負う必要はありません! 気楽にいきますわよ! 力を合わせれば、このくらいすぐに終わりますわっ!」


 放課後のプールサイドに、御郭良さんの元気な声が響き渡る。


「天王洲桜! わたくしとあなた、どちらがキレイに掃除ができるか勝負なさい!」


 いつもみたいに堂々とした態度。でもいまいち格好がついていない。


 なんかというと、体操服を着て、手にはモップブラシを持った格好だから。


 来週のプール開きのため、私たちは先生からプール掃除を頼まれた。それで、私とさくら、葵ちゃんと御郭良さんとですることになったんだけど……



「ていうか、なんで私たちが掃除しなきゃいけないんだろ?」


「まあまあ、べつにいいじゃん。その代わり、わたしたちのクラスがプール一番乗りらしいよ」


 なんて、さくらは笑っているけど、


「さくらはプール楽しみなの?」


「うーん……フツー、かな」


 答えはなんだか煮え切らない。


「伊集院さん、プール、キライなの?」


「そういうわけじゃないんだけど……」


 葵ちゃんの質問に、今度は私が煮え切らない答えを返した。


「分かりましたわっ!」


 自信満々な御郭良さん。……なんだろう、なんかすごくイヤな予感がする。


「あなた、また体型を気にしていますのねっ!」


 そしてこういうとき、この人は予感を裏切らない。


「ダリアちゃん……」


 葵ちゃんが呆れたように釘を刺してくれたから、私はなにも言わないことにしよう。


 ……いや、べつに体型がアレだからプールがイヤなわけじゃない。たしかに水着着るならウェストをあと二、三センチ絞りたいとは思うけど。思うんだけど、そうじゃなくて……


「そういえば、椿ちゃんって、泳ぐのあんまり得意じゃなかったよね」


「……まあ、その……ちょっとね……」


「なんだ、そんなことですの。ご安心なさい、伊集院さん! たとえカナヅチでも……」


「ねえ、ダリアちゃん。あっちのほうが汚れてるから、ちょっと手伝ってくれない?」


「ええ、もちろん! わたくしにお任せなさい!」


 御郭良さんが正直なことを言うまえに、葵ちゃんが気を遣ってくれた。



「いや、べつにカナヅチって程じゃないの。ちょっとは泳げる……と、思う……」


 ウソだ。ホントは全然泳げない。


「そっかそっか。ちょっとだけ自信がないんだね」


 と、さくらは妙に気を遣った言い方をした。と思ったら、


「じゃあさ、一緒に練習しようよ!」


 なんてことを言い出すんだから、一体なにを考えているんだか分からない。


 ……ていうか、え? 一緒に練習? それって……




「そうと決まれば、まずはこれをしなきゃ始まらないよね!」


 そうと決まればと言われても、私にはなにがなんだか分からない。


 土曜日。私はさくらに押し切られてデパートまで来てしまった。デパートの、水着売り場に。


「ね、ねえ、さくら。やっぱり帰ろうよ」


「どうして?」


「どうしてって……」


 私たちがどうして水着売り場にいるのかといえば、当然水着を買うためだ。どうして買うのかといえば、


「だって椿ちゃん、泳ぐの苦手なんでしょ? なら練習しなきゃ」


 というさくらの考えのため。


「いい。べつに」


「そんなこと言って。ダリアちゃんにカナヅチって言われて怒ってたじゃん」


「そうだけど……もういい。いまに始まったことじゃないし、泳げなくったって、べつに……」


「もう、なんでそんなにイヤがるの? 泳げたほうが授業だって楽しいよ」


 そして、どうして私がこんなにイヤがっているのかといえば、


「だから、ビキニなんて着たくないんだってばっ!」


 いつか下着を選んだときみたいに、さくらは水着を持ってきては私に合わせている。


 私はといえば、姿見のまえに立ってされるがままだったけど、そろそろ限界。ただただ恥ずかしい。


「大丈夫だよ。椿ちゃんならきっと似合うもん」


 相変わらず、なにを根拠にしているのか、さくらはそんなことを言う。ていうか、なんでそんなに自信満々なんだろう。


「そういう自分はどうなの? 自分の水着買わないの?」


「買うよ。去年の、もう着られないと思うから」



「へー……」


 そうなんだ。ふーん。



「でも、まずは椿ちゃんのを選びたいの。ねえ、いいでしょ?」


「いいけど……」


 ヤダって言っても食い下がってきそうだし、とりあえず妥協しておこう。あんまり強くイヤがるのも変な感じだし。


「派手なのはイヤだからね。変に露出度の高いやつとか」


「分かってるってば」


 鏡越しに見るさくらの顔には苦笑が浮かんでいる。……なんだか、イヤな予感しかしない。




 二時間後――。


 鏡に写った自分を見て、私は落ち着かない気持ちを誤魔化すみたいに髪をいじった。


「椿ちゃん、髪くずれちゃうよ? せっかく整えたのに」


「分かってるけど……」


 いじらずにはいられなかった。


 だって、結局私は、ビキニを着ているわけだし……


 さくらが選んでくれた白いフリンジ・ビキニは、バスト部分がフリルで飾られているタイプの水着だ。……つまりその……胸元にボリュームが出るけど、胸元が強調されにくいわけで。伸びてきた髪は、クシュクシュとした髪留めでルーズに纏めてみた。


 私のことをきちんと考えて選んでくれたらしい。多分、自分で選んでもおなじようなの買ってたと思うし、いいんだけど……なんかちょっと、これはこれでちょっとアレな感じする。


 水着を買ったあと、私たちは市内のプールまでやって来た。……来てしまった。


 駅から徒歩五分くらいの場所にできた屋内プール。土曜日の昼前ってだけあって客足は多い。だから余計に……


「ねえ、これホントに変じゃない?」


 女子更衣室にある姿見のまえで、私は何度も自分の姿をチェックする。


「もう、大丈夫だってば」


 さくらは呆れたみたいに笑ってる。……こっちはいっぱいいっぱいなのに。なんかムカつく。


「気にしても仕方ないでしょ? もうここまで来ちゃったんだから」


「そうだけど。そういう問題じゃないの」


 べつに自分が人から見られているなんて思わないけど、気になるものは気になる。さくらには分からないだろうなあ、この気持ち。


 私は自分からさくらに視線を移す。ひもを首の後ろで結んでブラ部分を吊った、黒いホルター・ビキニを着たさくらは、スタイルの良さはもちろん、お腹の腹筋は彫刻みたいにキレイで、おへそはちいさく縦長。長い黒髪は一つに纏めてお団子みたいにしてる。


 自分と比べると……ていうか、比べ物にならないな、これ。……とにかく、そういうこと。


「よく分からないけど……」


 私の気持ちなんて全然分かってないらしい。さくらはキョトンとしたあとで今度は笑顔になって、


「じっとしてるから気になるんじゃない? 一緒に泳ぎに行こうよっ!」


 なんて言い出した。


 ……いや、だから私は泳げないんだってば。




 屋内プールっていっても結構広い。流れるプールとか波のプールとか、ウォータースライダーなんかもあって、どこも人気だ。


 でも、私たちがいるのは、そのどこでもない。


「椿ちゃんてさ、本当に全然泳げないの?」


 屋内プールの片隅に作られているのは、学校にあるような、遊ぶというよりは泳ぐためのプールだ。


 私たちのほかに利用している人はほとんどいなかった。


 そこに来た直後の、さくらの言葉だ。


「からかってるわけじゃないんだよ? ただ、そういうの知ってたほうが、教えやすいと思って」


 憮然とした顔にでもなってしまっていたのか、さくらがすこし慌てた様子で付け加えた。


「……まあ、うん。水の中で目を開けられない……的な? 感じ……」


「うん。分かった」


 なにが分かったのか、さくらは納得したようにうなづいた。


「大丈夫だよ椿ちゃん! わたしが椿ちゃんを泳げるようにして見せるからっ!」


 さくらは自信満々……ていうか、やる気満々。


 正直言って、私はあんまり気乗りしないんだけど……


「私、ホントに泳ぐの苦手なの。ていうか水が苦手みたいで……その、不安で……」


「わたしもだよ」


 さくらは急に真面目な顔になって言った。


「わたしもね、ちいさいころは全然泳げなかったの。それで先生をずいぶん困らせちゃったなあ……」


 今度は他人事みたいに苦笑してる。


 そういえば、さくらの家は科目ごとに専用の講師の先生がついていたんだっけ。きっとその道のエキスパートが雇われていたんだろうけど、その人を困らせるくらいだったのか。いや、これは私のためのウソかも? どっちにしても……


 まただ。さくらはいつだって、私を元気づけてくれる。


 うれしいけど、ちょっと恥ずかしくて、でも悪くない気持ちで……


 なんて思っている間に、さくらによる個人レッスンが始まった。


 水に慣れるために潜ってみたり、プールサイドに手をついてバタ足をしてみたり……そんなこと。そして……


「ちょっ、ちょっと待って!」


 突然のことにビックリして、大声を出してしまった。


 さくらに手を取ってもらった状態で水に浮く練習をしていたのに、さくらが急に手を放そうとするから。


「手ぇ離さないでっ! お願い!」


「はいはい、分かってるってば」


「うそ! いま離そうとしたでしょ! ホントやめてよそういうの、溺れちゃうじゃん!」


「ごめんごめん。ちゃんと握ってるから、そのまま、力を抜いていって?」


 言われるまま、私はゆっくりと、体から力を抜いていって――


「んんーーーーーーっ! んーーーーーーーーーーっ!」


 浮いてるって言ったつもりだったけど、水に顔をつけていたから言葉にはならなかった。


「うんうん、ちゃんとできてるよ……じゃあ、今度はそのまま足をバタバタしてみて」


 さくらの声が、どこか遠くに聞こえる。私は無心で足を動かした。バシャバシャと音がする。思っていたより大きな音だ。


 でも、その音に隠れるみたいにして、まえに進んでいる感じがあった。


「ぷっ。……あれ、泳げた!? 私いま泳いでたっ!?」


 初めて味わった感覚に、私は顔を上げてさくらを見た。すると、さくらはすこし離れた場所で手を広げている。


「うん! ちゃんと泳げてたよ。じゃあ、今度はここまで来てみて!」


 私はまた体から力を抜いて、さっきみたいに足をバシャバシャと動かす。今度はさっきよりもちいさめに。それでも、私の体は、ちゃんと前に進んでいって……


「椿ちゃん……!」


 私の手はさくらに届いた。さくらは私の手をぎゅっと握って、


「すごいじゃん! ちゃんと泳げてたよっ!」


「うん! 私初めて泳げた!」


 まるで自分のことみたいに喜んでくれて、それにつられちゃったのかなんなのか、私のテンションも妙に高くなったけど……


「あっ、えっと、その……」


 急に恥ずかしくなってきた。視線をそらして、どうしようかなとあっちを見たりそっちを見たり。


「椿ちゃん」


 そんなことをしているとさくらに名前を呼ばれて、私の視線は結局元の位置に戻った。


「やったね。おめでとう!」


「べつに……さくらが教えてくれたからでしょ」


「もう、違うよ。わたしじゃなくて、椿ちゃんが頑張ったから。だからもっと自信持って。ね?」


「うん……」



 きっと、さくらは泳ぐのが上手なんだろう。それに比べて、私はまだ拙くて、おぼつかないバタ足だけど……


 すこしだけ、さくらに近づけたような気がした。




 プールを出たとき、もう日は傾いていた。


「さっきの椿ちゃん、本当にすごかったなあ」


「まだ言ってるの? おおげさ」


「だってさ、一日でクロールまでできるようになったんだよ。すごいってば」


 さくらはなぜか私よりもうれしそうだ。おかげで、私はどんな反応をすればいいのか分からなくなった。


「ね、また一緒に来ようよ。今度は背泳ぎしてみない?」


「……できるかな。やったことないし」


「できるよ。クロールだってあんなに上手にできたんだもん」


 すごいとか上手って言うけど、そんなにうまくは泳げなかったんだけどな。


 でも、練習していくうちに、すこしずつ泳げるようになっていくのが分かって、それはちょっと楽しくて、うれしくて……


 すこし、あとすこしだけ、泳いでいたい気分。


「じゃあ……うん。また教えて」


 それを悟られるのは恥ずかしくて、私の口から出てきたのはいつもとおなじぶっきらぼうな言葉だった。でも……


 学校のプール開きが、なんだか楽しみに思えてきた。




 肝心のプール開きの日、日焼け止めを塗っているところを先生に見つかって「今日は水に入らないで」と言われるのは、またべつの話。

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