第17話 天王洲桜のある長い一日②

 そういえば……あのときも、こんな風に椿ちゃんのことを考えてたっけ……



 習い事をサボっていたことがバレたわたしは、お父さんから幼稚園以外の外出を禁止された。


 だからわたしは、最後に椿ちゃんをある場所へ連れていってこう言った。



(――「辛いときとか悲しいときは、ここに来てね。そうしたら、わたしは必ず、すぐに駆けつけるから」――)



 その言葉に、嘘偽りはない。


 どう接すればいいのか分からなかった。どう声をかければいいのか分からなかった。だからわたしは、一度逃げてしまった。


 そんな矢先に、わたしにはきれいに舗装された逃げ道が与えられた。だから、もう逃げたくなかった。


 わたしも、向き合わなきゃいけないと思った。一度楽な道を選んだ私に、楽な道を選ぶ資格はない。だから、向き合わなきゃ。逃げずに必死に現実と向き合おうとしている、大切で、愛おしい人に。



 そこは、わたしにとっては見慣れた場所だ。


 広く開けた、集会やレクリエーションなどの機能を持つ場所。言ってしまえば広場だけど、休憩スペースとしてカフェのテラスみたいな場所があったり、噴水が設置してあったり、時計塔も建っていることから、わたしたちはちょっとオシャレに「プラザ」と呼んでいる。


 わたしの部屋の窓から、プラザまでの直線状には、木も建物もない。だからわたしの部屋からは、鮮明に見えるのだ。そこに、だれがいるのかが。


 わたしは起き上がって、窓辺まで歩く。そして、外を見た。いつの間にか雨が降っていたけれど、それでも、今日もよく見える。


 そう、椿ちゃんは今日みたいに、あの日も屋根のついたテラスに座っていて……



 …………



 ……………………




 えぇっ!?




 思わず二度見した。目をこすってもう一度見た。けれども、その子は変わらずそこにいた。


 間違いない、あれは椿ちゃんだ! お出かけスタイルでかわいい!


 逢いたすぎてわたしの脳が見せてる幻覚じゃない! 本物の椿ちゃん! いや、ていうか……



 ど、どうしてそこにいるんだろう?



 わたしは、さっきの自分の言葉を、もう一度思い出す。



(――「辛いときとか悲しいときは、ここに来てね。そうしたら、わたしは必ず、すぐに駆けつけるから」――)



 ま、まさか、なにか辛いことがあったとか!?


 わたしがちょっと目を離した隙に、椿ちゃんが辛い思いをしたっていうの!? だからこんなパーティー来たくなかったのに! ていうかだれだ椿ちゃんに辛い思いをさせたやつは!! もしそんなやつがいたら、絶対に許さない!! 親が産まれてきたことすら後悔させてやるからっ!!


 わたしはもう、いてもたってもいられなくなった。


 とにかく椿ちゃんに逢いに行かなきゃ!


 そう思ったときには、わたしはもう行動を開始していた。


 スライド式の窓を開けてベランダに出る。ベランダの近くには木が生えているから、それを利用して下に降り……って、ああもう! ヒール邪魔! わたしは欄干にヒールをひっかけて力任せに引っ張る。するとヒールはポキッと折れた。


 突っ掛けみたいになったヒールを履いて、わたしは欄干から木に飛び移り、勢いそのままに下まで降りる。


 それからドレスのスカートをたくし上げて、広い庭を全速力で走った。あっという間に裏口までたどり着いて、わたしは一度も振り返ることなく外へ飛び出した。


 それでもわたしの勢いは止まることはない。雨に濡れ、ドレスは肌に吸い付いた。けれど、そんなことはどうでもいい。


 一分……うぅん、一秒でも早く、椿ちゃんのところへ行かなきゃ! 逢わなきゃ……逢いたい……っ!!




「椿ちゃん……っ!!」




 わたしは叫ぶようにして名前を読んだ。でも、思ったほど大きな声は出せなかった。喉が痛い、それに、いつの間にか息も上がっていて、わたしは肩で息をしていた。叫んだつもりの声は、擦れてさえいた。でも……


 彼女は、ゆっくりとうつむけていた顔を上げる。そして――



「さくら」



 すこし驚いたような顔をして、呟くみたいにちいさな声で、名前を呼んでくれた。



 たったそれだけのことなのに、どうしてだろう……? わたしの世界は冗談みたいに鮮やかに、極彩色に彩られた。





 結論からいって、わたしの考えは早計だったらしい。椿ちゃんは、べつに辛いことが遭ってここに来たわけじゃなかった。


 お散歩をしていたら、急に懐かしくなって寄っただけなんだとか。でも、こんなに雨が降っているのにお散歩? 寮を出たときは降ってなかったのかな? この雨、いつから降ってるんだろ?


 椿ちゃんはハンカチでわたしを拭いてくれて、そのあとハンカチを貸してくれた。


 それから、わたしたちはお話をした。いつもしているような、他愛のない、お話。


 椿ちゃんは、わたしが初めて見るお洋服を着ていた。……うーむ、椿ちゃんてスカートが好きだよなあ。いつもスカートかワンピースばかりで、それ以外ってほとんど見たことない。しかも、丈はミニ! これはもう、わたしに足を見せつけているんではっ!?


 ……なんて、一人で盛り上がるだけなら自由だよね。眼福である。目の保養になった。


 椿ちゃんはお昼ご飯を食べてないみたいだった。まったく、困った子だ。パーティーで出た料理を持って帰るからと言うと、ちょっとうれしそうにしていた。こういうところ、子供っぽくてかわいい。でも……




「さくら、部屋に鍵かけてるんだね」


「え”っ」


 突然の変化球に、わたしは変な声……というか、鳴き声みたいなのを出してしまった。


「ああ、うん。まあね」

「どうして?」


 さらなる追求に、しかしわたしは言葉を返せない。


 これ……椿ちゃん、怒ってる……よね……?


「今朝、さくらがいつもの時間に来なかったから、部屋行ってみたんだけど。鍵かかってて入れなかったから」


「う、うん。ちょっとその……恥ずかしくって……?」

「そうなんだ。私の部屋には入ってくるくせに」

「…………」


 ヤバイ椿ちゃん超怒ってる。


 そりゃそうだよね。でもだって! 鍵をかけないわけにはいかないんだよ! だって……



 わたしの部屋には、椿ちゃんの盗撮写真とかそれから作ったポスターとか椿ちゃんのぬいぐるみとか椿ちゃんのスリーサイズまで完璧に再現して作った等身大の抱き枕やフィギュアなんかがあるんだから!!



 あれらを見られるのは、さすがにマズい。いや、正直椿ちゃんの反応を見てみたくもあるんだけど……でもやっぱりマズい!


 ど、どうしよう! なんて答えればいいの!? わたしは一体どうしたら……


 隣に座る椿ちゃんを見る。見て、わたしは急に冷静になった。だって、椿ちゃんは横顔からでも分かるくらい、不安そうだったから。


 そうだ……なんでもっと早くに気づかなかったんだろう。椿ちゃんはいま、不安なんだ。わたしに信用されてないんじゃないかとか、そんなことを考えちゃってるんだ。そんなこと、あるはずがないのに……



「ごめん」


 わたしは椿ちゃんの思考を打ち消すように、ハッキリと言った。


「これだけは勘違いしないでほしいんだけど、椿ちゃんに部屋に入られるのがイヤとか、信用してないとか、そういうわけじゃないからね。そこだけは、勘違いしないでね、本当に」


 そして、強い口調で続ける。椿ちゃんのありえない考えなんて、どこかへやってしまうように。



「じゃあ……なんで鍵、かけてるの……?」


「それは……」


 やっぱりそう続けてくるよね。


 どうしよ。正直、勢いで誤魔化せないかと思ったんだけど。


 くっ……! こ、こうなったら……!


「部屋を見られるのが恥ずかしいってだけだよ。ほんのちょっとだけ。でも、そうだね……わたしだけ鍵をかけておくのも、ちょっと変だよね。外すね」

「い、いいよ、べつに。理由が知りたかっただけだから……」

「うぅん、外す。変なことで椿ちゃんを不安にさせるのイヤだもん」

「べつに不安になんてなってないし……」


 開き直り気味に誤魔化した。


 実際、鍵をかけることには罪悪感もあった。だから潮時だろう。椿ちゃんコレクションは、本人の目が届かないよう、クローゼットの中に隠せばよい。



 それから椿ちゃんは黙ったから、たぶん、納得してくれたみたい。


 今のわたしたちは、ただ黙って座っているだけ。傍から見れば、もしかしたらわたしたちはケンカしてるみたいに見えるのかも。でも……


 わたしは、この空間がたまらなく心地よかった。体感時間しか歳を取らないなら、わたしは椿ちゃんといっしょにいれば、時間の束縛から解き放たれて、永遠の時を生きられるかもしれない。


 そう、ずっといっしょに、いられれば……



「椿ちゃん」

「うぇっ!?」

「えっ? ど、どうしたの……!?」



 椿ちゃんが変な声を出したので、わたしも変な声が出てしまった。



「なんでもない。なに?」


「ごめんね。わたし、もうそろそろ行かなきゃ」


 戻らなきゃ、みんなに迷惑が掛かってしまうから。


 ていうか、もうすでにかけてるけど。……でも、これはひょっとして、逃げてるだけなのかな? あのときみたいに……


「このまま椿ちゃんと帰りたいんだけどなあ……」


 一体どんな感情からか、わたしはそんな言葉を口にしていた。


 してから、しまったと思った。こんなことを言っても、椿ちゃんを困らせるだけだ。わたしは誤魔化すように、言葉を続ける。


「椿ちゃん、お昼ちゃんと食べなきゃだめだよ。帰りはたぶん、六時過ぎると思うから。お土産も楽しみにしててね」


 それから、わたしは逃げるように帰ろうとしたけど、


「ちょ、ちょっと待って!」


 椿ちゃんがわたしの腕を掴んできた。


「つ、椿ちゃん……?」

「あ、えっと……」


 自分で掴んできたのに、なぜか椿ちゃんは驚いたような、それか焦ったみたいな、そんな顔をしていた。


 いったい、どうしたんだろう……?



「あの、これ……」


 やがて、椿ちゃんはなにかを絞り出すようにして、バッグからなにかを取り出した。


「えっ? なあに?」


「だ、だからその……プレゼント……」


 うつむいていてしっかり見えないけど、椿ちゃん、耳まで真っ赤になってる……?


 照れてるのかな? かわいいなあ。いや、ていうか…………



「えぇえええええええっ!? 椿ちゃんがわたしにプレゼント!? なんでなんでどうしたの急にっ!?」



 驚いた。超驚いて超大声を出しちゃった。


「べ、べつに……散歩してたら、さくらに合いそうなのがあったから、それだけ……もっ、もういい! やっぱり何でもないっ!」

「あん、待って待って! からかってるわけじゃないの! ホントに驚いちゃって!」


 超驚いてる間に超照れてるっぽい椿ちゃんが手を引っ込めようとしたので、わたしは超慌ててその手を掴む。


「わたしのために買ってくれたんでしょ? ありがとう。もう一回渡してほしいな」


 言って、わたしはぎゅっと、手にちょっと力を籠める。


「う、うん……じゃ、手、放して」


 そしたらそう言われた。


 ちょっと名残惜しいけど、まあ、しょうがないか。



「その……ありがとう。いろいろ……」

「うん……ふぇへっ、どういたしまして」


 おっといけない、変な笑いが出ちゃった。……大丈夫かな? 気づかれてない、よね?


 椿ちゃんは照れ臭そうに、それを渡してくる。……うん、大丈夫っぽい。


 椿ちゃんが渡してくれたのは、キレイに包装された、手のひらサイズの小箱だった。



 …………



 ……………………




 うぇええええええっ!?



 こ……これってまさか……もともとは地球の裏側で地中深くに埋まっていたやつ! 高い圧力をかけられた炭素! 通称、指輪っ!? わたし、プロポーズされたの!?



 わたしは震える手で、それを受け取った。


 それから、小箱を胸のまえで大事に抱える。


「ありがとう。本当にうれしい。もったいなくて使えないや」


 この指輪は、変色とか劣化しないように、紫外線が当たらず、湿度や温度なんかが管理できる場所で……そうだ! お父さんが地下に作ったワインセラーで大切に保管しよう!


 ……でもなあ。椿ちゃんからのプレゼントをわたし以外の部屋で保管するのもヤダ。よしっ! お父さんに頼んで専用の部屋を作ってもらおう!



「……使って。もったいないから」


 帰ったらまずはめてみよう。うへへっ、椿ちゃん、わたしの薬指のサイズ知ってるなんて、やっぱりムッツリだなあ……




 とか思ってたんだけど……帰ったらまずはメチャメチャ怒られた。まず綾瀬さんに怒られた。そのあとお父さんとお母さんに怒られて、そのあと綾瀬さんも怒られたみたい。この点は本当にごめんなさい。


 あと、プレゼントは指輪じゃなかった。


 でも、わたしはガッカリしたりしなかった。だって……


 プレゼントは口紅だった。


 商品名は――『ラ・ブリュイエール』



 それは、十六世紀を生きた、フランスのモラリストの名前だ。


 その人の言葉に、こんなものがある。



「――人が心から恋をするのはただ一度だけである。それが初恋だ――」



 そしてこの口紅には、ある花が刻印されていた。



 プルミエ・ラムール。フランス語で、花言葉は……初恋。



 こっ、これはもう、告白と考えてもいいのではっ!?


 ていうことは、わたしは帰ったら椿ちゃんを抱きしめたりちゅーしたりしてもいいってことだよねだって告白されたってことはわたしたちは両想いってことなんだものっっ!!



 なーんて、ね。


 椿ちゃんのことだ。たぶん他意はない。本当に、わたしへの感謝の気持ちとして、送ってくれたんだろう。花言葉とかにも、たぶん興味ないだろうしね、あの子。



 化粧台のまえに座ったわたしは、クレンジングシートで口紅を拭きとる。それから椿ちゃんから貰った『ラ・ブリュイエール』を出す。


 そして、ゆっくりと、自分の唇にのせる。


 桜色に彩られた自分の唇。不意に、その唇が緩んだ。


 それはたぶん、わたしが椿ちゃんにだけ見せる笑顔と同じもので。


 そっと目を閉じると、瞼の裏側には、椿ちゃんの笑顔を思い浮かべることができた。



 ――うん、いまなら分かる。



 オフィーリアは、死んでいるわけじゃない。


 ただ、自分や状況と向き合って、選択しただけだ。




 ずっと昔、わたしの前で道が二つに分かれていた。


 だから私は、舗装された道を選んだ。


 椿ちゃんのお母さんが亡くなったとき、わたしはどう接すればいいのか分からなかった。


 怖かった。荒れた道を選んだら、この子を余計に傷つけて

しまうんじゃないかって。そんな、もっともらしい理由を並べ立てて、現実から目をそらした。


 だからせめて、ずっと傍にいようと決めた。


 日常を無くしてしまったあの子の中で、わたしだけは日常でいられるように。


 あのときのわたしの判断が正しかったかどうかは、分からない。十年たった今も、答えは出ないままだ。でも……



 きっと、わたしは間違っていなかった。



 なぜか今は、そう信じることができた。





 わたしが帰ったとき、午後六時を五分ほど回っていた。


 椿ちゃんは、ちょっと笑って玄関でわたしを出迎えてくれた。



「ただいま、椿ちゃん」



 だからわたしも、ちょっと笑って答えた。


 桜色の唇で、わたしの世界を極彩色に彩ってくれる最愛の人に、最上の感謝を込めて。




 長かった一日が、ようやく終わった気がした――

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