第16話 天王洲桜のある長い一日①

 ある詩人が言った。


〝黄色く染まった森の中で、道が二つに分かれている〟



 あのとき、たしかに椿ちゃんは泣いていた。


 わたしのまえでは、決して涙を見せまいとしていたけれど、それでも、たしかにあの子は泣いていた。


 いつも涙で全身をずぶ濡れにして、いまにも溺れてしまいそうだった。


 わたしは、そんなあの子を見ていられなかった。


 でも、だからこそ、わたしはずっと、あの子の傍にいようと決めた。


 だから、私は選んだ。



 舗装された、きれいな道を。





「えぇっ!? そ、そんな急に言われても……」



 その日は土曜日だった。


 だから朝もちょっとゆっくりしていて、わたしが起きたのは六時ちょっと前。時間的には早いことに変わりはないけど、こればっかりは仕方ない。だって、椿ちゃんが起きる前に洗濯や朝ご飯の準備を終わらせておかないと、二人の時間が減っちゃうから。


 休日、椿ちゃんは八時すぎに起きてくる。だからそれまでに全部終わらせたいんだけど……


 六時半過ぎ、わたしがいつものように椿ちゃんパンツの誘惑に打ち勝ち、椿ちゃんブラウスで我慢して洗濯をすませ、朝食の準備を始めようとした最中の出来事だった。


 寮の固定電話に、電話がかかってきた。朝はやい時間だから、正直ちょっとやな予感はしてた。そして、予感は的中してしまった。


 電話の相手はお父さんだった。しかもその内容が……〝各国の大使や大臣も招いて、パーティーを開催することになっているから、さくらにも参加してほしい〟なんてものだったので、急に困るという至極当然な抗議をしたら、


 秘書に言うように頼んでいたのに伝達ミスで伝わっていなかった、と言われた。えらい人の言い訳ってズルい。


 要するに、家族総出でお客様をおもてなししたいらしい。


 そもそも、どうしてパーティーを開くのか?


 金持ちの散財と揶揄されるかもしれないけれど、実際散財することが目的だ。


 パーティを開けば、料理を作るシェフ、必要な食材を下ろしてくれる業者の人、給仕をしてくれる使用人の人たちにお金がいく。


 富裕層が貯金していては経済が回らなくなる。だからお金を使う。〝金は天下の回り物〟ということだ。


 それは分かる。わたしたちの責務なんだろうとも思うし、いまさら文句を言うつもりもない。ないけれど……


 思わず出そうになるため息を、わたしは危ういところで飲み込んだ。


 断りたいけど、逃げられそうにないな……。そう思っている間にも、お父さんは話を詰めてくる。


 ていうか、たぶんもう迎え自体は寮にむかってると思う。なにを言ってもムダなんだろうなあ。


 わたしは心の中でため息をついて、「すぐに準備します」と言って電話を切った。




 まずは急いで椿ちゃんの朝食を準備しなくっちゃ。今日は簡単なものしか作れそうもない。半熟の目玉焼きを作って、今度はウインナーを焼く。そうだ、ウサギと亀の形にしよう。今日はこのくらいしかできないけど、椿ちゃんが興味を持ってくれるといいな。


 そんなことをしている間に、また電話が鳴る。それは迎えの電話だった。もう寮の前まで来ているらしい。思っていたよりも早い。洗濯をすませておいてホントによかった。わたしはちょっと待ってもらって、料理をすませ、外出の支度をする。


 そうだ、椿ちゃんに一声かけていこうかな? ……いや、止めておこう。あの子低血圧だし、寝かせておいた方がいいだろう。代わりに書置きでも書いておこう。


 あっ、そうだ。部屋に鍵かけとかないと。もし入られたら、その……アレだから。



 結局、わたしは七時過ぎには家を出ることになった――





 寮から、車で二十分かからないくらいのところに、その建物はある。


 まず見えるのは、身の丈の二倍はある高くて白い石壁。そして、大きく黒い鉄門だ。リムジンが近づくと、音もなくその門が開いていって、リムジンもまた、音をたてずに門をくぐった。


 長くて曲がりくねった道の両側には、何種類もの花がきれいに咲き誇っていて、これは庭師さんが毎日お手入れをしてくれている。この道は館までずっと続いている。


 やがて見えてくるのは、真っ白な、お城みたいな建物。いつ見てもロンドンにあるウィンザー城をちいさくしたみたい……っていうか、ウィンザー城の外観を真似て建てたらしい。


 ここはわたしの……正確には、天王洲家の別荘だ。そう、別荘。本家はべつにあります。我ながらすごいよなあ。これこそ散財だと思う。




「お帰りあそばしませ、ひいさま」


 玄関ホールに入ると、エプロンドレスに身を包み、髪を束ねた二十半ばくらいの女性に、恭しく一礼された。



 ――姫さま。



 わたしは、実家ではそう呼ばれる。二人のお姉ちゃんも同じように呼ばれ、お兄ちゃんは「若様」と呼ばれる。お父さんは「ご当主様」でお母さんは「奥様」だったかな。


 女の子は、みんな「お姫様」に憧れるものかもしれないけど、わたしは昔からこの呼び方が好きになれなかった。とても無機質で、冷たい呼び方のように聞こえるから。


 だからかな。小学生のとき、マスコミの人がわたしに『最後の歌姫』って異名をつけたとき、正直辟易した。〝姫〟なんて呼ばれ方をするのは、家だけで十分だったから。


 それがイヤになって、学業を理由にテレビへの露出は中学生までで打ち切ってもらった。



「ただいま、綾瀬あやせさん」


 わたしが軽く答えると、綾瀬さんは顔を上げて言う。


「皆さますでにお待ちです。ご挨拶のまえに、まずはお着替えを」

「はあい」


 今度はすこし間の抜けた声を出してみた。綾瀬さんはほんの一瞬、眉を動かしたような気がする。けれど、結局それについては何も言わずに、


「お部屋に参りましょう」


 とだけ言った。



 外装だけでなく、内装も西洋風だ。もちろん、ところどころ電化製品は見えるし、利便性は崩していないけれど。


 壁に掛けられた絵画や廊下に置かれている調度品は、お客様の目を楽しませるための物。お父さんは、こういうところにはかなり気を遣っている。


 絵画の場合は、例えば高さだ。すべての絵画は140~150センチの位置に飾られていて、これは「目線に合わせる」ためで、美術館などでも用いられている方法らしい。でも、それは廊下の場合。部屋に飾っているものは、多くの人が見ることも予想して、すこし高めにかけることで遠くからも見えるよう配慮しているんだとか。あとは部屋には縦長の絵画を、廊下には横長の絵画を、とか。他にも共通性とか、家具の配置や照明の位置など、いろいろと考えてかけている、とまえに訊いてもいないのに教えてくれたことがある。



 屋敷にある数ある絵画の中で、お父さんが最も気に入っているのがミレーの『オフィーリア』だ。


 これはわたしが生まれた日、お父さんがアメリカの多国籍企業のCEOに競り勝って手に入れたもので、わたしへの誕生祝らしい。


 シェイクスピアの『ハムレット』……その一場面を描いた絵画。オフィーリアという女性が、両手を広げて詩を読み上げながら、デンマークの川に沈んでいく様子を描いた絵画だ。



 ていうか、仮にも誕生祝いに人の死を描いた絵画をプレゼントにするってどういうセンスなの? って思ったんだけど、オフィーリアの死は文学の中で最も詩的に、そして優美に書かれた死の場面の一つとして称賛されているらしい。どうもお父さんは、わたしには儚さと美しさと、そして慈しみを持った人間に育ってほしいという願いを込めて、『オフィーリア』を購入したそうだ。


 正直言って、ちいさいころはあまりこの絵が好きじゃなかった。だって、どうしたってあの子を思い出してしまうから。いつも涙を流していて、いまにも溺れてしまいそうだったあの子を。


 ずっと気になっていることがある。ミレーの描いた『オフィーリア』は、もう死んでしまっているのか、それともただ眠っているだけなのか……


 わたしにはとても怖かった。いつかあの子も、オフィーリアとおなじ道を辿るんじゃないかって。だから、ただ眠ってるだけだって、思いたかったけど……


 結局、いまになっても答えは出ないままだ。




 着付け部屋で屋敷用の部屋着に着替え、お父さんとお母さん、それからお兄ちゃんと二人のお姉ちゃんに挨拶をすませたわたしは、ようやく自室に入った。


 帰ってこいと言うから帰って来たのに、自分の部屋に入るだけでなんか疲れた。早速だけど、もう帰りたい。



「お時間になり次第お迎えに上がります。ご用の際は、インターフォンでお呼びください」


「うん。ありがとう」


 事務的なやり取りと一礼の後、綾瀬さんは静かに下がっていった。



「はあっ」


 わたしは一度ため息をついて、


「姫さま」

「うひゃいっ!?」


 ドア越しに声をかけられて飛び上がった。


「な、なにっ?」


「お分かりとは思いますが、私がお迎えに上がるまで、くれぐれもお部屋からお出にならないよう……」


「はいはい、分かってます!」


 ちょっと語気を強めて言うと、綾瀬さんは「失礼いたしました」と言って、今度こそ下がった。


 おのれ、フェイントとは汚い真似を……! でも、これも元はといえば、わたしの以前の行動が招いたツケか……



 一時期、わたしは習い事をサボって、毎日この屋敷を抜け出していたから。


 その時わたしの世話をしてくれていたのは、綾瀬さんのお母さんだった。泣き落としで味方につけて、いろいろと協力してもらったけど、それがバレたときにお父さんに怒られたらしいから、その話から未だに警戒してるのかもしれない。


 でも、どうしても、わたしには屋敷を抜け出さなきゃいけない理由があった。だってわたしがそうしないと、いまにも溺れてしまいそうな子がいたから……



 わたしたちが幼稚園を卒園する、ほんの少し前。椿ちゃんのお母さんが、事故で亡くなった。


 そのことを知ったときから、わたしが考えていたことは、たった一つだ。



 ――椿ちゃんに、どう接するか?



 哀れむべきか? それとも、同情して、慰めるべきか?


 考えた挙句、わたしはそのいずれも選ばなかった。



 わたしは、事故で家族を亡くしたことはない。だから、逆立ちしたって椿ちゃんの気持ちは分からない。


 だから、下手な行動はとらないことにした。代わりに、いつもと変わらない態度で接する。椿ちゃんは、いきなり〝非日常〟に放り込まれたんだ。きっと、不安で仕方ないに違いない。なら、なにもできないならせめて、わたしが椿ちゃんの〝日常〟になろう。そう、心に決めた。そう、思っていた。でも……



 ――違う。



 いまなら分かる。あのとき、わたしは逃げたんだ。


 あのときの椿ちゃんは、とても不安そうで、なにかに怯えているようで、でも笑っていて……まるで夢でも見ているように、毎日を過ごしていた。


 そんな椿ちゃんを、わたしは見ていられなかった。だから、目をそらしてしまった。もっともらしい理由をつけて、逃げたんだ。


 二つに分かれた道を見て、私は舗装された道を選んだんだ。


 椿ちゃんは、わたしには全部を話してくれた。お母さんが死んだこと、その時はなにも感じなかったこと、しばらくして、死を実感した時のこと……


 でも、その時もわたしは、なにも言うことができなかった。かける言葉が、どうしたって見つからなかったから。


 なにが正解だったのかは分からない。あるいは、わたしのとった行動が正解だった可能性もあるけれど。



 ふと、部屋の一点に目をやる。そこには、『オフィーリア』がかけられていた。もっとも、あれはレプリカだ。本物は金庫室で保管されているから。


 思い浮かぶのは、いつもの疑問。彼女は死んでいるのか、ただ眠っているだけなのか――?


 ……分からない。十年たった今でも、答えは出ないままだ――




 どのくらい経ったのか、綾瀬さんが迎えに来た。


 パーティー用のドレスに着替えさせられ、わたしは家族とともに会場へと向かう。


 一階にある、パーティー用のホールだ。


 お父さんのあいさつの後、パーティーが始まった。


 わたしは社交用の笑みを仮面みたいに張り付けて、招待客のお相手をする。会社の人や日本の政治家なんかもいるけど、他国の大臣や大使もいる。だからここでは、英語でしゃべるのが決まりだ。公用語が英語だなんて、まるで大使館みたい。


 社交辞令に社交辞令を返し、ドレスを褒められたのでお礼を言い、自分の近況を上辺のみを話す……


 わたしたちだけじゃない。会場の至る所で、美辞麗句びじれいくが飛び交っている。


 とても退屈な時間だ。二百年も前から学者先生たちが主張しているけれど、時間とは相対的なものらしい。


 人間は体感時間しか歳を取らない。それが正しいなら、ここに居続けたら、わたしは一年で死ぬかもしれない。


 こうしていると、すべてのモノが作り物めいて見える。人はマネキンで、ここは舞台。糸で操られた人形みたいに、カクカク動いてセリフを読み上げる。いまのわたしは、まるで見えないだれかに操られているみたいだった。



 大使と話をしつつ、わたしはあることに気づいた。


 あのタルト、椿ちゃんが好きそうだな。イチゴやブルーベリーなんかのフルーツが乗っていて、その上から砂糖をまぶしてある。あの子は甘いのが好きだから、きっと喜ぶだろう。



 立食形式のパーティーでは、常に人が円形に動く。だからわたしも、その流れに乗って桃太郎みたいに流されなきゃならない。といって、ほかに明確なルールがあるわけじゃないから、臨機応変に動く必要がある。正直、一番面倒な形式だ。


 とりあえず、椿ちゃんの分もタルトを取って、それを綾瀬さんに頼んで包んでもらわなきゃ。




 パーティーも前半が終わり、女性陣はお色直しの為に一度席を離れることになった。


「恐れ入ります。少々お部屋でお待ちください。お姉さま方の準備が整い次第、お迎えに上がります」


「うん。分かった」


 彼女を見送り、念のためにドアに耳を押し当て、気配が遠ざかるのを確認した後、



「はぁああ~~~~~~~~~~っ」



 これでもかというほど大きなため息をついて、わたしは大きな天蓋付きのベッドに仰向けに身を投げ出した。


 


 疲れた疲れた疲れた疲れた! 椿ちゃんに逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたいっ! 椿ちゃああああああああああああああああああああああああああああああんっっ!!




 叫びたいけど叫べないので枕に顔を押し付けて叫ぼうかと思ったけどそれだと化粧が崩れるので心の中で叫ぶしかなかった。


 ふと、視線の端に『オフィーリア』が入ってくる。


 悲観に暮れて、詩を歌い、両手を広げて、デンマークの川に沈んでいく彼女……


 わたしはベッドの上で両手を広げ、『ハムレット』でオフィーリアが歌っていた詩を詠みあげてみた。でも……


 やっぱり、彼女の気持ちなんて分からない。分かるはずも、きっとないんだ。


 わたしの口からは歌は消え、代わりにため息が出てくる。


 愛想笑いのせいで顔が引きつりそう。筋肉痛になりそうなくらいだ。……こうなったら、セロテープで表情を固定しちゃおうかな。でも、どうせ綾瀬さんに怒られて外されるだけだよね。



 わたしは無意識のうちに、また大きなため息をついていた。


 全然すっきりしない。……椿ちゃん、いま何してるんだろ。

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