第15話 伊集院椿のある長い一日②
――私は雨が嫌いだ。
湿気のせいで私の髪の毛はより融通が利かなくなるし、スカートを穿くと足元が濡れる。それに……あの時を思い出すから……
正直に言って、その時のことはほとんど覚えていない。
たしか、私が小学校に上がる、ほんのちょっと前だった。
ママが死んだ。
交通事故だったそうだ。社長夫人としての付き合いで行ったランチの帰り道。車で帰宅途中に、大型トラックが突っ込んできたらしい。
伝え聞いた言い方しかできないのは、実際伝え聞いただけだったから。
事故が遭ったとき、私は幼稚園にいた。ママが事故に遭って、死んだとき、私はまだ日常の中にいた。でも……
その事実を知ったとき、私は意味を理解することができなかった。多分、頭が追いついていなかったんだ。体だけが時の流れに乗っていて、感情だけどこかに置き去りになっていたんだ。
そして、ただ漠然とした不安と共に、悲しみとも分からない感情を胸に、通夜を終え、私が状況を理解しきる前にママは真っ白な骨になった。
私が状況を理解できなかった一番の理由は、事故以来、ママの姿を一度も目にしていないから。当時の口ぶりを思い出すに、多分、パパも見れなかったんじゃないかと思う。きっとそのくらい、ひどかったんだ。
私が状況を理解したのは、四十九日を終えて、少し経ってからだったと思う。
本当に、突然だ。
幼稚園で絵を描いた。家族の絵。パパと、私、そしてママ、三人の絵を書いて、家に持って帰った。
その日はパパが家にいたから、まずはパパに見せた。そしてそのあと、私はママの部屋に行った。
でも、そこには誰もいなかった。
部屋は、たしかにママの部屋。正確には、ママと、パパの。
家具も、装飾も、化粧台も、事故の前と、なにも変わらない。ただ、ママだけがいなくなっていた。
そのとき、私はようやく理解した。
私を生み、愛し、育ててくれた人は、もうこの世のどこにもいないのだ。
世界のすべてが遠くに感じた。そのとき、確かに私は、この世界のどこにもいなかった。どこか見知らぬ場所に一人で佇んで、ただ死ぬのを待っているかのようだった。
喉が痛くて、耳も痛い。誰かが、大声を上げて泣き叫んでいるようだ。
うるさいなあとか、みっともないなあとか、まるで他人事みたいに考えた。
でも違った。泣いているのは、私だった。
泣いちゃだめだと分かっているはずなのに、涙も声も、まるで私の言うことを聞いてはくれない。なんだかとても怖くなった。
屋内だというのに雨が降って、私を全身ずぶ濡れにした。そのまま溺れてしまうような気がして、私は余計に怖くなって……
結局、何事かと驚いたパパが駆けつけてくれても、雨は止んでくれなかった。
それからのことは、よく覚えていない。記憶が途切れ途切れになっていて、まるですり切れたテープみたいだ。
古い映画みたいに声がなくて、シーンが飛んで、まるで脈絡がない。
覚えていることといえば、私は家が嫌いになった。だってあそこには、ママとの思い出が溢れていたから。
私は家を出ることが多くなった。とくに遊びたくもないのに、外で遊ぶようになった。
そんな私に毎日付き合ってくれたのは、さくらだった。
先生もクラスメイトも、それ以外の人たちも、みんな私とパパに同情的な視線をむけた。
私はそれがイヤだった。「私は可哀そうなんだ」って思えて、よけい惨めな気持ちになったから。
でも、さくらだけは違った。
いつもと同じ態度で、声で、接してくれた。私には、それがなによりうれしかった。
だから私は、さくらに全部話した。ママが死んだこと。最初はなにも感じなかったこと。そして、ママの死を実感した時のこと――
さくらをまえにすると、私の口は驚くほど回る。私がすべてを話し終えるまで、さくらはただ黙って話を聞いてくれていた。
さくらといるときだけは、私は雨が止んだような気がした。
人間って不思議だ。どんなに悲しみに溺れそうなときも、時間が経つとお腹が空いて、汚れればシャワーを浴びたくなって、夜が来ると眠くなる。
そして、さくらと遊んで……そうするたびに実感した。
私はいま、たしかに生きているのだと。
毎日、日が暮れるまで、さくらと遊ぶようになった。
でも、そんな日も長くは続かなかった。
「ごめんね、つばきちゃん」
さくらは心から申し訳なさそうな顔で、謝ってきた。
「これから、しばらく遊べなくなっちゃうの」
さくらは詳しく教えてくれなかったけど、私と遊ぶために習い事をサボっていたらしい。自分の世話役の人を味方につけて誤魔化してたけど、それが両親にバレて、しばらく幼稚園以外の外出を禁じられたんだとか。私はそのことを、あとからさくらの世話役の
「ねえ、つばきちゃん」
私の名を呼ぶその声は、あくまでもいつもとおなじ、穏やかなものだった。
「辛いときとか悲しいときは、ここに来てね。そうしたら、わたしは必ず、すぐに駆けつけるから」
さくらは私をまっすぐに見て、笑いかけてくれた。でも私は、うまく笑うことはできなかった。だって――
自分の世界が雨ですべて洗い流されて、きれいさっぱり消えてしまうような気がしたから。
着物店を出てすぐあと、雨が降り始めた。
私は日傘を差す。突然の雨に慌てる人の間を縫うようにして、私は余裕をもって歩く。
あの時に比べれば、このくらいの雨はなんてことない、小雨みたいなものだ。
そう、あの時も、私はここにいた。
家を出て、この場所にいた。
もう、いっぱいいっぱいだった。
パパはとてもやさしくしてくれた。私と同じように、きっと悲しんでもいたに違いない。けど……
でも、当時の私はそんなことは考えられなかった。やっぱり家にいるのがどうしようもなく辛かった。
我慢できたのは、ほんのすこしの間だけ。私は家を飛び出して、さくらとの〝約束の場所〟に来た。
この、広場……私たちがプラザと呼ぶ場所に。
あの時も、私はここにいた。
今日みたいに雨が降っていたから、今日みたいに屋根のあるテラス席に腰かけて、なにをするでもなく、ただそこにいた。
雨のせいか人はだれもいなかったけど、でも私はここから動く気になれなかった。
きっと私は、自分を助けてくれるヒーロー……あるいはお姫様の登場を、待っていたんだ。
そうしたら――
「椿ちゃん……っ!」
本当に、現れた。
当時の光景と、目の前の人物が、鮮やかな色を以って重なる。
「さくら……」
お姫様がそこにいた。
桜色の、幾重にもフリルのついたドレスを纏った、おとぎ話に出てくるお姫様。
「どうしたの……? なにかあったの……っ?」
言われて、私は夢の中にいるような気がして、すぐに言葉を返せなかった。
でも、彼女が雨でずぶ濡れになり、肩で息をしているのに気づいて、ようやく我に返った。
「さっ、さくら!? 何してるのそんなカッコで!? ていうか、そんなに濡れて……」
傘は持っているけど、さすがにタオルまでは持っていない。仕方なく、私はハンカチを出してさくらの顔や露出した肩なんかを拭く。そのあとでハンカチを渡すと、さくらは「ありがとう」と言ってちょっと笑った。
「でも、それはわたしのセリフだよ。椿ちゃんこそどうしたの? ここに来るなんて」
「えっ?」
「もう、忘れちゃったの? まえに言ったでしょ?」
さくらはちょっとむくれたように言った。でも、つぎの言葉は、穏やかな、包み込むような優しい声で。
「辛いときとか悲しいときは、ここに来てね。そうしたら、わたしは必ず、すぐに駆けつけるから……って」
さくらは笑っていた。だから私も、つられて笑顔になってしまう。
雨が止んだ、気がした――
「もう、椿ちゃんったら酷いよー」
なんて言って、さくらは唇を尖らせる。当然のように私の隣に座ってくれたことが、なんだかとてもうれしかった。
「だから、忘れてないってば……」
「ホントかなあ……」
不満そうなさくらの横顔を見て、私は思わすちょっと笑ってしまう。
そんな顔をしていても、やっぱりさくらはお姫様だ。
そう、まるでティアラを盗まれて、不貞腐れたお姫様……
私を見て、さくらもちいさく笑った。
「なーんて。冗談だよ」
そう言ってから、
「椿ちゃん。そのお洋服、とってもよく似合ってるね。かわいいよ。わたしが初めて見るやつだ」
「うん……全然着てなかったの思い出したから……」
うれしい。本当にうれしい。
けどなんだか恥ずかしくなって、急に手持ち無沙汰になって、気づいたら私はスカートの裾をいじっていた。
「椿ちゃん、今日はごめんね」
そんなことをしてたら、さくらがいきなり謝ってきた。
「え? なんの話?」
「ご飯のこと。もう、お父さんったらひどいんだよ! 今朝の六時にいきなり電話かけてきて、なにかと思ったら、パーティーやるから帰ってこいとか言って、その五分後には迎えの車が来て帰ることになったの!」
珍しく、さくらが怒っている。
「だから朝は簡単なものしか作れなくて、お昼ごはんも作れなかったんだ。椿ちゃん、お昼はちゃんと食べた?」
「えっ?」
言われて、私は昼食を食べていないことに気づいた。
さくらは、私の反応だけで察したらしい。「もー」とまた唇を尖らせる。
「ダメだよ。ご飯はちゃんと食べなきゃ」
「分かってる。ちょっと忘れてただけ。あとでちゃんと食べるから」
「ならいいけど……あ、そうだ! あのね、いまやってるパーティー、立食形式なの。椿ちゃんが好きそうな料理もあったから、持って帰るね。あとで一緒に食べよ?」
「うん……」
やっぱり、さくらは私のことを第一に考えてくれている。そう感じると、私は胸が熱くなって、さくらのことで頭がいっぱいになる。でも……
それなら、どうして……
「さくら、部屋に鍵かけてるんだね」
「え”っ」
……あれ、気のせいかな? なんか今、変な声が聞こえたような……
「ああ、うん。まあね」
「どうして?」
あれ……? また違和感。今度は、自分自身に。普通に訊いたつもりだったのに、ちょっと責めるみたいになってしまった。
「今朝、さくらがいつもの時間に来なかったから、部屋行ってみたんだけど。鍵かかってて入れなかったから」
「う、うん。ちょっとその……恥ずかしくって……?」
「そうなんだ。私の部屋には入ってくるくせに」
どうしよう、まただ。こんな言い方、するつもりなかったのに……
それに、一緒に住んでたってプライバシーくらいある。だから、さくらが部屋に鍵をかけていたって、あるいはそれは当然のことで、私には責める資格はないのに。
いや、それでも私の部屋には入ってくるのに、とは思うけど。でも……私はそれがイヤだってわけじゃないし……
「ごめん」
私の思考の間を縫うように、さくらの声が滑り込んできた。
「これだけは勘違いしないでほしいんだけど、椿ちゃんに部屋に入られるのがイヤとか、信用してないとか、そういうわけじゃないからね。そこだけは、勘違いしないでね、本当に」
珍しく、さくらが強い口調で言ってきた。さくらのこんな声色、私はほとんど聞いたことがない。
「じゃあ……なんで鍵、かけてるの……?」
「それは……」
さくらはほんの一瞬口ごもったように見えた。けど、すぐに言葉を続ける。
「部屋を見られるのが恥ずかしいってだけだよ。ほんのちょっとだけ。でも、そうだね……わたしだけ鍵をかけておくのも、ちょっと変だよね。外すね」
「えっ」
あんまりあっさりと言うので、今度は私が口ごもった。
「い、いいよ、べつに。理由が知りたかっただけだから……」
「うぅん、外す。変なことで椿ちゃんを不安にさせるのイヤだもん」
「べつに不安になんてなってないし……」
ちょっとだけ、ないこともないような気がしないこともないけど。
それから、私たちはちょっと黙った。でもそれは、葵ちゃんたちといたときに感じた、気まずい沈黙じゃない。さくらと一緒にいると、この静けさも心地いい。
一秒でもいいから、長くこの時間が続いてほしい。でも、その一秒が果てしなく長く感じる。こうしていると、私は時間の流れから解き放たれて、自由になれたような気がした。でも――
「椿ちゃん」
「うぇっ!?」
「えっ? ど、どうしたの……!?」
ビックリして変な声が出てしまい、それにビックリしたらしいさくらもおかしな声を出していた。
「なっ、なんでもない。なに?」
「ごめんね。わたし、もうそろそろ行かなきゃ」
見ると、さくらはすでに立ち上がっていた。
「このまま椿ちゃんと帰りたいんだけどなあ……」
私も、さくらの手を引いて帰りたい。幼稚園を抜け出したときみたいに。でも、それは迷惑をかけるだけだよね……なんて考えるのは、ただ逃げてるだけなのかな?
「椿ちゃん、お昼ちゃんと食べなきゃだめだよ。帰りはたぶん、六時過ぎると思うから。お土産も楽しみにしててね」
「ちょ、ちょっと待って!」
さくらが本当に帰ってしまいそうだったので、私は慌ててさくらの腕を掴んだ。
「つ、椿ちゃん……?」
「あ、えっと……」
なぜかどもってしまう。べつにやましいことをするわけじゃないのに。
これ以上引き留めたら、さくらに迷惑かけちゃう……はやく言わなきゃいけないのに……!
なんか……喉がひりひりする。うまく言葉を口にできない。それでも深く息を吸って、ようやく、
「あの、これ……」
私はバッグからそれを取り出し、さくらに渡した。
「えっ? なあに?」
さくらは不思議そうな顔をして、綺麗に包装された小箱を見てくる。
「だ、だからその……プレゼント……」
あまりに恥ずかしくて、私はさくらを見ることができなくなった。私、今どんな顔してるんだろ……
だっ、大丈夫かな? 受け取ってくれるだろうか。いらないとか言われたり、重いとか思われたら、どうしよ――
「えぇえええええええっ!? 椿ちゃんがわたしにプレゼント!? なんでなんでどうしたの急にっ!?」
思考をかき消すくらいの大声で驚かれた。
「べ、べつに……散歩してたら、さくらに合いそうな口紅があったから、それだけ……もっ、もういい! やっぱり何でもないっ!」
「あん、待って待って! からかってるわけじゃないの! ホントに驚いちゃって!」
ひっこめようとしていた手を、さくらが両手で包み込むように掴んできた。突然のことだったので、ちょっとビックリ。
「わたしのために買ってくれたんでしょ? ありがとう。もう一回渡してほしいな」
「う、うん……じゃ、手、放して」
すると、さくらは本当に手を放す。いや、いいんだけど……
「その……ありがとう。いろいろ……」
「うん……えへへっ、どういたしまして」
さくらはちょっと照れ臭そうに笑って、そっと受け取ってくれた。
それから、小箱を胸のまえで大切そうに抱える。
「ありがとう。本当にうれしい。もったいなくて使えないや」
「……使って。もったいないから」
そう言うと、さくらはまた笑った気がしたけど、よく分からない。だって私は、やっぱり恥ずかしくて、さくらを見ることができなかったから。
――ありがとう、さくら。
私は声には出さず、口の中でだけ呟く。
あなたのおかげで、雨が止んだみたい。
長かった一日が、ようやく終わった気がした――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます