第11話 わたしの世界に彩を

 ――わたしの世界は灰色だった。


 天王洲てんのうす家の娘ということで、来る日も来る日も周りから忖度そんたくされる毎日。こっちも、むこうが想像する〝天王洲桜〟を演じなくちゃならない。やさしく聡明で、文武両道、才色兼備の女の子。


 だからわたしは、物心ついたころには天王洲桜という〝仮面〟をすっぽり被っていた。


 みんなわたしにはよくしてくれたし、家族も私をかわいがってくれた。傍から見れば、わたしは幸せな幼少時代を過ごしたに違いない。それでも、わたしの心にはポッカリと穴が開いたみたいだった。だから――




(――「ねえ、いつもおなじページ読んでるけど、おもしろい?」――)




 そのたった一言で、わたしの世界はビックリするほど鮮やかに、極彩色に彩られたんだ。





 ――ねえ、さくら。また、いつか来よっか。いっしょに。


 ふへへへへっ。


 わたしは朝ごはんの用意をしながら、公園での椿ちゃんの言葉を思い出していた。


 椿ちゃんがわたしに、また来ようって、ふへっ……いっしょに来ようって……ふへへっ!


 思い出すたびにニヤニヤ笑ってしまう。顔は見えなかったけど、声はちょっと上ずってたから、ちょっと照れてたんだと思う。あのときの椿ちゃん、かわいかったなあ。ふへへぁっ。


 おっと、いけない。よだれが出そう。…………よだれ入れてもバレないかな?


 ……いや、止めよう。さすがにちょっとね。衛生的にもアレだし、人として終わる気がするし。


 わたしは節度ある変態←(?)なんだもの。




 ――――



 ――――――――




 準備を終えたわたしは、いつものタイミングで椿ちゃんの部屋に侵入する。したんだけど……



 椿ちゃんはわたしに気づいてないみたいだった。姿見のまえに立って、自分の体をじっと見てる。どうしたんだろうと思ったけど、すぐに気づく。椿ちゃんは、この間買ってきた下着をつけていた。感じを確認してるみたい。


 ……椿ちゃんの下着姿。そういえば、初めて見るかも。いや、何度も見てるけど、下着オンリーは初めてだ。…………ふむ。


 いつまでも見てるわけにいかないし、そろそろ話しかけるか。


「おっはよう、椿ちゃん! 今日もいい朝だね!」


 すると、椿ちゃんはビックリしたような顔でわたしを見てきた。


「あっ、椿ちゃんその下着着けたの? やっぱり似合ってるよ! すっごくかわいい!」


 さて、いつものパターンからするとそろそろ枕が飛んでくるころだ。たまには食らっておこうか、やっぱり匂いを嗅ぐべきか。どうしようかな……


「……ぃやっ!」


 息を詰めるような、詰まったみたいな声が聞こえてきたのは、そんなことを考えていたときだった。何気なく、声のした方を見て、



「え、えぇっ? つ、椿ちゃん!?」



 わたしはビックリして大声を上げてしまった。


 つ、椿ちゃんが……椿ちゃんが泣いてるっ!? うずくまっててよく見えないけど、これ泣いてるよね!? え、えぇ!? なんでなんで!? 毎日覗いてるけど、こんな反応初めてだよ!?


 い、いや、それどころじゃない! はやく椿ちゃんを慰めなきゃっ!



「だ、大丈夫っ!? しっかりして椿ちゃん! ごめんね? そんなにビックリさせるなんて思わなくて! あのっ、その……」


 落ち着かせようろしたけど、椿ちゃんは嗚咽を漏らすばかりだった。


 そんな椿ちゃんを、わたしは……


「大丈夫、大丈夫だよ」


 やさしく抱きしめた。



「だから落ち着いて。椿ちゃんが落ち着くまで、ずっと傍にいるから……」


 椿ちゃんの頭をやさしく撫でる。


 ……椿ちゃんの体って、こんなに細かったんだ……。細い体を小刻みに震わせて、ちいさく嗚咽を漏らしている。


 わたしは、その震えを止めたくて、抱きしめる腕に力を入れる。


 ――きれいだな。


 不謹慎と分かっているけど、やっぱりそう思ってしまう。椿ちゃんの体は、とってもきれいだ。


 顔だけじゃない。髪も首もうなじも鎖骨も胸もくびれもお腹も腕も肘も足も膝も、全部きれい。


 わたしの腕の中で泣くこの子が、たまらなく愛しい……



 ずっと……ずっとこうしたかった。そしたら、きっとすごく幸せな気持ちになれるんだろうと思ってた。でも……


 なんでだろう。あんまりうれしくない。うれしくないわけじゃない。でも、なんだろうこれ……まるで、しちゃいけないことをしてるみたいな……



「ごめんっ、さくら……ごめんね、きゅうに、こんな……」


 かすれた声でつぶやかれて、わたしは胸が締め付けられる思いだった。


「うぅん、気にしないで。わたしが悪いんだから」


 罪悪感を誤魔化すために、わたしはまた腕の力を強めた。



 昔、一度、一度だけ、わたしは椿ちゃんを抱きしめたことがあった。


 でもあのときは、こんな気持ちじゃなかったんだけどな……





 ――――



 ――――――――





 わたしは幼稚園が嫌いだった。


「天王洲さん、あなた、ピアノとってもお上手ね」


 そう言われるたび、わたしは自分の手が動かなくなればいいのにと思っていた。


「お歌、とってもすてきだね。わたしもそんな風に歌えるようになりたいなあ」


 そう言われれば、声が出なくなればいいのにと思った。



 幼稚園じゃ、わたしはなにをやっても褒められた。


 わたしはそれがイヤでイヤで仕方がなかった。


 わたしの実家さと――天王洲家は、明治維新以前は朝廷に仕えていた、いわゆる〝公家〟だ。わたしは、そんな〝歴史ある天王洲家〟の娘だから、みんなきっと気を遣っていたんだろう。末っ子のわたしに気を遣っても、あまり意味はないと思うんだけどね。


 息苦しかった。体も重くて、まるで深海で暮らしているみたいだった。だから、わたしはもう諦めていた。


 どうせこれからも、こんな退屈な日々が続くんだろうと。そう、思っていたのに――




「ねえ、いつもおなじページ読んでるけど、おもしろい?」




 最初、なにを言われたのか分からなかった。


 初めに気づいたのは、自分が話しかけられたのだということ。そしてつぎに、その内容を理解することができた。


 その瞬間、わたしはハッとなった。


 いつもおなじページを……


 そう。確かにわたしは、毎日おなじページを読んでいた。というか、ただページを開いているだけで、読んでなんかいなかった。


 それは、ちょっとした遊びのつもりだった。


 みんなが見ているのは、〝天王洲〟さくらであって、わたしじゃない。だから、わたしが毎日おなじページを開いていても、だれも気づかないだろう。そう、思っていたのに……



 どうして、気づかれたんだろう……?



 わたしは顔を上げて、声の主を見た。



 そこにいたのは、一人の女の子。


 髪を肩くらいまで伸ばした子だ。毛先がちょっとくるっとしてる。


 その子はじっと、わたしを見つめていた。だから、わたしも見つめ返すしかなくて。


「うぅん、あんまり」


 なぜか動揺してしまって、最初は言葉が出てこなかった。


「じつはね、わたし、本が好きなわけじゃないんだ。でも、ほかにすることないから……」


 それから、適当な理由をつけ足しておく。



 まさか、気づかれるとは思わなかった。でも気づいたってことは、わたしのことを見ていたってことだ。〝天王洲〟さくらじゃなくて、〝さくら〟っていう、一人の女の子としてのわたしを。


 そう考えると無性にうれしくなって、気づいたときには、わたしは笑っていた。


「わたし、さくらって言うんだ。よろしくね。……仲よくしてくれると、うれしいな」



 それは多分、わたしが幼稚園で初めて見せた、自然な笑顔だったと思う――




 それから、わたしと椿ちゃんはよく話すようになった。


 会話の大半は、内容なんてあってないようなもの。その日のうちに忘れてしまうような、他愛のないものだ。でも……


 わたしは忘れてなんかいない。ぜんぶ覚えてる。椿ちゃんがどこで何をしたか、椿ちゃんといつ何を話したか、わたしはそのすべてを、昨日のことみたいに鮮明に思い出せる。


 例えば、最初に話しかけられた日に話したのは、椿ちゃんのことだ。好きな食べ物とか、好きな遊びとか、そういうこと。


 あのときは、たぶんお互いに緊張してた。すくなくとも、わたしは緊張してた。だから何を話していいのか、全然分からなかった。


 うぅん、それだけが理由じゃない。だって、わたしは初めてだったんだ。同い年の子と、あんなに普通に話すなんて。ずっと夢見てきたけど、実現するなんて思ってもみなかった。


 だからわたしは、自分のことを話すことにした。椿ちゃんが自分のことを話してくれたから、自分のことも知ってほしくて。だけど……



「わたしね、天王洲家の娘って言っても、末っ子なの。だから、べつに気を遣ってくれなくてだいじょうぶだよ」



 出てきたのは、そんな言葉だった。


 しまった、と思った。


 せっかく話しかけてくれたのに、こんなことを話しちゃ嫌われちゃう。頭では分かっているのに、一度口から出た言葉は、もう引っ込んでくれなかった。



「みんな優しくしてくれるのはうれしいけど、ほんとうはね、もっとフツーに接してほしいんだ。気を遣ったり遣われるのって、みんな疲れちゃうと思うの。

 それに……わたしも、みんなと一緒に遊んだりしてみたいんだけど……家に帰ってからは習い事もあるし、外で遊ぶこともできないんだ……」



 さっきまでなにを話していいかなんて分からなかったのに、冗談みたいにわたしの口は回り始めた。


 みんなが思い描いてる「なんでもできて皆に優しい天王洲桜」になるのは疲れる……そんなことまで、わたしは話してしまっていた。


 そしてわたしが一息に話し終えるまで、椿ちゃんはただ黙って話を聞いてくれていた。



 話し終えた途端、わたしの口はまた回らなくなった。


 せっかく話しかけてくれたのにうまく話せない自分への呪いと、つまらない話を聞かせてしまった罪悪感で、わたしの頭は滅茶苦茶になった。


 どうしていいか分からなくて、無意識のうちに椿ちゃんから目をそらしてしまう。それから俯いて、顔を上げることもできなくなって……



「さくらちゃんっ!」



 突然名前を呼ばれて、わたしはハッとなった。暗くなりかけていた視界が、一瞬で晴れる。



「いっしょに遊びに行こうっ!!」


 あまりに突然のことに、わたしは茫然としてしまって、なにも言うことができなかった。




 わたしたちの幼稚園には、三十分間のお昼寝の時間がある。最初の何分かは先生がピアノを弾いてくれるけど、何分かすれば職員室に帰ってしまう。


 お昼寝の時間が始まってしばらくすると、不意にわたしの体が控えめに揺すられた。顔を上げるけど誰もいない。いや、いるにはいる、机に伏せて寝ているクラスメイトが。


「さくらちゃん」


 今度はちいさな声がした。そっちを見ると、隠れるようにしゃがみこんでいる椿ちゃんがいた。


「いこっ」


 手が差し伸ばされる。このときの椿ちゃんはとても輝いていて、まるで王子様みたいに見えた。


 それに……そう。このときの椿ちゃんは、いまよりもちょっと活発で、物おじしない子だったっけ……。



 わたしはほんの一瞬だけ迷って、その手を取った。


 椿ちゃんに手を引かれて、わたしはみんなに気づかれないように、静かに教室を出た。


 その瞬間から、わたしの心臓はドキドキした。


 これから、わたしは日常から飛び出すんだ。


 そう考えると、大きな期待と、すこしの不安、二つの感情が織り交ざって、わたしの呼吸は自然と早くなった。


 わたしたちが向かったのは正門じゃなく、裏口だった。ドアが開くのかなと心配だったけど、あっさり開いた。あとで聞いた話だけど、椿ちゃんが事前に開けていたらしい。準備のいい子だ。



 そして、わたしは外に出た。




「わあ……」




 わたしの目に飛び込んできたのは、なんてことない、フツーの光景だ。毎日、送り迎えしてもらってる車からも、何気なく見ている光景。それなのに――


 どうしてだろう。そのとき見た景色は、今もわたしの脳裏に鮮明に焼き付いている。



 歩道を歩いている人も、車道を走る車も、何もかもが輝いて見えた。


 当然といえば当然だけど、わたしたちは目立っていた。だから、人通りの少ない方へと進んでいって、最終的にたどり着いたのが、あの公園だ。



 そこで、椿ちゃんとたくさん遊んだ。一緒にシーソーに乗ったり滑り台を滑ったり、砂遊びをしたり。そして、ブランコにも乗った。


 夢みたいだった。たくさん遊んで疲れているはずなのに、わたしの体はなぜだか軽い。一度目を閉じればこのキラキラは消えて、夢から覚めてしまうんじゃないか。なぜだかそう思えて、わたしは瞬きすらしたくなかった。



 そんな時間も、突然終わりを迎える。


 幼稚園の先生たちに、居場所がバレてしまったから。


 いま思うと、たぶん近所の人が幼稚園に連絡したんだと思う。仕方ない。平日の昼過ぎから、幼稚園の制服を着た子供が公園で遊んでいたんだから。



 幼稚園に連れ戻されたわたしたちは、こっぴどく叱られた。


 たぶん、わたしの方がきつく怒られたと思う。正直この点は意外だった。どうせ気を遣って、あんまり叱られないだろうと、高をくくっていたから。



 でも一番予想外だったのは、この後――



「ごっ、ごめんね、さくらちゃん。わたっ、わたしのせいで、さくらちゃんまで……」


 椿ちゃんが、突然泣き出してしまったから。


 本当に突然だったので、わたしはビックリした。先生に怒られているときには、全然泣かずに素直に謝っていたのに、職員室から出て、二人きりになった途端の出来事だった。


「ど、どうしたのつばきちゃんっ! どこか痛くしちゃったのっ!?」

「ちっ、ちがうよっ! そうじゃなくって、わたしが余計なことしたから! わたしのせいで……」


 どうやら、先生に怒られてしまったことに、罪悪感を覚えているみたいだった。


 まったくの予想外だった。わたしはとっても楽しかったから、まさか謝られるだなんて、考えてもみなかった。


 だからわたしは――




「だいじょうぶだよ、つばきちゃん」




 そっと、椿ちゃんを抱きしめた。



「わたし、べつに気にしてないから。うれしかったし、たのしかったよ。だから、ありがとう……」



 そう言ったら、椿ちゃんを余計に泣かせてしまった。


 仕方のない子だ。この子が落ち着くまで、ちゃんとわたしが傍で見ていてあげないと。わたしはあやすように、椿ちゃんの頭を撫でた。





 しばらくして、ようやく椿ちゃんは落ち着いた。


 でも、それだけ。まだ椿ちゃんの顔は、すこし不安げで、罪悪感の色があった。



 ――イヤだ。



 単純にそう思った。この子に、こんな顔をさせたくない。この子には、いつも笑っていてほしい。


 うぅん、違う。わたしがするんだ、この子を笑顔に。この子の顔が、決して曇らないように。



「つばきちゃん、これあげる」


 わたしは手を伸ばして、椿ちゃんの頬に触れて、涙の後をぬぐう。それから椿ちゃんの髪に、ある物をつけた。


 驚かせてしまったのか、椿ちゃんはちょっと体を震わせていた。まだ不安げな顔をしているので、わたしは安心させるように言う。


「つばきちゃん、よくわたしのヘアピン見てたから……」


 それは、わたしが両耳のすこし上に付けているおなじペアピン。椿ちゃんはよくこれを見てたから、これをあげれば笑顔になってくれるんじゃないかと思ったから。


 わたしは左側についていたものを、椿ちゃんに付けた。わたしとおなじ位置に。


 椿ちゃんとのお揃い。そう思うと妙にうれしくて、わたしは胸が熱くなるのを感じた。


「つばきちゃん、よく似合ってるよ。とってもかわいい」


 しばらく黙っていた椿ちゃんだけど、やがてちょっと恥ずかしそうにはにかんだ。



「ありがとう……大切にするね」

「うん」



 椿ちゃんの笑顔が見れたことが嬉しくて、わたしも自然と笑顔になった。


 こうして椿ちゃんを抱きしめていると、なんだかとても幸せな気持ちになれる。心臓が爆発しそうなくらいにドキドキして、音が椿ちゃんに聞こえていないかが不安だった。


 まるで世界が止まったみたいだった。広い世界に二人きりになったみたいに、わたしの世界は椿ちゃんで満たされた。あんな気持ちになれたのは、あのときが初めてで。


 椿ちゃんにもそう思ってほしい。そう考えずにはいられなかった。


 そしてこれからも、この笑顔をずっと見ていたい。そう思った。だれよりも近くで、だれよりも長く。それなのに――




 ――――




 ――――――――





 まさか、椿ちゃんを泣かしちゃう日が来るなんて、思ってもみなかった。


 なんだかショックだ。嫌われちゃったらどうしよう? もう、おなじ寮で暮らしたくないって、言われたら? もし椿ちゃんに嫌われたら、わたしは……



「ねえ、さくら」

「? なあに?」



 内心はビクビクだった。もし、嫌われていたら? そう考えると、生きた心地がしなかった。


 でも、椿ちゃんの言葉は、予想外のものだった。



 ――覚えてる? 幼稚園のときのこと。



 それは、いままさにわたしが思い返していたこと。


 でも……なんだろう? 椿ちゃん、ちょっと緊張……うぅん、不安がってる?


 あ、そっか。


 たぶん、椿ちゃんは不安なんだ。わたしが、幼稚園でのことを覚えているかどうかが。


 本当に、仕方のない子だ。思わず、ちょっと笑いそうになってしまう。


 早く安心させなくっちゃ。



「わたしが一人で本を読んでた時にさ、椿ちゃん、話しかけてくれたよね。幼稚園で浮いてて、わたしいつも一人だったから、それがすごくうれしかったんだ」


 それは、わたしの中で褪せることなく、極彩色に彩られている思い出だ。


「だから覚えてるよ、椿ちゃんとのことは全部。忘れるはずないじゃん」

「そ、そう……そうなんだ……」



 あ、照れた。椿ちゃんが照れた! かわいい! 椿ちゃんかわいい! 抱きしめたい! って、いま抱きしめてるじゃん!



 ま、まずい。なんか変な気分になってきた。気を紛らわさないと。なにか、なにかないかな……? と、不意に思い出す。


 椿ちゃんは化粧台の上に、いつもあれを置いてあるんだ。


 手探りで手を伸ばすと……あった!




「ねえ、椿ちゃん」

「なに?」

「ありがとね」

「? なんの話?」 

「これ、ずっと使ってくれて」


 わたしは手を伸ばして、椿ちゃんの髪に、あれをつけた。あの日のように。



「……まあ、使わないともったいないし、うん」


 椿ちゃんは控えめな手つきで、あれ……桜の花びらを模った髪飾りに触る。



「あはは、そっか」


 それだけの理由じゃ、十年以上も大切にはしないだろう。それでもしてるってことは、椿ちゃんも、あの日の思い出を大切にしてくれている証拠だ。


 でも恥ずかしいから、誤魔化しているんだろう。なんだかおかしくて、ちょっとだけ笑う。その後で、椿ちゃんの髪を撫でた。


「ちょ、ちょっと……もう大丈夫だから」

「えぇ~? なにが?」


 椿ちゃんが離れようとしてきたので、わたしは腕に力を籠める。相変わらず、椿ちゃん力が弱いな。


 目に見えて顔を赤くした椿ちゃんは、顔をそらして言う。


「遅刻するでしょ」

「大丈夫だよ。だからあとちょっとだけ。ね、いいでしょ?」

「…………まあ……いやでは、ないけど……」

「えへへへへ」


 椿ちゃんらしい答えに、わたしはまた笑ってしまった。


「な、なにっ?」

「椿ちゃんってさ、やっぱりちょっとアレだよね」



 ちょっと意地悪したくなって、わたしはからかうように言った。だって……



「もっ、もういい! 私行くからっ!」

「あん、ごめんごめん。謝るから怒らないで。ね?」



 いまの椿ちゃんは、笑ってくれていたから。





 あの日、あなたに話しかけられて、わたしの世界は彩られた。


 そして、あなたに外に連れ出されて、わたしの世界は広がった。


 あなたは、わたしに新しい〝色〟と〝感情〟をくれた。


〝籠の鳥〟だったわたしの世界は、驚くほどに一変した。



 あなたが笑うのを見て、人生が変わる予感がした。


 あの日、あの瞬間から、あなたはわたしの世界のすべて――


 あなたに変えられたわたしの世界は、だれにも変えられることはない。


 わたしの気持ちも、永遠に変わることはない。だから――


 あとすこしだけ、こうしていよう。



 椿ちゃんが、自分が下着姿ということに気づくまで!

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