第10話 私の世界に彩を

 初めて見たときから、そいつはキラキラ輝いていた。


 太陽よりも輝いていて、だからいつも日陰にいた私には、眩しくて直視することができなかった。


 私には、ただ本を読んでいるだけのそいつが、おとぎ話に出てくるお姫様みたいに見えて。



 だからそいつの手を初めて取ったとき、私も物語の登場人物になったような、そんな気がしたんだ――




 目覚ましの音で、私は目を覚ます。


 すると輝きは消えていて、見慣れた天井が目に入った。もう起きなきゃな時間だ。


 久しぶりにあの夢を見た。もう十年以上も前になる。忘れもしない、幼稚園のときの夢……


 もう何年も見ていなかったのに見るなんて……あの公園に行ったせいかな?


 そんなことを考えながら、私は着替えを始める。タンスを開けて下着に手を伸ばして……それを止めた。


 引き出しを閉めて、私は部屋の隅に置いたままだった袋を開ける。入っているのは、この間さくらが選んでくれた下着だ。


 一度体に着けて、サイドから寄せて上げて、ブラの形を整える。……うん、ピッタリ。


 それから何となく、ホントになんとなく、私は姿見で自分の全身を点検する。


 ……さくらは似合ってるって。か、かわいいとか、言ってたけど……




「おっはよう椿ちゃん! 今日もいい朝だねっ!」


 突然のことで、私は頭が真っ白になった。


「あっ、椿ちゃんその下着着けたの? やっぱり似合ってるよ! すっごくかわいい!」


 さくらはへらへら笑っていたけど……


「……ぃやっ!」


 私はその場にうずくまった。色々な感情が波みたいに押し寄せて、あっという間に私を飲み込んだ。うまく息ができなくなったけど、それは波のせいではなくて、喉が焼けるみたいに熱くなったから。目じりまで熱くなり、気づいたときには、私は涙を流していた。



「え、えぇっ? つ、椿ちゃん!?」



 さくらが驚いた様子で部屋に飛び込んできて、私の背中をさすってくれる。



 それでも、私はしばらく涙を止めることができなかった。




「落ち着いた?」


 さくらが私の髪をそっと撫でながら訊いてくる。


「……うん。なんか、ごめん。ビックリさせちゃったよね……」


「謝らないで。わたしの方こそ、ちょっとデリカシーないよね。ごめん」


 ま、それはそうだけど……


「べつに……いいよ。いつものことだし……」


 ちょっとかすれた声で言うと、さくらはもう一度「ごめんね」と言った。


 着替えの最中にさくらが部屋に来るなんてたまにあることなのに。なんで今日に限って、こんな気持ちになったんだろう? でも……


 さくらは私を落ち着かせようと、ぎゅっと抱きしめてくれた。すると、自分でもビックリするくらい、穏やかな気持ちになった。


 だから私は、自分からさくらに身を任せていた。


 ここは、とても落ち着く。ここにいれば、嫌なことはなにも怒らないんじゃないか、なぜかそう確信することができた。



 それに……そういえばあのときも、さくらはこうして私を抱きしめてくれたっけ。




 ――――




 ――――――――




 幼稚園に通っていたときのこと。


 私はクラスメイトたちの会話を、いつも遠い世界のものに感じていた。


 私が物心つくまえ、ママは離婚したらしい。それから二年くらい経って、ママは再婚をした。ある会社の受付をしているとき、偶然会った取引先の会社の社長に見初められた……


 いつだったか、私はそれをパパから聞いた。



 ママがパパと再婚したことで、私はそれまで通っていた幼稚園を辞めて、私立の幼稚園に移ることになった。


 ママがパパをどうして好きになったのか、理由は訊いたことあったと思うけど、正直よく覚えてない。


 ただパパは、私によくこう言っていた。




(――「パパはね、ママの明るいところが好きなんだ。ママの笑顔は、人も笑顔にしてくれる。ママの行動は、人を幸せにしてくれる。とても素敵な人なんだよ」――)




 当時、私はその言葉の意味を半分も理解していなかったと思う。単純にママを褒められたことがうれしかったように思う。

 


 それに、あのときは、私は私で結構大変だった。周りはみんなお嬢様やおぼっちゃまばかり。うまく馴染むことができずに、私は幼稚園で浮いていたと思う。


 だから必死になって、私はみんなに馴染もうとした。ママやパパに、心配をかけたくなかったから。


 私は人見知りをするから、よく知らない人と仲よくしようとすること自体、結構なストレスになったものだ。とはいっても子供同士ではあるし、すくなくとも今よりは簡単に、馴染めたことは馴染めた……と思う。


 パパは私をかわいがってくれて、それは今も変わっていないけど、やっぱり血の繋がらない他人だ。どうしたって気を遣う。だからかな、私はいつの間にか、人の顔色ばっかり窺っていた気がする。でも……


 正直に言って、幼稚園は楽しくなかった。毎日みんなの顔色を窺ってそれに合わせる。行ってから帰るまで、それをひたすら繰り返すんだから、私の神経は擦り切れていった。



 そんな時だった。


 偶然、本当に偶然……そいつは私の視界に入ってきた。 



 そいつは自分の席に座って、一人で本を読んでいた。周りになど目もくれずに、自分の世界にいた。


 多分……だから余計に、私の目はくぎ付けにされたんだ。



「きれい……」



 ほとんど無意識のうちに、私はその言葉を口にしていた。


 サラサラの長い黒髪。目鼻立ちはくっきりしていて、驚くほど整っている。自分と同い年で、同じ制服を着ているのに、自分とは何もかもが違う。まるで、絵本から出てきたお姫様なんじゃないか、そう思って、私はドキドキした。


 だから、その子に「天王洲てんのうす桜」という名前があって、この幼稚園を経営する一族の娘ということを知ったとき、「彼女も人の子なんだ」とごく当たり前のことに驚いたものだ。



 それから、彼女を視線で追うのが私の日課になった。


 彼女の仕草は、何もかもがキレイだった。立ち居振る舞いには、見る者を自然と引きつける美しさがあった。時折長い髪を整える姿さえ、洗練されて見えた。


 彼女を追い始めて何日経ったか、私はある事実に気づいた。


 彼女がいつも読んでいる本。それは昨日も、そして今日もおなじページが開かれていた。


 最初は偶然かなと思った。でも……


 つぎの日も、そのつぎの日も、彼女は決まっておなじページを読んでいた。



 彼女がなぜそんなことをしているのか? 私はとても気になった。


 でも、そのことに気づいているのは、どうやら私一人だけらしかった。


 みんなが彼女を特別視してるのは知っていた。いや、〝神聖視〟と言い換えてもいい。理事長の娘で、目を見張るほどにきれいな見た目をしている。彼女は黙っていると、妖精のようにさえ見えるのだから。


 だから、私も初めはそうするつもりだった。彼女は私なんかとは違う、きっと神様に愛されている人なんだ、そう思ったから。でも……


 私はどうしても、彼女と話がしたかった。たくさん話をして、すこしでも仲よくなりたかった。すこしでも、彼女のことが知りたかった。だから――




「ねえ、いつもおんなじページ読んでるけど、おもしろい?」




 気づいたときには、そう話しかけていた。


 ほんの一瞬……うぅん、もしかしたら、それよりも短かったかもしれない。彼女が、ちょっとだけ息を詰めたような気がした。


 彼女の顔がゆっくりと上がって、二つの水晶みたいにキレイな瞳が、静かに私を捉えた。


 それだけで、私は彼女から目が離せなくなった。なにか見えない力に吸い寄せられたように、私は彼女に見入ってしまう。



「うぅん、あんまり」



 彼女が答えた。でも、最初私は、それが彼女の声だとは分からなかった。なんとも不可思議だった。だって、毎日見ていたのに、彼女の声を聴いたのは、そのときが初めてだったから。


「じつはね、わたし、本が好きなわけじゃないんだ。でも、ほかにすることないから……」


 ちょっと困ったように笑う彼女を見て、私はまた不可思議な気持ちになった。


 彼女も、普通にしゃべるんだ。そんな当り前のことに。でも、私は彼女を妖精みたいな存在と思ってたから、正直驚いてしまった。


「わたし、さくらって言うんだ。よろしくね。……仲よくしてくれると、うれしいな」



 彼女……さくらは、そっと私に微笑んでくれた。




 それから、私たちはほんの少しだけ仲よくなった。


 休み時間に話したりするだけの、そんな関係。それだけなのに、なんだかとても緊張した。


 最初私は、自分の話しかしなかったと思う。なにを話したらいいのか分からなかったから。


 普段は人見知りをするはずの私なのに、どうしてだろう? さくらとは普通に話すことができた。後にも先にも、あんなことは初めてだった。さくらのことは訊かなかった。うぅん、訊けなかった。あのときの私は、さくらを神秘的な存在と見てたから、さくらの私生活を知ることが、とてもいけないことのような、知ることがちょっと怖いような、そんな気がしていた。でも……



 会話の中で、さくらは私に、すこしだけ自分の話をしてくれた。


〝天王洲家〟の娘である自分を特別扱いしてくることが、とても嫌だとさくらは言った。



「みんな優しくしてくれるのはうれしいけど、ホントはね、もっとフツーに接してほしいんだ。わたしも、みんなと一緒に遊んだりしてみたいんだけど……家に帰ってからは習い事もあるし、外で遊ぶこともできなくて……」



 そう言ったさくらの顔は、なんだかとても悲しげだった。


 だから、私まで悲しくなって……


 うぅん、それだけじゃない。悲しさだけじゃなくて、怒りとか、憐れみもあったと思う。でも、私の心にあった考えは、たった一つ。



 ――さくらに、こんな顔をしてほしくない。



「さくらちゃんっ!」


 突然出た声に、私は自分で驚いた。でも、もうこの勢いは止められそうになかった。


「いっしょに遊びに行こうっ!!」


 そう言って、私はさくらの手を取った。




 私たちが通っていた幼稚園は、昼食の後に三十分間の昼寝の時間があった。その時は先生がピアノを弾いてくれるんだけど、みんなが寝たところを見計らって一度職員室に引っ込むときがある。


 私はそこを狙った。いま思い返すと、普段の私からは信じられないくらい、積極的な行動だった。


 先生が教室を出ていったあと、私はさくらの手を引いて、こっそりと教室を抜け出し、さらに幼稚園の外に出ることに成功した。


 べつに目的地があったわけじゃない。ただ、さくらと一緒に遊びたかった。さくらがまだ経験したことのないことを、私が教えてあげたかった。


 ただ街を歩いているだけで、さくらは満足そうだった。目をキラキラ輝かせて、楽しそうに声を弾ませていた。


 そして私たちは、あの公園を見つけた。


 結局、見つかって連れ戻されちゃったけど……



 幼稚園に戻った私たちは、こってり怒られた。さくらも怒られてた。理事長の娘だし、私だけ怒られるかと思ったけど、私よりも怒られてた気がする。



「ごっ、ごめんね、さくらちゃん。わたっ、わたしのせいで、さくらちゃんまで……」


 私が泣いてしまったのは、自分の責任ということが子供ながらに分かっていたからでもあるけど……正直に言って、それ以上に、さくらに嫌われてしまうことが怖くて怖くて仕方がなかったからだ。


「だいじょうぶだよ、つばきちゃん」


 でもさくらは、そう言って私をやさしく抱きしめてくれた。


「わたし、べつに気にしてないから。うれしかったし、たのしかったよ。だから、ありがとう……」


 そう言われて余計泣いてしまった私を、さくらは困ったように笑って、頭を撫でてくれたのだ。




 でもこの後、思ってもみなかったことがあった。



「つばきちゃん、これあげる」


 手を伸ばしてきたかと思うと、私の涙の後をぬぐってくれた。それから私の髪に触れてきた。いきなりだったので、ちょっとビックリして声を上げそうになった。そのあとで、ちょっとドキドキしてきた。でも……


「つばきちゃん、よくわたしの髪飾り見てたから……」


 さくらは、すこし勘違いをしてた。わたしが見ていたのは、髪飾りじゃなくて、その長くてきれいな黒髪だったから。でも、見てたことは、やっぱりバレてたんだ。そう思うと、なんだか無性に恥ずかしかった。


 そこで気づいた。さくらが左右に着けていた、桜の花びらを模った髪飾りが、左側だけ無くなっているのを。


 なんて言うべきか分からず、私はちょっとどもった。でも結局、


「ありがとう……大切にするね」


 それだけを言った。


「うん」


 でも、なんでかさくらは笑ってたな。


 どうしてプレゼントしてくれたさくらが、そんなにうれしそうなんだろう?


 ……変わった子。


 最初は妖精のように思っていたのに、急にさくらが普通の女の子のように見えてきた。



 それがなんだかおかしくて、私も笑っちゃったっけ。でも……



 ――――



 ――――――――




 私も、変わった子、なんだろうなあ。だって――



「ねえ、さくら」

「? なあに?」


 さくらはすぐに答えてくれた。気のせいかもしれないけど、その声はいつもよりちょっとやさしい。


「覚えてる? 幼稚園のときのこと。私たちが、幼稚園を抜け出した時のこと……」


 気づいたら、そう言っていた。ほとんど無意識でのことだったから、自分で驚いてしまった。


 言ってから、急に怖くなってきた。私にとってはとても大切で、きっとこの先もキラキラと輝き続ける思い出だ。でも、もしさくらにとってはそうじゃなかったら? きれいさっぱり忘れていたら? 思い出自体が消えてしまうような、とてつもない不安と恐怖があって……



「わたしが一人で本を読んでた時にさ、椿ちゃん、話しかけてくれたよね。幼稚園で浮いてて、わたしいつも一人だったから、それがすごくうれしかったんだ」


 そう言って、さくらは私の手をぎゅっと握ってくる。その瞬間、なんだか私は救われたような気持になった。


 さっきまで感じていた不安や恐怖は、ウソみたいに消えて……うぅん、違う。塗り替えられたんだ。さくらの、言葉一つで。


「だから覚えてるよ、椿ちゃんとのことは全部。忘れるはずないじゃん」

「そ、そう……そうなんだ……」


 ホントこいつは、こういうところがある。これじゃ一人で考えて、一人で照れてる私がバカみたいじゃないか。


 ちらとさくらを見ると、やっぱり笑ってた。だから、私もつられて笑ってしまう。



「ねえ、椿ちゃん」

「なに?」

「ありがとね」


 急にお礼を言われて、でも私は何のことか分からない。


 なんの話? と訊くと、さくらはちょっと笑って、私の髪に手を伸ばしてきた。そしてちょっとかきあげるような仕草をして手を引っ込める。でも、その後も感触は残っていて、ちょっとくすぐったいような気がした。


「これ、ずっと使ってくれて」


 手を触れてみて、分かった。それは幼稚園のとき、今日と同じように泣いてしまった私に、さくらがプレゼントしてくれたものだ。化粧台の上に置いてあるのを、さくらがつけてくれたらしい。


「……まあ、使わないともったいないし、うん」


 十年以上前に貰ったものを未だに大切にしているなんて、きっと私も変わった子に違いない。


 でも、これは私の宝物だ。世界にたった一つだけの。


 そんなこと言えないから、あいまいに答えるしかないけど。


「あはは、そっか」


 さくらは面白そうに、ちょっとだけ笑う。その後で、私の髪を撫でてくる。


「ちょ、ちょっと……もう大丈夫だから」

「えぇ~? なにが?」


 離れようとしたけど、さくらは離してくれるどころか力を強めてきた。……こ、こいつ、意外と力強いな。


「遅刻するでしょ」

「大丈夫だよ。だからあとちょっとだけ。ね、いいでしょ?」


 そうして、笑いかけてくる。でも、目をそらしてしまった。


「…………まあ……いやでは、ないけど……」

「えへへへへ」


 すると、さくらはなんだかいやらしく笑う。


「な、なにっ?」

「椿ちゃんってさ、やっぱりちょっとアレだよね」


 からかうみたいに言われて、私は急に恥ずかしくなってきた。


「もっ、もういい! 私行くからっ!」

「あん、ごめんごめん。謝るから怒らないで。ね?」



 いまの私は、恥ずかしさと怒りとで、顔が真っ赤になっていると思う。


 でも、やっぱりさくらは笑っていて、そんなさくらを見ていると、不思議と私の感情も凪いでいく……


 私は、きっとさくらのことが好き……なんだと思う。初めて見た、あの日から、ずっと。


 さくらを幼稚園から連れ出したのは、さくらに笑ってほしかったからって言うのもあるけど、それだけが理由じゃない。



 さくらは、幼稚園ではなにをやっても褒められる、それがイヤだと言っていた。


 さくらはそれを「忖度」だと思ってたみたいだけど、そうじゃない。実際、さくらはなんでもできた。運動もできて勉強もできる。とくに歌に関しては、幼稚園のときから比類ない才能を見せていた。それにみんなにやさしい。


 仮に、それがさくらが自分に与えた〝仮面〟だったとしても、やっぱり変わらない。あれは、さくらの能力と人柄に対する正当な評価だ。


 だから私は、そんなさくらが大好きで、だれにも渡したくなかった。私の傍にいて、私だけを見て、私だけにやさしくしてほしかった。



 あのとき、私は子供ながらに駆け落ちをしたつもりだったんだ。



 結局私たちの関係は、あれからすこしも変わっていないけど。でも……



 私たち、ホントに昔からなにも変わってないのかな? これからも、さくらとの関係は変わらないんだろうか……?



 ちょっと恥ずかしいけど、今だけは、このままでいい。だって……



 さくらが彩ってくれた私の世界は、きっとこの先もキラキラを失うことはないから――




 私がまだ下着姿ということに気づいてもっと恥ずかしい思いをするのは、もう少し後のことだ。

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