第5話 火種
私たちが通う学園――私立白鳥峰学園には、その敷地内になんと音楽堂がある。
いま私たちは、その音楽堂にいた。なぜかというと、五時間目の科目が音楽だから。
「おーっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっっ!!」
音楽堂に、
う、うるさい……っ!!
音が反響してメチャクチャうるさいっ! 耳がキーンとなった。
私以外の人も結構そうしていたけれど、当の御郭良さんはさくらのまえに仁王立ち。
「ついにこの時が来ましたわね! 今日こそ、あなたを倒してごらんに入れますわっ!」
ますわ……すわ……わ……。
また音が反響する。
ていうか、え? マジかこの人。今まで一度もさくらに勝てたことないくせに。よりにもよって音楽で勝負を挑む気?
「ほうほう」
対するさくらは、いつものように軽い調子で言う。
「それはそれは、大きく出ましたなあ」
普段と変わらない口調……に、聞こえるだろう。他の人たちには。でも私は、その声の奥底に、ほんのすこしだけ、挑戦的な色が宿ったのを感じた。
「もちろんですわ! こう見えてもわたくし、歌は上手なんですのよ! 昔からお母様やお父様にもよく褒められますもの!」
「そうなんだ。すごいね」
「だ、ダリアちゃん、止めておいた方が……」
葵ちゃんが遠慮がちに言ったとき、ちょうど音楽の先生が入ってきた。音楽の先生は、まだ年若い女の人だ。先生は、世界的に有名な指揮者の弟子でもあるらしい。
さっきまでは騒いだいて生徒たちだけど、そこはみんな育ちのいいお嬢様たち。先生の姿を認めた途端、みんな席に着く。もちろん御郭良さんも。こういうところを見るに、悪い人ではないんだよね。ただ賑やかなだけで。
あいさつの後、先生は今日の授業内容について説明する。
今日はシューベルトというオーストリアの作曲家の『白鳥の歌』を学ぶらしい。たしか、これは本人が作ったものではなくて、シューベルトの死後に友人たちが作ったものなんだっけ。ずっと昔、私はさくらからそう教えてもらった記憶がある。
正直に言うと、私は『セレナーデ』くらいしか知らないんだけど、幸いと言うべきか、私たちが今日習うのはその『セレナーデ』らしい。
「先生!」
いきなり挙手をした人がいた。この教室では、というか、多分この学園では、そんなことをする人は一人しかいない。
「なんでしょう、御郭良さん」
先生はちょっと警戒したみたいに言った。いや、みたいにっていうか……してるな、警戒。ムリもないけど。
「まずはわたくしに歌わせて下さるかしら!」
「御郭良さん、今日はそういう授業では……」
「遠慮は無用です! わたくしが皆さんのお手本になりますので!」
もうこの時点でお手本だと思う。悪い例の。
なにか言おうと口を開きかけた先生だったけど、結局閉じた。御郭良さんの好きにさせるのが一番スムーズだと思ったのかな? お嬢様相手だと、先生は気を遣って大変そうだ。
「分かりました。では、お願いします」
「もちろん! デマカセあれ! ですわ!」
……お任せって言いたいのかな?
それはともかく、勇んで立ち上がり、壇上に上がる御郭良さん。伴奏は先生がしてくれるらしい。
そして、演奏が始まった……んだけど……
その後のことは、あまり覚えていない。
それは〝音〟だ。声と言うには、あまりに耳障りだった。
とても表現できない……なんか、黒板を爪でひっかいたみたいな……ああいう……
あえて文字で表現するなら、「ボエ~」とか「ホゲ~」みたいな感じ。
私たちは耳を抑え、うずくまるようにして身を丸めたり、逆にのけぞらせたりした。
それから何十分経ったか、ひょっとしたら数秒かもしれないけど、とにかくその〝音〟が止んだ。
「もっ、もう結構です御郭良さん。どうもありがとう」
命からがらといった様子で、先生が待ったをかけた。心なしか、きれいにセットされた髪がちょっと乱れてる気がする。
「あら、そうですの? まだ歌い足りないんですけれど……」
みんな苦悶の表情を浮かべているというのに、御郭良さんは平然としていた。さくらでさえ、ちょっと顔をしかめてるっていうのに。
「いえ大変参考になりましたありがとうございます」
先生は早口で言って御郭良さんを席に追い返した。そこで一息つこうとしたらしかったけど、
「さあ、天王洲桜! 次はあなたの番ですわよ!」
その言葉を聞いて詰めたみたいだ。
「えっ?」
いきなりご指名を受けて、さくらはちょっと驚いていた。
「あなた、歌がお上手なのでしょう? 私が歌ったのです! 次はあなたが歌いなさいな! そしてどちらがうまいか、皆さんに判断していただきましょう!」
「あー……うん……そう、だね……」
珍しく、さくらは歯切れが悪い。
「わたしはいいけど……」
と言って、先生を見た。すると先生は、ちょっと疲れたようにうなづく。
「そうですね。それでは天王洲さん。お願いできますか?」
「分かりました」
さくらは立ち上がって、ゆっくりと壇上へ上がる。中央に立って、一度呼吸を整えたみたいだった。
そして、息を吸う。私には、それがハッキリと聞こえた。
瞬間、私は世界が止まったような気がした。
私の耳に届くのは、天使のラッパだ。ウソみたいにきれいな声で、ビックリするほど流暢なドイツ語で、さくらは歌う、唄う、謳う。
これは、声じゃない。音だ。オルガンみたいに荘厳で、壮麗な音。
私の目は釘付けになった。うぅん、目だけじゃない。全身で、さくらの歌を感じている。やっぱりすごい。初めて聞いたときからずっと、さくらの歌声は私を魅了する。
こうして聞いていると、私にはさくらが天使や女神みたいな、とても神秘的な存在に見えた。
『セレナーデ』は恋の歌だ。愛する人への想いを、切々と、しかし力強く歌い上げたもの。
ドイツ語なんて分からないのに、なぜか私には歌詞の意味が分かった。その理由は、きっと私の心の底にある。
『セレナーデ』は恋の歌だ。すぐ傍にいるのに、遠くに感じる人へと届ける、とても切なげな歌。
それが私の奥底で燻る火種に、さらなる火を灯したんだ。
うぅん、これはもう火種なんかじゃない。これは――
「――っ!」
いきなり、私は何かに引き寄せられるようにして現実に立ち返った。
「椿ちゃん?」
さくらの声だ。でも、私の目のまえにはいない。というか、ここはどこだろう? と思って辺りを見回すと、どこもなにも寮の私の部屋だった。
あれ……? 私いつの間に帰って来たんだろ?
「椿ちゃん? 開けるよ?」
言葉の後で、遠慮がちに扉が開かれる。さくらが窺うように、わずかに開かれた隙間から部屋を見回している。……あっ、目が合った。
すると、さくらは扉を開いて、
「なんだ、起きてたの? 返事がないから寝てるのかと思ってた。お風呂開いたよ」
言いながら部屋に入ってきた。たしかにお風呂上りらしく、ネグリジェを着ていた。時計を見ると、もう八時半を過ぎていた。それで、私の隣に座る。ここで私は、自分がベッドに座っていることに気づく。
今のさくらは、髪がちょっと湿っぽくて、肌もちょっと火照っていた。ていうか……なんかいい匂いする。これ、シャンプーかな? なんか、私のとは違う匂い。いや、違うシャンプー使ってるわけだし、あたり前なんだけど……なんか……なんだろ……
「大丈夫?」
「うぇっ!?」
ビックリして声を上げてしまったら、さくらもビックリしたみたいで、ちょっと驚いた顔をしてる。
「ご、ごめん……」
「いいけど……」
……いや、そもそもなにを焦ってるんだ私は。さくらが傍にいるなんていつものことなのに。
「もう、ホントに大丈夫? なんか変だよ。帰る時からずっと上の空だったし……」
「だ、大丈夫大丈夫。ちょっとボーっとしちゃってただけだから」
「そう? ならいいんだけど……調子が悪いならちゃんと言ってね? 椿ちゃん、変なところで遠慮するから」
「うん、分かってる」
言って、私は内心ため息をつく。
いけないいけない。私、ちょっとおかしくなってる。話を変えよう。
「ねえ、さくら」
「んー? なあに?」
「歌、うまいじゃん。さすがは『最後の歌姫』って感じ」
『最後の歌姫』というのは、さくらの歌を聞いた音楽関係者がつけた異名だ。
そのとき、たしかさくらはまだ幼稚園生だった。その時から、うぅん、もっと前から、さくらは音楽に関しては比類ない才能を持っていた。
中学生まではテレビにも何度か出演してたっけ。トークは一切せずに歌って帰るだけだけど。その露出のすくなさが、逆に受けていたように思う。
私はさくらが出演した番組は全部DVDに撮ってある。恥ずかしいから言わないけど。テレビで見るさくらは、普段とまったく違っていて、神秘的にさえ見えた。
そのさくらは、ちょっと困ったような顔で笑う。
「その呼び方、ちょっと苦手なんだよね。褒めてくれるのはすっごくうれしいんだ。本当だよ? でも……椿ちゃんには、あんまりそう呼んでほしくないな」
「……ごめん」
そういえば、前にもそう言われてたっけ……。
でも、その呼び名はホントにさくらにあっていると思う。ネグリジェを着てる今も、まるでお姫様みたいだし。
嫌がっている理由は、多分、家での呼ばれ方が理由の一つなんだろうけど……
「うぅん、気にしないで。べつに怒ってるわけじゃないから」
さくらは笑ってくれた。まるで、私を安心させるみたいに。
コイツは昔からそうだ。私が不安そうにすると、こうやって安心させようとしてくる。
私も私で、奇妙なまでの安心感を抱いている。
さくらを見ると、音もなく、胸に広がっていく波があった。
それは、安心感だけじゃ決してない。
最近、さくらのことを考えるとき、「私の知らない私」が顔をのぞかせる。
「知らない私」がさくらと接しているのを、私はどこか遠くから見ているみたい。
「知らない私」は日に日に大きさを増し、いまにも私を飲み込みそうなほどに大きくなった。
きっと、そのせいだ。さくらと一緒にいるときに、なんだか変な気持ちになることがあるのも、きっと、「知らない私」のせい。
それは「知らない私」の感情であって、私のものじゃない。
だからきっと、私がまだ知らないものなんだ。
そう。いまは、未だ――
さくらは私に「好き」と言ってくれるけど、それは多分、そういう意味じゃない。
私以外にも「かわいい」とか「好き」とか言ってるし。こいつは昔からそうだったから。
でも、私のこの気持ちは――
気づいちゃいけないと思ってた。本当は、もっと前から燻っていたこの感情。
でも、それに気づいてしまえば、たちまち私は「知らない私」に飲み込まれて、戻ってこれない気がしたから。
だから気づかないフリをして、そっと胸の奥にしまい込んで、蓋をした。そうすれば、酸素がなくなれば消えてしまう火みたいに、消えるんじゃないかと思ったから。でも……
胸の奥の火種が、静かに、でも確実に大きくなって、自分の体を熱くしていくのを、私はたしかに感じていた――
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