第87話 雨空のあとには(5)
一ノ瀬瑞希はかわいい。
これは客観的に見て紛れもない事実だろう。
スラッとした体型に、小さな顔。
控えめな色に染められた柔らかそうな髪。
大きな目に少し小さな鼻、張りのある厚すぎない唇。
それでいて、自分がかわいいという事を鼻にかけるような態度を取ることはない、明るく人当たりの良い性格。
一部の同級生の中には、密かに思いを寄せている人がいるという噂があるようだが、今のところ瑞希の周りに男の影はない。
そんな瑞希が僕の家のキッチンで料理をしている。
誰もが羨むこの状況を、僕は風邪に侵され思考能力が低下した頭でつくづく思う。
「お隣さんって凄いなぁ。」
瑞希はたまたま隣に引っ越してきただけの存在だ。
この偶然がなければ、僕が瑞希に手料理を作ってもらう状況なんて来ることは無かっただろう。
「どうしたの?」
瑞希が首を傾げるような仕草をした。
おっと、いけない。
どうやら瑞希の方を見すぎていたらしい。
「どうせ、美桜先輩だったら良かったとか思ってるんでしょ?」
「そ、そんな事、思ってないよ。」
瑞希は僕の答えに納得していないのか、少し不機嫌そうな顔をしたが、すぐに機嫌を戻し、鼻歌を歌いながら視線を手元に戻した。
確かに美桜先輩が看病に来てくれたら最高だろうなぁ。
美桜先輩が作ったお粥を「はい、あ〜んして」って言われながら食べさせてもらえたらきっと風邪なんて一発で治ってしまうだろう。
いやいや、いっそのこと風邪をこじらせてしまい「眠れないなら手を繋いでいてあげる」なんて言われるのも捨てがたい。
あとは「晃君、汗びっしょりじゃない、拭いてあげるから脱いで。」なんて言われちゃったりするかも。
・・・いやいや、さすがに脱ぐのは無いか。
「何ニヤニヤしてるの?気持ち悪いよ。」
瑞希がお椀に何かを入れて、ソファまで持ってきた。
「玉子のお粥。これくらいなら食べられるよね?」
お椀に入っていたのは、玉子がふわふわに仕上げられた美味しそうなお粥だった。
「すごく美味しそう。瑞希って料理も得意なんだね。」
「得意・・・というか、一応毎日自炊してますからね。」
瑞希は親父さんと二人暮らしだから、自分で作らないとならないのか。
そういえば瑞希のお母さんはどこにいるのだろう。
離婚?別居?
・・・うちみたいに亡くなっているという可能性も無くはない。
「うちも似たような環境だけど、ほとんどコンビニの弁当で済ませちゃうからな〜。」
込み入った話をいきなり聞くのも失礼だと思った僕は、これ以上は考えない事にして、目の前問題に焦点を当てることにした。
「楽なのは分かるけど、あんまり体に良くないんじゃない?」
もちろん、外食やコンビニ弁当ばかりではあまり良くないと分かってはいる。
しかし、なかなか抜け出せないでいるのが現状だ。
「そんな食生活じゃ体を壊しちゃうよ。」
「分かってるけど、なかなか難しいんだよね〜。」
そもそも料理ができないのだから、「買う」か「食べに行く」しか選択肢が無いのだ。
「じゃあさ、私が・・・。」
瑞希がそこまで言って口籠った。
「え?何?」
「ううん、何でもない。」
何だ?凄く気になる。
「そんなことより、片付かないから早くお粥食べちゃって。」
何を焦っているのか分からないが、瑞希がテーブルに置いたお椀を無造作に手に取った。
「熱っ!」
思いの外、冷めていなかったようで、反射的に離したお椀がテーブルの上に横倒しになる。
「あ、ごめんなさい。すぐ片付けるから。」
テーブルの上に溢れたおかゆを見て、瑞希が慌てて立ち上がろうとする。
「そんなことより、火傷しなかった?手は大丈夫?」
僕は咄嗟に瑞希の右手を取り、手のひらを見る。
「え?あの、大丈夫・・・です。」
良かった。少し赤くなってはいるものの、火傷をするほどではなかったらしい。
「一応大事を取って水道で冷やそうか。」
こんなことが原因で手に傷が残ってしまったら申し訳ない。
僕は瑞希の手を握ったまま立ち上がると、ローテーブルの横に座ったままの瑞希の手を軽く引いた。
丁度立ち上がろうとしていたところに僕の力が加わったのか、瑞希の体は大きくバランスを崩し、僕の方へと倒れ込んできた。
「あ、危ない!」
僕は咄嗟に瑞希の手を引いて、瑞希を抱き寄せると、そのまま抱え込むようにして尻もちをついた。
「痛っ。」
フローリングの床に激しくお尻を打ち付けた僕は、一瞬言葉を失って、全身に力を入れる。
瑞希は大丈夫だっただろうか?
お尻の痛みも少し和らぎ、やっと周りの状況を把握できるようになった僕は、瑞希の状態を確認しようとして、ふたりがあまりよろしくない体勢であることに気付いた。
右頬に感じる瑞希の柔らかい髪と、頭を抱え込むように回した僕の右手。
そして僕の左手は、瑞希の細い肩を抱きしめるように引き寄せている。
女の子が抵抗できないほどの力を込めて・・・。
「晃君、ちょっと痛いよ。」
瑞希が顔をしかめるのが分った。
ちょっと待って。
これは何罪にあたる?
痴漢?
強制猥褻?
セクハラ?
違うんです。倒れそうで危なかったから瑞希を抱きとめただけで、他意はないんです。
両腕に力を入れちゃったのだって、お尻の痛みに耐えてただけで・・・。
脳内で果てしない尋問を受けている僕を見上げるように、瑞希が顔を上げた。
こんな状況であるにも関わらず、妙に色っぽいと感じてしまう僕はきっと変態なのだろう。
「もうちょっとだけ、このままで。」
瑞希が僕の胸に顔を埋めてきた。
予想外の展開に僕は抵抗できず、されるがままだ。
「どうした?どこか怪我した?」
僕は瑞希に回していた両手の力を抜き、瑞希の頭に声をかけた。
この体勢だと表情が見えない。
「ちょっとね。足首を捻ったかも。」
きっと僕が無闇に引っ張ったせいだ。
「休めば大丈夫だから。もう少しだけこのままで、ね。」
この体勢のままどれくらいの時間が経ったのだろう。
ほんの少しの時間であった気もするが、随分と長い時間こうしている気もする。
先程つけたテレビ番組は、すでに別の情報番組に切り替わっていた。
鼻腔をくすぐる甘い匂いと、普段見ることのない瑞希のうなじの色っぽさが、僕の思考を麻痺させる。
このまま瑞希の顎を引き上げ、柔らかそうな唇を塞いでしまうことだってできる。
いや、ダメだ!
同級生にそんなことをして、明日からどんな顔をして学校に行けばいいと言うんだ。
そうは言っても瑞希だって悪いところがある。
無防備に健全な男子高生の家に来た挙げ句にこんな体勢を取るなんて、何かあっても文句が言える立場ではないじゃないか。
僕は自分を正当化すると床についていた右手をゆっくり持ち上げ、瑞希の顎の下に持っていき・・・。
「ただいまー!晃、風邪は大丈夫か?!」
丁度その時、玄関のドアを開け入ってきたのは、僕の父、速水和繁だった。
「心配だったから早めに上がってきたんだ。」
父さんの声を聞いた瑞希は、弾かれるように身を起こして、素早くキッチンへと移動した。
「あ、洗い物しちゃおうかな。晃君も食べ終わったら食器貸してね。」
そう言った瑞希は、手際よく調理器具を洗っていく。
「捻った足は大丈夫?」
見た感じ、瑞希の歩き方に違和感はない。
「え?足?・・・えっと、どっちだったかな?大丈夫みたい、あはは〜。」
瑞希が乾いた笑いを上げる。
「何だ、瑞希ちゃん来てたのか。夕飯、3人分買ってくれば良かったな。」
父さんは弁当が入っていると思われる、レジ袋をテーブルに置いてネクタイを緩める。
「今日はとんかつ弁当だ。晃も好きだったよな。」
ネクタイを外しながら和室に移動した父さんの背中に、半ば八つ当たりなのを理解しつつ「こんな油っぽいもの食べられるか!」と文句を言った。
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