第85話 雨空のあとには(4)

 太陽が西の空に傾き、その姿の半分以上を山の向こうに隠した頃、僕はゆっくりと起き上がり自分の部屋を出た。

 一日ゆっくりと休んだからか、朝のようにフラフラして立っているのも辛いという状態ではない。

 踏み外さないように注意して階段を下りる。

 家のトイレは一階にしかないから、こういうときは不便だと、誰に言うともなく文句を言ってみたりする。

 そういえば夕飯はどうしよう。

 風邪をひいていたとしても、育ち盛りの高校生は腹が減るものなのだ。

 体力を使っているからなのか、いつもよりもお腹がすいている感じがするのは気のせいではないだろう。

 いつも帰りが遅い父さんに期待することはできないから、自分でなんとかするしかないのが微妙につらい。

 トイレを済ませた僕は、リビングに移動して冷蔵庫の扉を開けた。

 冷蔵室の真ん中に置かれているボヌールの箱は、瑞希が持ってきたプリンだ。

 箱の中には美味しそうなカスタードプリンが3個並んでいる。

「ん?3個?」

 僕の分と、父さんの分、残りの一個は・・・。

 きっと僕に栄養をつけろってことだな。

 宛先不明のプリンに関しては、自分の都合の良いように解釈して、僕はひとまずボヌールの箱を元の位置にしまった。

 そんなことより、今は夕飯の心配をしなくてはならない。

 冷蔵庫の中身は見事にすっからかん。肉はおろか、卵一個さえも無い有様だ。

 かろうじて野菜室にあった萎れかけた長ネギが、余計に侘しさに拍車をかける。

「普段、料理をしない家庭はこれだから駄目なんだよ。」

 自分のことは見事に棚に上げた僕は、冷蔵庫の扉を閉めながら溜息混じりに呟く。

「買い物行かなきゃだめだよなぁ。」

 僕の家は高台にあるため、近くのコンビニに行くのにも坂を下りなければならず、体調の悪いときは結構な重労働だ。

 正確には坂を下る事が重労働なのではなく、買い物のあとに坂を上って来なければならないのが、非常にきつい。

 宅配ピザという手もあるが、今はもう少し優しい食事で体を労ってあげたい。

「仕方ない、コンビニに行くか。」

 僕はさんざん迷った挙げ句に、一番無難な選択肢を選んだ。

 消化に良さそうな弁当がコンビニに残ってれば良いが、納品の時間によっては揚げ物メインの弁当しかないなどという最悪の事態に陥る。

 その場合はレトルトのお粥にターゲットを変更して、サバ缶などの缶詰をおかずにする事を考えていこう。

 階段を上がりながら、夕飯について考えを巡らせる。

「階段、結構きついな。」

 体力を消耗しているのか、2階に上がるだけでも息切れがする。

 何とか自分の部屋に到着した僕は、パジャマのズボンをジーンズに着替え、薄めの上着に袖を通した。

「コンビニから帰ってこれるかなぁ?」

 坂の下にあるコンビニにからの帰り道は、長い距離の坂道を登らなければならない。

 階段を上っただけでこの状態だ。坂の途中で力尽きなければいいと本気で思ってしまう。

 腹が盛大な音を立てて、食料を要求した。

「はいはい、ちょっと待ってて下さいね。」

 背に腹は代えられないと思った僕は、覚悟を決めて階段を下り、玄関のドアを勢いよく開けた。

「きゃ!」

 な、なんだ?

 玄関の外から聞こえてきたのは誰かの悲鳴、そして同時に手に伝わってきたのは何か硬いものにドアがぶつかった感触。

「いった〜いっ!」

 ドアの隙間から外を確認した僕が見たのは、額を押さえてうずくまる瑞希の姿だった。

「ど、どうしたの?」

 恐る恐る、瑞希に話しかけた。

「どうしたの?じゃないわよ。急にドアが開くんだもん、おでこをぶつけちゃったじゃない。」

 額を擦りながら瑞希が立ち上がる。心なし額が赤くなっているのは触れないでおこう。

「夕飯、ちゃんと食べたのかな?って思って様子を見に来たんだけど、外出しようとしてたってことは大丈夫そうかな?」

 瑞希の手にはスーパーのビニール袋が下げられていた。

「マジで?何にもなくて困ってたんだよ。何か買ってきてくれたんなら、すごく助かる。」

 地獄に仏とは、正にこの事か。

「やっぱりね。冷蔵庫の中になんにも無かったから、そうなんじゃないかなって思ってたんだ。」

 この際、食べられるのであればスーパーのお惣菜だろうが、レトルト食品だろうが何でもいい。

「じゃあ、ちょっとキッチン借りるね。」

 僕が瑞希からスーパーの袋を受け取ろうと手を出そうとしたとき、瑞希が何食わぬ顔をして僕の横を通り過ぎた。

「え?何?どういう事?」

 状況が飲み込めない僕を尻目に、瑞希は靴を脱ぎキッチンへと入っていく。

「お鍋借りるからね〜。」

 キッチンから瑞希の声が聞こえてきた。

「もしかして、夕飯を作ってくれようとしてる?」

 やっとのことで瑞希の意図を理解した僕は、急いでキッチンへと戻って瑞希に声をかけた。

「そんな、悪いよ。あとは自分でなんとかするから。」

 いくらお隣さんだとしても、同級生にそこまでさせてしまうのは、さすがに申し訳ない。

「でも晃君、料理できないでしょ?」

 う・・・、確かに料理はほとんどできない。

「でも、風邪が伝染っちゃったら悪いし。」

「大丈夫、大丈夫。それに病気の時ぐらい、誰かに頼ってもいいんじゃない?」

 半ば強引に押し切られる形でカウンターキッチンから追い出されてしまった僕は、ソファに座って料理をする瑞希を眺めるしかなかった。

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