第78話 勉強会をしよう(8)
リビングに掛けられた時計の“カチコチ”という規則的な音が、やけに耳に残る。
冷蔵庫の自動製氷機から落ちる氷の音がリビングに鳴り響き、目の前の道を通る車が大きなエンジン音をたてながら通り過ぎた。
テーブルに英語のテキストを出してはみたものの、内容など全く頭に入っては来ず、気になるのは正面に座っている瑞希の表情ばかりだ。
「か、過去完了っていうのはね、ある時点まで継続していた行為や経験を・・・。」
瑞希、その説明はさっき聞いたよ。
僕の正面に座っている瑞希も、さっきから落ち着きがない。
原因は分かっている。
さっき瑞希に渡された僕の秘蔵の雑誌・・・端的にいうとエロ本が原因だ。
ちなみにその雑誌、つまるところエロ本であるが、片付けるタイミングを逃してしまい未だにテーブルの上に鎮座している。
裏表紙を上にしてあるといっても、同級生の女子と一緒にいるこの状況で視界の端に自分のエロ本が置いてあるなんて、正直言ってトラウマものだ。
「ただいま〜!いやぁ、大漁でしたね。」
ちょうど僕のメンタルが気まずさに耐えきれなくなりそうになった時、釣りを終えた父さんたちが玄関を開けて入ってきた。
まさに地獄に仏とはこの事かと思った僕は、いつもは出迎えなどしないくせに、弾かれるように玄関へと足を運んだ。
ちなみに、さっき「ただいま」と言ったのは、瑞希のお父さんだ。「お前の家はここじゃないだろ」と思わないこともないが、そこはスルーしておく。
「おっ、晃君。今日は美味しいお刺し身だぞ。」
余程楽しかったのだろう。
一ノ瀬さんはいつも以上に満面の笑顔で、僕にクーラーボックスを見せた。
「一ノ瀬さんがクロダイを釣り上げてね、ご厚意でおすそ分けをして頂けることになったんだよ。」
一ノ瀬さんに家に上がるように勧めながら、父さんがそう説明してくれた。
「速水さん、お父さん、お帰りなさい。お魚は釣れましたか?」
リビングから出てきた瑞希が、僕の後ろから覗き込むように顔を出してきた。
「いやぁ、ビギナーズラックって本当にあるんだね。引きが強くてビックリしちゃったよ。」
リールを巻く仕草をしながら、一ノ瀬さんが瑞希にクロダイがを釣ったときの状況を説明しだした。
「晃、一ノ瀬さんのクーラーボックスを、キッチンに運んでくれるか?」
一ノ瀬さんにソファでくつろいでいるように言った父さんは、自分のクーラーボックスを持ってキッチンへと向かった。
「じゃあ、晃君。これお願いするよ。」
一ノ瀬さんから受け取ったクーラーボックスは、思ったよりも重くて驚いた。
入っている氷の分を差し引いても、かなりの大物だと予想できる。
「父さんは何が釣れたの?」
「メバルが5匹とカワハギが3匹。ベラとカサゴは小さかったからリリースしてきたよ。」
釣果としてはまずまずだが、一ノ瀬さんが釣り上げたクロダイと比べるとどうしても見劣りしてしまう。
「先にクロダイから捌いちゃおうか。」
父さんが一ノ瀬さんのクーラーボックスから、クロダイを取り出してシンクに置いた。
体長30センチほどの良い型だ。
あまり料理をしない父さんだが、魚だけは器用に捌く。
そういえば母さんが生きていたときから、父さんは釣ってきた魚は自分で捌いていたな。
「ちょっと見ててもいい?」
僕は父さんの横に立って、手もとを覗き込んだ。
鱗を落としてから、エラのあたりから包丁を入れて頭を落とす。
腹に切れ目を入れてから内臓を洗い流し、腹側と背中側に切れ込みを入れて背骨から切り離せば二枚おろし、同様に反対側の身も背骨から切り離せば三枚おろしだ。
「ここからが難しいんだぞ。」
父さんは僕をチラリと見ると、捌いた身の皮側を下にしてまな板に置き、包丁で削ぐようにしてクロダイの皮を剥がしていった。
「包丁を固定して皮を引くようにするのがポイントだ。皮引きっていうんだぞ。」
得意げに語る父さん。
親のドヤ顔って、なんでこんなにムカつくんだろう。
「へぇ、こうやって捌くんだ。凄いですね。」
いつの間にかカウンターの向かい側に来ていた瑞希が、感嘆の声を上げ、身を乗り出す。
「あ、うちのお父さん、勝手に始めちゃったみたいです。」
申し訳なさそうな表情の瑞希の向こう側では、持参したビールを嬉しそうに開ける一ノ瀬さんの姿があった。
「気にしないでいいよ。すぐにできるから瑞希ちゃんもくつろいでて。」
機嫌が良いのか、珍しく父さんが鼻歌交じりで調理をしている。
晩酌をする大人たちは刺し身だけでいいかもしれないけど、僕と瑞希は他にもおかずが欲しいところだ。
そう思った僕は、勇斗が食べきれずに置いていった唐揚げを冷蔵庫から取り出し、電子レンジへ入れて30秒のタイマーをセットした。
しまった、ご飯を炊いていない。
炊飯器で早炊きしても30分はかかる。普段は料理をしないから、ご飯を炊くのに時間がかかるってことを忘れていた。
「食品庫にパックのご飯があるだろう?」
炊飯器の前で悩んでいた僕に、父さんが助け舟を出した。
「速水さん、どんな感じですか?」
何もしないことに気が引けたのか、それとも瑞希に怒られたのかは分からないが、少し赤い顔をした一ノ瀬さんが、カウンターの向こう側から顔を出した。
「じゃあテーブルに食器を並べてもらってもいいですか?」
そう指示された一ノ瀬さんが、テーブルに置かれた僕の英語のテキストを重ねて端に寄せ始めた。
ん?テーブル?
ヤバい。例の雑誌を片付けていない!
僕が雑誌のことを思い出したときには時すでに遅く、一ノ瀬さんがちょうど例の雑誌を手に取ったところだった。
一ノ瀬さんと目が合った。
“ゴクリ”という自分のつばを飲み込む音が、頭に響く。
「あ〜き〜ら〜く〜ん。うちの娘となんの勉強をしていたのかな〜?」
いつもは温厚な一ノ瀬さんの目が、殺人鬼のそれに見えたのは、決して僕の錯覚ではないだろう。
あぁ、悪夢のような時間は続く。
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