第68話 勉強会をしよう(3)

 ゆっくりと流れる心地よい時間。

 隣の席からは、ノートの上でシャープペンシルを走らせる音が微かに聞こえてくる。

 図書館で偶然会った美桜先輩は「分からないところがあったら遠慮なく聞いてね」と言ったあとに、自分の勉強に集中してしまった。

 せっかく会ったというのに、素っ気ない美桜先輩に対して僕は少しだけ寂しい気持ちを覚えた。

 僕は教科書を捲るふりをして、右隣に座っている美桜先輩を盗み見る。

 睫毛、長いんだな。

 美桜先輩の横顔をこんなにまじまじと見るのは初めてであり、これまで気づかなかった発見が多くあった。

 例えば、左耳の後ろに小さなほくろがあること。

 例えば、思っていたよりも首が長いこと。

 例えば、流れ落ちてくる髪を気にして、何回も耳に掛ける癖があること。

 その小さな発見ひとつひとつがとても愛おしくて、僕は美桜先輩の事が本当に好きなんだと再確認させられる。

「どうしたの?何か分からないとこある?」

 僕の視線に気づいたのか、美桜先輩が手を止めて僕の方に顔を向けた。

「いや、えっと・・・大丈夫です。」

 危ない危ない。

 ただでさえ先日のバーベキューのときに、胸を凝視していた事に気づかれているんだ、横顔に見惚れてたなんて事がばれた日には口もきいてもらえなくなるぞ。

「そっか、頑張ってね。」

 そう言った美桜先輩の声が少しだけ残念そうに聞こえたのは、きっと僕が自意識過剰だからだろう。

 とはいえ、いつまでも遊んでいたら、美桜先輩の勉強の邪魔になってしまう。

 一通り美桜先輩の横顔を堪能した僕は、シャープペンシルを持ち直してノートへ走らせた。


 数学の試験範囲の復習を一通り終えた僕が顔をあげると、読書スペースに設置された大きな窓から、図書館周囲に生えている芝生が朱に染まっているのが見えた。

 いったい今は何時ぐらいなのだろう。

 僕は凝り固まった肩と肩甲骨の周りの筋肉をほぐすため、肩を大きく回してから、両掌を組み伸びをした。

 肩関節がピキピキと音を立てながら伸びていくのが分かる。

 僕はびっしりと数式で埋め尽くされた数学のノートを見て、我ながらよく勉強したと自画自賛した。

 隣にいる美桜先輩に良いところを見せようという下心があった事は否定しないが、動機はどうであれ勉強したことには変わりがない。

 やはり、愛の力は偉大だということだな。僕はひとりで納得すると、大きく2回頷いた。

「速水君、凄く集中してたね。」

 いつからこちらを見ていたのだろうか、美桜先輩は頬杖をつきながら、楽しそうに僕の横顔を見ていた。

「あ、すみません。退屈でしたよね。」

 珍しく勉強に力が入ってしまい、せっかく美桜先輩と一緒にいるのに放置してしまっていたようだ。

「大丈夫、大丈夫。おかげでテスト対策バッチリだし。」

 美桜先輩が両手を握って、小さくガッツポーズをした。

 子供っぽいその仕草は、僕の抱いていた美桜先輩のイメージとはかけ離れているものであったが、思っていたよりも僕と美桜先輩の関係が近いものだということを認識させてくれた。

「さすがに、ちょっと疲れたね。」

 小さなた溜息をつき、美桜先輩は僕に「休憩しようか」と提案してきた。

 もちろん断る理由はなく、僕は勉強道具をスポーツバッグに入れて自動ドアをくぐった。

 岬特有の強い風が吹きつけた。

「きゃ!」

 美桜先輩が小さな悲鳴をあげた。

 いたずらな風がスカートをめくり上げたのだ。

 反射的に僕の視線は美桜先輩のスカートに注がれたが、残念なことに決定的瞬間は見逃してしまった。

「もう、速水君のそういうとこ、どうかと思うよ。」

 顔を赤らめながら抗議の視線を向ける美桜先輩には悪いとは思うが、これは男子高生の悲しいさがなので、改善することは難しい。

 図書館の建物の裏手に回ると、小さな広場が設置されている。

 広場といっても、ベンチが数個あるだけで他に何もないスペースなのであるが、眼前に広がる広い海は一見の価値があると思っている。

「コーヒーで良い?」

 振り向くと、美桜先輩が紅茶とコーヒーの缶を持って立っていた。

 どうやら僕が海に見入っているうちに、自動販売機で購入してきたようだ。

「ありがとうございましす。あ、お金。」

「お金はいいよ。色々お世話になったしね。」

 僕が財布を取り出そうとしたのを片手で制して、美桜先輩が缶コーヒーを差し出してきた。

「風が気持ちいい。」

 美桜先輩がプルタブを起こして、紅茶を一口飲んだ。

 山側から差す夕日を受け朱に染まった美桜先輩の姿は、どこかの美術館に飾られている絵画と見間違えるのではないかと思えるほど美しい。

 絵の題名は「夕日を背負う少女」。

 ・・・センスが壊滅的だな。

 僕は苦笑してから、缶コーヒーを喉に流し込んだ。

 きっと疲れていたのだろう。いつも飲むものより少し甘いコーヒーが、体に浸透していくのが分かる。

「咲希のこと、気にかけてくれてありがとうございました。」

 突然、美桜先輩が僕に向かって頭を下げた。

「え?急にどうしたんですか?」

 突然のお礼に戸惑う僕。

「ちゃんとお礼を言ってなかったって思って。」

 美桜先輩が笑顔で顔を上げた。

「それで、最近の咲希ちゃんはどうですか?」

 言葉を選んでいるのか、美桜先輩は少し考えてから口を開いた。

「私とは普通に話してくれるようになったけど、お母さんとはまだ溝がある感じ。だけど声を荒げる事も無くなったし、いい方向にすすんでると思う。」

 崩れてしまった信頼関係を築き直すことは、容易なことではないだろう。

 でも、咲希ちゃんが家の中で孤立していた時のことを考えると、随分と状況は良くなってきたと言える。

「私もお母さんも、咲希の言葉をちゃんと聞かなかったから悪かったんだよね。」

 空になった紅茶の缶に視線を落とす美桜先輩。

「美桜先輩はちゃんと咲希ちゃんの話を聞いてたじゃないですか?!」

「・・・違うよ速水君。私がやってたのは自分の意見を押し付けてただけ。」

 空を見上げた美桜先輩は「だからダメなんだよ」と付け加えた。

「そんな時、颯爽・・・とは言えなかったけど、現れたのが速水君。」

「結局、僕も咲希ちゃんを怒らせちゃいましたけどね。」

 今考えると「何であんな事を言ってしまったんだ」と過去の自分を注意したい気分だ。

「それでも、私は随分と気持ちが楽になったんだ」

 美桜先輩がこちらに振り向いた。

 潤んだ目で、僕に真っ直ぐな視線を向ける美桜先輩。

「私ね・・・。」

 僕は口に溜まったツバを‘‘ゴクリ’’と飲み込んだ。

 こ、これは・・・。

 いくら鈍感な僕でも、この後に美桜先輩が言いたいことぐらいは想像できる。

 これは、男らしく「僕から言わせてほしい」とでも言うべきなのだろうか?

「えっとね・・・。」

 ここで言わなったら漢が廃る。

 さあ言うぞ!

「いや、僕から言わせて・・・。」

 その時、僕の言葉に被せるように、市内に夕焼けチャイムが流れだした。

 何でこのタイミングで流すんだよ!まさか司書のおばさんの陰謀なのか?!

 この辺の市内放送は図書館の屋上に設置されたスピーカーから流れるため、周囲に聞こえる夕焼けチャイムはかなり大音量であり、会話に支障が出るほどだ。

「え?もうそんな時間?急いで帰って夕飯の支度をしなくちゃ。」

 さっきまでの会話はどこへやら。

 美桜先輩は軽く手を振ると、自転車置き場の方へ走っていった。

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