第66話 勉強会をしよう(2)

 春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、この季節は十分睡眠をとっているにもかかわらず眠くて仕方がない。特に午後の授業は満腹と相まって、容赦ない睡魔が僕を襲ってくる。

 たとえ起きていることに成功したとしても、僕の記憶中枢は働くことを拒否しているため、授業中の記憶は途切れ途切れ・・・いや、ほぼ無いに等しい。

 ・・・これって、素直に居眠りをして頭をスッキリさせ、自主学習に励む方が効率が良いのではないだろうか。

 ゴールデンウィーク後からそんな状態が続いていたため、授業内容を理解しているはずもなく、僕は海沿いに建てられている市立図書館へと来ていた。

 灯台のある岬の近くにあるこの市立図書館は、僕が小学校の時に建てられたもので、当時は夏休みの自由研究などで随分とお世話になった。

 小学校を卒業してからは、この図書館に訪れることは無くなってしまっていたが、テスト期間中は学校の図書室が混雑するため、久しぶりに足を運んでみたのだ。

「あの頃と全然変わってないんだな。」

 僕はそう呟いた後、自分が小学校を卒業してから、まだ4年しか経っていないことに気づき苦笑した。

 子供にとって一年間というのはとても長く感じるものであるが、目まぐるしく変化する世の中にとっての一年間というのは、子供のそれとは違い、きっとあっという間に過ぎていくものなのだろう。

 自動ドアをが開き、中からヒンヤリとした空気と共に図書館独特の紙とインクのにおいが流れてきた。

 市立図書館は向かって右側に貸し出しカウンターがあり、その正面には話題書や司書のお勧めの本が並んでいる。

 左側に児童書、奥には一般書籍の本棚がずらりと並び、左奥に読書や勉強ができる机が並んでいる共用スペースがある。

 小学校の時と全く変わらない風景に、少しだけノスタルジックな気持ちに包まれた。

「そういえば、優斗と一緒に騒いでいて司書さんに怒られたっけ。」

 見つかったら文句を言われそうだと思い、恐る恐る貸し出しカウンターの中を覗いてみたが、当時いた怖い司書の姿を見つけることはできなかった。

 もしあの怖い司書がいたとしても、高校生の僕を見てあの時のクソガキだとは分からないだろうと思いながらも、少しだけ寂しさを感じる自分がいた。

「年配の方だったから定年して退職したのかもしれないな。」

 今更ながら、謝っておくのだったと後悔した。

 気付かないうちに、カウンターの中をまじまじと見ていたのだろう。中で仕事をしている若い司書が怪訝な顔をしてこちらを見ている。

「さてと、勉強しようかな。」

 僕はリュックを背負いなおし「誰にアピールしているんだ?」と自分でツッコミたくなるような大きさで言葉を発すると、左奥の共用スペースに足を運んだ。

 国語に関しては、週末の勉強会で優愛に教えてもらえばいいので、今日は別の教科の対策を行う事とした。

 僕の通っている高校は高2になると文系クラスと理系クラスに分かれるため、それぞれのクラスで教科の難易度が変わってくる。

 理系である僕のクラスは、数学が細分化されたり、科学が物理学・化学・生物学のうちのふたつを選択したりと専門性と難易度が増している反面、国語と社会に関してはあまり難しくなく、授業数も少ない。

 まずは数学からだな。

 理系の数学の教科書には多くのアルファベットが記載されている。

 x、y、zぐらいは良いとしてもα、β、γ、ω・・・と出てくると「自分が勉強しているものは数学なのか?」「実は英語?いや、ギリシャ語なのでは?」などと本気で思ってしまうほどだ。

「ダメだ。飽きた・・・。」

 開始早々、僕は教科書を閉じ、天井を仰いだ。

 自宅では集中できないので、場所を変えれば集中できるだろうと思い図書館に来てはみたが、そんなに旨くはいかないらしい。

「ふふっ。速水君、まだ5分も経ってないよ。」

 パーテーションで仕切られた隣の席から聞こえた声にびっくりして、僕は弾かれたように声の主の方に振り向いた。

 流れるような艶やかな髪を左耳にかけ、こちらに顔をのぞかせたのは、弓道部主将である美桜先輩。言わずものが僕が絶賛片思い中の相手だ。

「速水君は、数学をやってるんだね。高2の一学期って、数学が急に難しくなるから大変だよね。」

 美桜先輩が、僕の手元を覗き込んできた。

 美桜先輩!近い、近いって!

 図書館の共用スペースは各ブースがパーテーションで仕切られている為、隣の机の上を見るためには、パーテーションの横から覗き込む必要がある。

 だから、現在の状況は・・・座っている僕の目の前に美桜先輩の頭があって・・・つまり、距離にして大体10センチメートルぐらいで・・・手を伸ばせばすぐに届く距離で・・・。

 僕は、自分の鼓動がどんどん早くなっていくのを感じていた。

 このまま抱きしめることができたら、どれほど幸せなのだろうか。

 両手をちょっと伸ばせば、美桜先輩の頭は僕の両腕の中に包み込まれるだろう。

 僕は、“ゴクリ”と唾を飲み込んだ。

 シャンプーの香りだろうか。美桜先輩から漂ってくる甘い匂いが、僕の思考を狂わせる。

 弓道場の前で悶々としていた、少し前までの自分とは違う。

 美桜先輩とはそれなりに親しくなったし、少なくとも嫌われていないという自負はある。

 このまま何もしなければ、美桜先輩は卒業していなくなってしまう。指をくわえて見ているだけで良いのか?

 思考の暴走は止まらない。

 行動するのは、今じゃないのか?!

 僕は意を決すると汗ばんだ手のひらをジーンズで拭き、ゆっくりと美桜先輩の方へ手を伸ばした。

 あとちょっと、あとちょっとで美桜先輩を抱きしめることができる。

 僕の鼓動は、これまでの人生にないぐらいに強く脈打っている。

 さぁ、今だ!

「図書館でラブコメは禁止だよ。」

 いきなりかけられた声に、僕は伸ばしていた手を引っ込めて振り向いた。

 後ろに立っていたのは、忘れもしないあの顔。

 僕と優斗がこっぴどく叱られた、あの年配の司書だ。

 くそっ、良いところで邪魔しやがって!

「なんだ。前に図書館で騒いで怒られた子じゃないか。大きくなっても悪さするのは変わらないね。」

 僕の事を覚えていたのか、司書のおばさんは呆れ顔だ。

 絶対にこの人には謝ってやるもんかと、僕は心に誓った。

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