5

「ルウク、お待たせ」


 宿の前でエリシアを待っていたルウクは、宿から出てきた彼女の声に振り返る。エリシアはフイーーあの白い生き物を肩に乗せ、身長と同じくらいの長さのロッドを抱えていた。


「……何をしていたんだ」

「えっとね、リヴェルさんから渡されたものがあったの」


 そう言いながら、エリシアは握っていた手をルウクに差し出し、そっと開く。

 覗き込んでみると、それは彼女の手のひらに収まる程度の小さなものだった。形は四角く、真ん中に青色の宝玉が埋め込まれている。それ以外に特徴といえるものはなく、ただ宝玉が海の水面のように煌めいていた。


「もしも何かあったら、これに念じて欲しいって。これを持っていれば、私がどこにいてもリヴェルさんが見つけられるから」


 世界樹から溢れ、人や生き物達の生命の源であり魔力の根源でもあるマナ。

 宝石とはマナが結晶化したものであるため、魔力を込めて持ち歩く人間も多い。エリシアが渡されたのは、リヴェルの魔力が籠もった魔道具(マナを利用して造られた道具)ということだろう。


「…………」

「……ルウク? どうしたの?」

「……なんでもない」


 リヴェルの行為は、彼女を守るために必要なことだ。それは理解しているのだが、何となく嫌な感覚が胸に残る。理由はルウクにも、よく分からない。


(得体の知れない奴)


 妙に気さくなところが、胡散臭い。ルウクがリヴェルに抱く印象が、そんな感情を齎したのかもしれなかった。

 心配そうに覗き込んでくるエリシアの視線を振り切るように、ルウクは一言かけてから歩き出す。少し遅れて、エリシアの小さな足音が追いかけてきた。



 市場に向かうと、そこは行き交う人々で賑わっていた。とはいえ店の規模も人の数も、さすがに聖都ほどではない。しかし、屋台や酒場などの建物が、石畳を挟んで一直線に並べられた光景は壮観で、目を見張るものがある。


「みんな楽しそうだね」

「……ああ」


 答えながら、自然とルウクの視線は道の先に向かいーーそこで見えたものに、胸の奥がズキリと痛んだ。


(……エレナ)


 聖女エレナの像。やはり聖都ほどの大きさではないものの、そこには人を見守るように佇む彼女の像があった。


「ルウク? ……あ」

「……行くぞ」

「う、うん。そう……だね」


 見たくない。不快になる。嫌いだ。……嫌い? 分からない。だから、そう。ただひたすらに、『嫌』なのだ。エレナを見ると、不可解で掴めない感情に満たされ、どうしようもなくなる。

 だから逃げるように、ルウクは顔を背け歩き出したのだった。


 次に話したのは、二ヶ所で買い物を終え、次に向かう店までの距離が空いた時だった。エリシアは言葉を選ぶように、少したどたどしい口調でルウクに問いかける。


「……ねぇ、ルウク。ルウクは今も、エレナ様のこと……無理、なんだね」

「……ああ」


 物心ついた頃からエレナに対しての苦手意識は変わらない。その為エリシアも当然、知っている。


「今まで、ずっとルウクは旅をしてたんでしょ? その間も、いっぱい見てきたの?」

「……ああ」

「そっか……やっぱり、どこに行っても見えるんだね。エレナ様の姿」

「? お前……」

「私、ずっと大聖堂の中で暮らしてたから。外の光景とか、全然知らないの。聖都の中は、窓越しになら見たことがあるんだけど」


 自分達の足音も聴こえないほどの、人々のざわめきの中。しかし、ルウクの耳に彼女の声はハッキリと届く。

 エリシアの横顔は大人びて、泣き虫だった十年前とは程遠い。達観したような、どこか遠くを見ているような面差しだった。


「十年前……何が、あったんだ」

「……」


 一瞬だけ、エリシアの足が止まる。が、すぐにまた歩き出した。ルウクは彼女の一挙一動を注意深く眺めながら、答えを待った。


「……私も、ね。あまり詳しいことは覚えてないの。あの日、おばさんがルウクと一緒に隠れなさいって言って。二人でクローゼットに入って、それで……」

「…………」


 沈黙が下りる。クローゼットに入ったこと。ルウクも、それは覚えている。しかし、


(あの時、俺は)


 脳裏に、あのときの記憶が蘇る。

 誰かが家に入ってきて。母の声と、すぐに悲鳴。そして、エリシアがクローゼットから飛び出しーー。


(何度も、聴こえた。俺は、エリシアが助けを求める声を……確かに、聴いていた)


 いや、やめて、助けて。そんな声が、確かに聴こえた。

 しかし、そんな彼女の悲痛な叫びに、ルウクはどうしたか。


「……俺は」

「謝ったり、しないでね」


 まるで心の内を読んだかのようなエリシアの言葉に、ルウクは思わず口をつぐむ。

 そう。あのとき、ルウクはーー『何もしなかった』のだ。大切な友人であり、兄妹になってもいいとすら思っていたはずの彼女が、助けを求めていたというのに。

 何者かに捕らえられ、必死にもがくような音も聴こえていた。彼女が家から連れて行かれるまで、ずっと、ずっと、聴こえていたのに。

 ルウクは、何も、しなかった。


「ルウクは何も悪くないんだよ。だから、謝らないで。ね?」

「でも、俺は……!」

「あれは、仕方がなかったんだよ。おばさんの言いつけを破って、私がクローゼットから出て行ったのが悪いの。だから、謝られる方が……私は辛いかな」

「……」


 あのとき。そう、ルウクは怖かったのだ。

 今まで聞いたことのなかった、母の声ーー悲鳴を耳にして。そのすぐ傍に、得体の知れない何かがいるのだと理解して。

 全身が小刻みに震えた。クローゼットを揺らしてしまっているのではないかと思った。

 歯がガチガチと震えた。その音が、クローゼットをの向こうにいる『何か』に聴こえてしまうのではないかと思った。

 隣で同様に震えているエリシアを、気遣ってやる余裕なんて当然ない。頭は真っ白で、ただ恐怖の色で塗り潰されていたのだから。


「……ごめんね、ルウク」

「なんで……お前が謝るんだ」

「……」

「人に謝るなと言っておいて、自分だけ謝るなんて……」

「ずるい?」

「……ああ」


 本当は、自分の方が謝りたいのに、と思った。彼女の考えがどうであれ、ルウクは自分がエリシアを見捨てたことを後悔しているのだから。

 エリシアは、少し困ったような笑みを浮かべながら。


「……そうだね。ごめんね」

「だから、謝るな」

「あっ……」


 一瞬、彼女の表情が酷く悲しそうなものに変わったような気がした。しかし、すぐに笑顔に戻って。


「……私、いっぱい変わっちゃったけど。それでも、ちゃんと生きてるの。十年前のあの日は、連れて行かれた後に巡礼に来ていた聖堂の人達に助けられたから。……だから、この話はもう終わり。ルウクは後悔なんてしないで。ほら、後悔することなんて無い方が良いと思わない?」

「後悔のない人生なんて、有り得ない」

「うん……そうだとは、思うけど。出来るだけ、減らしたいんだ。特に、私のために誰かがしてるような後悔は、無くしたいなって」

「……そうか」


 うん、とエリシアは頷く。その仕草には強い意志が感じられ、ルウクは彼女の考えは変わらないだろうと察した。

 自分に後悔してしないで欲しいという彼女の願い。それを叶えられる気は、正直しない。けれど、ならばせめて当時の出来事を謝るなという願いくらいは叶えたい。……それこそが、ルウクに出来るあの日の贖罪のような気がした。

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