第2話 自転車の女

 リュウジは今日も憂鬱だった。

 憂鬱な気分で家を出て、そして歩く。学校へ向かって歩く。憂鬱な気分で住宅街を抜け、堤防沿いを歩く。幅1•5メートルくらいの歩道の左寄りを憂鬱な気分で歩く。前方20メートルくらいの所を同じ学校の男子が歩いている。もちろん親しい人間ではないので追いかけたりしない。後ろから自転車が追い越していく。何台も走っていくが、ほとんど同じ学校の生徒だ。

 リュウジは歩きながら須藤美沙子を待っていた。大抵の朝、この堤防沿いを歩いてる間に、自転車に乗った美沙子がリュウジの右をすり抜けていくのだ。堤防を抜けると広い道に出るので、歩道と自転車の走る道が別々になってしまう。リュウジは歩く速度をゆるめる。憂鬱な気分と若干のワクワク感をたしなみながら、美沙子を待った。

 堤防の残り6~7メートルくらいの所で、リュウジの右を須藤美沙子が走り抜けた。風。須藤さんの風がかかる。この瞬間が最も須藤さんに近付ける瞬間だった。後ろ姿。なびく髪。顎のライン。リュウジは今日もほんの少し幸せだった。ほんの少しだけど。

 家を出てから20分ほど経過し、学校が見えてきた。もう少しだ。もう少しで何がどうなるという訳でもないけど、もう少しだ。正門の前にヤングアダルト男性教師が一人立っている。いつもここで見かけるが授業を受けたことがないのでよく知らない教師だ。おはようとか言ってるが自分には関係ないだろうとリュウジは思った。リュウジは顔をそむけ、何も言わず憂鬱な気分で通りすぎる。自転車置場の横を通り、校舎に向かう。もう須藤さんはとっくに校舎に入ったろう、とリュウジは思う。ロッカーで靴を履き替え、脱いだ靴の底を憂鬱な気分で見る。数カ月前から踵の部分に穴が空いているのだ。だんだん大きくなってるようだ。早急に何とかしなければならない。

 廊下を歩く。なるべく胸を張って歩く。オドオドしてるように見られたくないから、胸を張って歩く。知ってる人や知らない人とすれ違うが、言葉を交わすことも挨拶することもなく、まるでお互い存在しないかのように歩く。

 1年2組と書かれたプレートの下にある引き戸を開き、教室に入る。リュウジは誰とも目を合わせることもなく机の間を歩き、自分の席に着く。左から2列目、後ろから3番目の席だ。座っていきなり突っ伏すのもどうかと思うので、しばらくそのまま座っておく。両腕を前で組んだり、ズボンのポケットに入れたり、机に肘をついたり、日によって体勢は違う。今日は両肘をつき、合掌し、突き出した両親指に顎をのせ、ぼんやりと空中を眺める、というスタイルだ。須藤美沙子は安東葉子の机の横で何やら話している。リュウジは視界の右端に美沙子の姿を入れ、ぼんやりと空中に視線を向けた。

 もちろんリュウジは、美沙子とすてでいな関係になろうなんて思っていなかった。リュウジにはそれが不可能なことは分かっていた。誰も俺を好きになることはない。そんなことは知っている。俺は須藤さんのいちファンにすぎない。だからただ観賞してるだけなのだ。それの何が悪い? 何も悪くあるまい。しかしこのことは絶対に他人に知られてはならない。そんなみっともないことがあってはならない。俺は好んでこういう状況になっているのだ。俺は一人でいたいから一人でいるのだ。恋人なんて欲しくない。友達もいらない。もちろん家族もいらない。俺は一人でいるのが大好きなのだ。と、リュウジは自分に言い聞かせていた。

 今日もいつもと変わらない日常が流れていく。リュウジは美沙子を観賞していた。リュウジは黒板をノートに書き写した。バカバカしい一日。意味も未来も無い一日。

 リュウジは今日も誰ともしゃべらなかった。今日もよく突っ伏した。今日もとっとと帰るとしよう。

 六時間目が終わるとリュウジは素早く学校を出る。歩きながら、後ろから美沙子が来るのを待つ。しかし帰りは逢える日と逢えない日がある。堤防沿いの歩道の右寄りを歩く。少しだけ歩く速度をゆるめ、自転車の女を待つ。なかなか来ない。美沙子もリュウジと同じ帰宅部であるけど、今日は友達とダベってるんだろうか、来ない。

 もうすぐ堤防が終わる。歩幅をせばめ、ゆっくり歩く。

 あと10メートル。

 あと5メートル。

 来ない……。

 ここで橋を渡らなければならない。橋を渡ってしまうと、もう逢うことは百パーセントない。しかし、渡らなければならない。ゆっくり、橋を渡る。

 橋の上から川を覗く。リュウジは昔からなぜか、川の風景が好きだった。

 俺もいつかここに飛び込む日が来るんだろうか。川を覗くたびにそう思う。とりあえず、今日は飛び込まないけど。

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