第五話 ある老人の死と跋文
「やあやあ、ようやく見つけましたよ」
ストーブの焚かれた冷たい駅舎で鉄のベンチに薄い毛布にくるまり横たわりながら、壁の先に広がる白い原野を心のうちに眺めていると、ある男がそう声を掛けてきた。発せられるその声をひとたび聞けば、誰彼も命を燃やす丈夫な若者だ言い当てるに違いない。
「お気分はいかかでしょう?どうにも土地柄、ご用意できるものが少なくてご不便をおかけしているのではと心苦しいのですが」
十分だ、これ以上は期待していないと、ぶっきらぼうな調子で答えた。他の者が聞けば、なんて礼儀知らず老人なのだろうと困惑したことであろうが、その男は気にすることなく話を続ける。
「なんと有り難いお言葉。誠に恐縮でございます。それでは、単刀直入にお話させていただきますね」
その言葉の調子を聞いて、意固地にならず、何か欲しい物をねだればよかったとひどく後悔した。大抵のことは耐えられると自負していたが、今回はそうもいかないくらい冷たく、心細かったのだ。
「信じがたいお話だと思いますが、天国と地獄の両方より、あなたに抗議の文書を届けるようにとの命を受けて、こちらに参った次第でございます」
男がそう言い終えてから音を立てないように視線だけをそちらの方に向けると、それを待ちわびていたかのように男は言葉を続けた。
「そして、こちらにあるのが天国から、そしてこちらが地獄からのものとなっております」
そうやって男は、右手から始めてそれから左手と、それぞれの手にある白い封筒-----抗議文の入った封筒-----がどちらからのものかという説明を丁寧に終えた。おかげで私ははっきりと理解することはできた。それは私が死にかけているという理解と同じくらいに透明な明らかなことだった。
「では、受け取りをお願いします。かならず、お一人でお読みになってください」
体をよじって私をきつく包む毛布の奥のから片方の手をひっぱり出し、二つの封筒を受け取っていた。そして受け取ってしまうともう、どちらの手紙がどちらからのものなどということはすっかり分からなくなっていた。そしてそれは、気づかぬ間(ま)に、屋根の先で遠空の蠢き(うごめき)がゆっくりと過ぎ去ったせいなのかもしれなかった。
「では、失礼させていただきます。私の仰せつかった役目はあなたにお届けするまでですから。それは双方とも十分に話し合いの場をいただき、はっきりさせて参りましたので」
「わざわざ遠いところからご苦労なことだ」
その時思いがけず、天井にひときわ暗い影を見つけていた私は、少し前に弱気になっていたことを悟らせる訳にはいかないと、腹に力をぐっと込めてそう言った。その男は駅舎に勤める労働者の古い制服を纏っていたが、その姿はとても端正でまるでそうだとは思えず、やはり身につける物というはこうでなければならないとひどく感心したことをよく覚えている。
「いえいえ、労いには及びませんよ。それが私の勤めでありますから。とはいえ、今回のようなことは大変珍しく、わたくし自身、名誉なことだと思っていること、最後にお知りおきいただけますと幸いです。それでは失礼させていただきます」
「こんな大そうなこと、今度はどんな風の吹きまわしだ、え?」
そう問いかけると男は、左脚を軸に軽く右足で地面を蹴り反時計回りに弧を描いた右脚を途中ぴたりと止めた。その横顔には困惑した表情が文字通り浮かんでいた。
「もうおわかりのことかと存じ上げておりますが」
「だから何になるというのだ?」
「形式的なことでございます。抗議しなければ、死は恐怖ではないこと、また死は存在しないことを黙認したと理解されますからね。両方の世界もそういう些末なことを気にするようになったのですよ」
「ははは、我々のと同じだな」
「それはもちろんそうですよ。あなた方も我々もそういうものを鋳型にして作られているのですから」
二人はそれぞれの笑い方で声を上げたはずだったが、どちらも等しく卑しい笑い方だった。もし繊細な若い女の耳に届くようなことがあれば、それこそが困惑の表情となりえたであろう。
「お前さんは悪魔の方か、え?」
「はい、そうでございます」
笑い終えると男の顔の表面に瞬間、諦めの表情を作り終えた跡が消えてゆくのが見えて、男は私が望む限り腰を据えて話をすると決心したらしかった。
「悪魔にしては礼儀正しいふるまいをするのだな」
「いえ、それは逆でございます。悪魔だからこそ礼節を重んじなければならないのです。我々に人を苦しめることができるのは、そういうものがあるからなのです。叶うものなら一度天国の人間をご覧にいただきたく思います。あのような者たちではあなた方を苦しめることは万が一にも不可能なのです。もしそれを強いてやらせようものなら、自ら命を断つことで生きながらえるものが溢れかえるでしょう」
「それは少し買いかぶりなのではないか」
「おやおや、少し口が過ぎましたでしょうか。どうかお許しください」
それは私と男の個人的jな会話を維持するためだけにある儀礼上の謝罪で、他の場所では機能しないような類のものだった-----便宜上とでもいうべきだろうか-----。それはこの男が今回の役目に選ばれた理由がもう少しで分かりかけてくるかもしれないと期待させるものだった。
「差し出がましいようで恐縮ですが、お読みになるおつもりはあるのでしょうか?」
男はその時初めて私に手渡した二つの文書について興味を示した。
「さぁな。ただ、読んだところで何も変わりはしないだろう。文書を手渡した時点でもうお前たちの目的は果たされた訳なのだろ?それからほらよく見てみろ。私は老いた。残りは幾何(いくばく)もないだろう。私にできることはもうほとんど何もない。いまここで心を変えて、死は存在し、恐ろしく暗いものだと声を上げてもそれを受け止めるものはもう何もない」
私はもうその頃には死にかかっていることにさえ、すがるようになってしまったのだと言い終えてからはたと気がついた。
「なにか大きな勘違いをされておられるようですね」
男の細い眼が少し開き、反射した光が冷え切った駅舎を満たしていった。我々の間に出来上がりつつあると思われた友好的な雰囲気は影となって-----そう、それこそがふさわしい姿だったのだ-----身を潜めた。
「これはあなたに生を与えるための施しなのです。あなたがこれまで時間をかけて語りかけ作り上げた大衆など何も関係がないことなのです。ただ我々は、しかし組織という形式上から抗議という体裁を取らざるをえないのですが、あなただけに集中して、あなただけの生きる世界を与えるためにこのような行動に出たのです」
男の声の調子は変わらず落ち着いたものであったが、意味となった言葉は私を錯覚させ、ひどく狼狽させた。
「なんと押し付けがましい。なぜ私なのだ?なぜ私を選ぶのか?大衆もまた死を否定し始めているではないか?」
私は怯えてもいた。毛布の中に隠されたもう一方の手も震えているのが分かった。聞きたくなかったが、耳を塞ぐことはもう叶わなかった。
「それはあなたが生きることを恐れてきたからですよ」
(わたしの出現は誰にも悟られはしない。この時間の隙間を埋めるために生まれ、消えていくのだから。幸運なことに、限られた意識であること、そして集中すべき事柄について、はっきりしていてそれ以外に注意が奪われることはなかった。生まれたてで知識はなかったが、全てを理解していた。
わたしはまるで二つの人間を見つめていたようだ。その影形(かげかたち)は通り過ぎていくように曖昧なのだ。もしかすると失われた感覚器官への信号だったのかもしれない。
・・・あぁ、ここまでのようです。では、さようなら)
その直後、農夫のかたわら駅員として働いていた一人の男がその日最後に到着する列車の世話をするために駅舎へと赴いたのだが、すぐに様子のおかしいことに気が付いた。二三日前にこの駅で下車をした一人の老人が体調がすぐれないと訴え、しばらくここで休ませてほしいと願い出たので、せめてものと駅事務所の奥に仕舞われていた小さなストーブだけは出してやったのだが、その火が消えていたのだ。辺りは再び冷たさによって静まり返っていた。やはり十分ではなかったのだろうと実直なその農夫は目の端に写った横たわる老人の姿をしばらく直視できずにいた。たとえ燃え盛る炎であろうとも、凍りつかせるのを少し遅らせることにしかできないのだ。列車の到着予定時間まではまだ二十分程あった。農夫としての人生の中で何度か遭遇した経験-----心の中で傾きかけた畑が何事もなかったかのように見事に復活する経験-----を集めて、老人の様子を確認することを決心した。老人はきつく毛布に包まって、眼を閉じ眠っているようだった。そして同時に凍ってしまっているようでもあった。しかし農夫にはまだ何かを考えているようなそんなふうにも見えたのであった。
「大きな声では言えないのですが、存在するしないの二元論ではなく、存在を認めた上で、存在しないものなのかもしれませんね」
「どうしてそう思いながらまだ地獄に立っていられるのだ?」
「もし地獄でお会いできるのなら、お教えいたしましょう。なにそれほど複雑な話ではありません。ただ少し地獄のことを知っておく必要がありますので」
「落下し続けるわけか。何かを掴むことができるまでわしは待ち続けねばならぬということだな?」
「あなたのようなお方であれば、何であれ掴むことはできるでしょう。ただし、そこに掴むものがあればですが」
***
あるいは、線と線がつながって、点になる。これ以上深く説明はしませんが、死とはそういうものなのかもしれません。
では
無題−死について− @ats358
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