第二話 ある病人の死
黄土色に変色した厚いチューブの中を私の血液が勢いよく流れ始めた。くすんだその色に心奪われていると、減圧された直方体の空間の中にそれは溢れ始めた。その容器は彼女の作業する机の上に横にして置かれており、私が手を伸ばせば十分届く位置にあった。私の血液は新しく繋げられた擬似的な血管を律儀に流れ、外の世界、それも循環の終わりへと行き着いたのであった。直方体の中で、当初は重たく赤く光っていた血液が横に広がるにつれて、一体何であるのか判別がつかなくなっていった。
「もうすぐ終わりますからね。なにか目眩とかそういうものはありませんか?」
私の生活するベッドの横に座る彼女がそう問いかけた。彼女はきっちりとプレスされ、形の整った厚手の白い制服に身を包んでいた。私はただ、ありませんとだけ答えた。彼女はそうですかと言ってから、まるで句読点をつけ忘れまいというように自然に笑みを浮かべたのだった。
「今年の冬は特に寒いですからね。春の桜はとてもきれいでしょうね」
彼女もまた私の病状については全て知っているのだろう。次の桜が彼女だけの未来だとしても私は彼女を責める気持ちにはなれず、むしろその親切な心にありがたいとすら思っていた。
「ぜひ一緒に桜を見ましょう。車椅子に乗ってなら、佐々木さんも許してくれるでしょうから」
「そうですね。ぜひ」
私は一つ事務的な事柄を付け足して、彼女の気を逸らせて騙そうとした。それでも彼女はまだ騙されようとしていることに気が付かないようで、それはしつこく忍び込む感情を処する法を発揮しているようでもあり、私の純粋な彼女を想う感情が悲しさに染まるのを見た。
***
今わたしたちの多くはきっと死が存在しない物語を必死に生きようとしているのだと思います。そして同時に、日常を囲う高く堅牢なフォートレス(脚注2)を建設しているのです。しかし一方でわたしたちは、そのフォートレスを打ち破る強大な力を待ち望んでいるのだと思います。うまくは言えませんが、その光景を見たいという好奇心がその高さや堅牢さに最初から込められているように感じるのです。それは何か不可避なことで、例えば右に曲がるためには左に曲がれないとか、ある物体に焦点を合わせると他のものに合わせられないだとか、何かを起こるたびに常に透明化している、というよりも、われわれの意思に応じて美しく透明化するので、捉えることができなくて当然です。そもそも人間の作る物語には矛盾が多いのです。むしろ、矛盾こそが人間の作る物語なのかもしれません。
(脚注2)要塞のこと。
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