二、哀愁
優花は大の読書好きであった。そのためか、当たり前のように本の内容を会話に引用したり、「この小説、どう思う?」と聞いてきたりする。本を読んでいると知識もつくようで、優花は俺よりずっと物知りだった。
この間も、
「ダメだよ、パンドラの匣を開けることになっちゃうじゃない」
と笑いながら友達に言っていたけれど、俺にはパンドラが何なのか匣が何なのか、サッパリ意味が分からなかった。後で優花に
「パンドラの匣って何?」と聞くと、
「え? ギリシア神話よ、知らないの?」と驚き、
「常識でしょう?」と言っていた。
それが別に俺を馬鹿にしている様子でもなく、自慢している様子でもなく、常識であると信じきっていた様なので、
「優花って何でも知っているよね、凄くてついていけない」
と俺がほめると、優花は寂しく笑うのだった。
この他にも、カルメンの曲がどうとか、漱石の作品のこの文がどうとか、ごく自然に会話にはさんでくるので、俺は人間としての常識が欠けているのかと心配になって、よく図書館へ行くようになった。しかしいくら本を読んでも優花の「常識」には届きそうもなく、俺は自分の知らない話の出るたびに優花を「凄い」とほめ、優花の言う「常識」が並外れているのだと理解をあきらめた。
俺が優花に「凄い」というたびに、彼女は悲しそうに笑っていた。俺は、この笑い方が気に入っている。「笑った顔が一番可愛い」とか言うわけではなくて、そんな気障な意味ではなくて、優花の笑い方にこもった複雑な感情が、気になっているのであった。「凄い」とか「優しい」とか言ってほめても、優花はちっとも嬉しそうではないのだ。むしろ、今にも泣きだすんじゃないかと思うくらい、寂しそうなのだ。助けを求めている気さえする。しかし苦しそうに笑っている優花の姿は、驚くほど自然であった。これぞこの女の本質である、と言わんばかりの表情。
しかし優花と一緒に下校している時、俺が
「優花ってたまに悲しそうに笑うよね」
と言ってみると、今度はとても無邪気に
「そうかしら」
と笑ってみせるのだった。これは、ああそうだ、ボランティア活動で荷物を持ってやった時の笑顔だ。悲しさを全く感じさせない笑い方。悲しさが何かに覆われて、優花ではなくなった。文字通り「無邪気」に笑っているのだが、始めからあった「邪気」をなんとか取り除こうとして、それでも無理だったから、仕方なく何かで覆って隠している。自分の苦しみを誰にも悟られぬよう努めている。うまく言い表せずにくどくど書いてしまったが、簡単に言えば、無理やり笑顔をつくり出しているのである。
ぶりっ子だ。俺はこの笑顔が苦手だ。
俺が色々考えてしかめっ面をしている間、優花も何やら考え込むようにひとり腕組みをしていた。腕組みをするのは、優花の癖だ。
「蓮くんって、他人の心の中を直感的に見透かしている気がする」
突然、独り言のように優花が言った。
「そう? そうでもないと思うけれど」
俺がこう答えたきり、再び無言の時間が訪れた。
後ろから足音が聞こえてきた。誰かが走ってきている。パッと後ろを振り返ろうとした瞬間、その「誰か」が俺の背中をドンと叩いた。
「よう、蓮!」秋原だった。
突然だったので、優花は
「うわっ」と大げさに驚いてみせた。
わざとらしい。そしてまた無邪気に笑っている。
秋原は、優花の方を見て、
「やあ、
と聞いた。優花は少しツンとしたように、
「元気。だけれど、花さんってあだ名、やめてくれませんか」
と言った。秋原は優花の「花」をとって、花さんと呼んでいるのだ。
「いいのいいの、細かいことは気にしない」
秋原は笑ってそう言った。
そうしてその日は、三人で話しながら帰った。
「蓮くんって、他人の心の中を直感的に見透かしている気がする」
家へ帰っても、優花のこの言葉が頭から離れなかった。あいつは何故こう言ったのだろう。俺が他人の心をよくわかっている、というほめ言葉だろうか。それとも、見透かされていそうで恐ろしいという意味だろうか。
恐ろしい? 俺が?
馬鹿言うな、俺より優花の方が恐ろしい。あの無邪気を装った笑い方も、寂しそうな笑い方も、根幹にあるのは、優花の苦しみだ、きっとそうだ。優花の心の扉を一つ開けると無邪気さや好奇心があり、さらにもう一つ奥の扉を開けると、理解できない苦しい闇がある。そうまでして自分の苦しみを隠しているのだ。優花は過去に、何か悩みを抱えていたに違いない。
何があったのだろう。
ふと、前に話したことを思い出した。
「どうして優花はスポーツをやめちゃったの?」と聞いた時である。優花は気まずそうに言った。
「やっぱり運動は私に合っていなかったのよ。中学校だけは一応運動部だったけれど、努力したってちっとも上達しないんだから。それに……、上手な人=努力した人、みたいな見られ方もう嫌なの」
そう言って、やはり寂しく笑った。
もしかしたら、中学の部活で何かあったのかもしれない。高校一年生の今になっても、いやきっとこの先も治らぬ心の傷を、中学生の頃に負ってしまったのかもしれない。
「蓮くんって、他人の心の中を直感的に見透かしている気がする」
俺がいちいち優花の苦しい過去まで想像してしまうから、あいつはこう言ったのだろう。
次の日の昼休み、俺は秋原を誘って、外の花壇の縁で弁当を食べることにした。校庭へ出ると、花壇の近くに一年らしき女子が数人いた。その中には優花もいて、友人と話していた。
「チッ、先客かよ」秋原が舌打ちする。
「どこか別に、座れるところはないだろうか」と俺が言い、二人でそれぞれ座れる場所を探していると、偶然優花の友人は皆どこかへ行き、優花一人が残った。
「おい、花壇空いたよ」俺は秋原を呼びに行った。
戻って来ると、優花が花壇に座り、
「……それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです。」
「何それ?」秋原がそう聞きながら優花の左に座った。
「ああ、ある小説のセリフですよ。私の好きな言葉なの」
「ええっ、その陰鬱そうな言葉が?」
秋原は笑って言った。優花は苦笑し、
「苦しい時に、この言葉を知ったの。やっぱり苦しい時に幸せな言葉を聞いても、全く楽にはなれないみたい。苦痛は、さらなる苦痛によって救われるのね」
と言った。俺は優花の過去が可哀相になって、
「たいへんなことがあったんだね」と慰めるように言った。しかし秋原の方は、真顔でツンとしたままで、「ああ、そう」と不愛想に言ったのみだった。
秋原の態度に俺は腹が立って何か言いたくなったが、空気が悪くなってはいけないと思い、
「そういえば、小説のセリフなんてよく覚えているよね。やっぱ優花は凄い」
と言うと、優花はまた、寂しく笑った。
「まあ、好きなものはすぐ覚えてしまうの。私、暗唱だけは得意だしね」
優花の笑い方を見ていると、俺は何か悪いことをしたようで、申し訳なくなった。
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