第36話 セーラ

 最高評議会ブロック、通称アトラス・ヒルには、最高幹部の執務室や事務局のほかに、評議員や行政府閣僚の居住スペースがあった。緊急事態に素早く対応するため、こうしてコンパクトにまとめてあるのだが、理由は他にもあった。最高評議会の区画ブロックそれ自体がひとつの宇宙船となっていて、しかも離脱できるのである。つまり、議事堂船が万が一スペースバーストに見舞われても、評議員たちの生命と船団の指揮命令系統は、この宇宙船が離脱することによって守られるのだった。


 このような区画の中、最高権力者たる最高評議会議長には、広く豪奢ごうしゃな住まいが用意されていた。さらにその中には広々とした庭園もあって、ハーズはここを、個人的な書斎として使っていた。彼にとってここは、混沌とした状況からほんの一時解き放ってくれる、ささやかな安らぎの場でもあったのである。


 定例の会議を終えた彼は、いつものようにこの庭を訪れていた。入り口で個人認証を終えた彼は、入退室の履歴に目を留め、「ほぅ……」と声を漏らした。

 庭に入った彼は振り向き、ドアに向かって、「誰も入れるな」と言った。ロックのかかる金属音がすると、思わず彼は深いため息を吐いた。

 緩やかな段付きの小径こみちを、彼はゆっくりと下りていった。小径こみちの先には小さな築山つきやまがあって、その頂には、天蓋付きの堂々たるデスクを備えた東屋があった。普段は誰もいないプライベート・エリアだったが、今日はそこに、人の気配があった。


 その女は、足音に気づいて振り向いた。そして、遠くを見るような目でハーズを見つめた。


 ――そこにいたのは、舞衣だった――


 確かに、舞衣に違いない。しかしその表情は、溢れるほどの明るさに満ちた、あの舞衣のものではなかった。


 ハーズは立ち止まると、なめるように彼女を見つめた。彼女が身にまとっていたものは、スマートウェアではなかった。代わりに身に着けていたのは、ほんの小さなえり飾りを着けた、前あわせのゆったりとしたトップスと、同じく前あわせの短いスカートだけだった。その姿は、立法院議長・デールの館にいた、若いヒューマノイドと同じだったのである。

「恥ずかしいわ」と、はにかみながら女は言った。「今の若いひとは、こんな大胆な格好で殿方の前に立てるのね」 それは、少し古風だが訛りのない、きれいな船団の言葉だった。


「セーラ……」と、こぼれるようにつぶやいて、ハーズは一歩踏み出した。そして言った。「踊ってみてはくれぬか? 昔、見たままに……」 

「ハーズ。あなたは、何か勘違いをしている」と、女は拒んだ。「私は、あなたが考えているような私ではないわ……」

「体とともに心も老いる。だが、体が若返れば、心もまた若返る。違和感も、いずれ収まるに違いない。どうかね、若い肉体は?……」

「そう、素晴らしいわね」と物憂げに言って、女は目を伏せた。「肌をくすぐるそよ風の感触、かぐわしい花の香り、さっき頂いた食事も美味しかった……」

「それは素晴らしい」と言って、男は微苦笑した。「身体感覚はどうか? つまり、ひとりで歩いて大丈夫か?……」

 今やセーラとなったその女は、はかなげに微笑した。


「元の私は〈マーイ〉というのね。この子の身体感覚が残っているわ。だから……、ねぇ、ハーズ」

「マーイのことは言うな」と、年老いた権力者は遮った。「記憶が残っているのか?」

「いいえ。でも、心が晴れません……。これは、許されざること。あなたには強い憤りを覚えます」

「怒りは忘れよ」と、ハーズは言った。「地球は、いずれ滅びる。そこには『死』以外になにも残されない。もはや、後戻りすることはないのだ」

「だからと言って……」

「女は、招かれざる異星人だった。ここ船団の中にあっては、収入も与えられず就労も出来ない。例え放出されたところで、セクサロイドとして春をひさぐか、誰かにかくまわれ、奴隷のように生きてゆくほか道はない。そなたたち賢者も、百年ローディングされなければ、憲章の定めに従って消えゆくのみだ。私には、そのいずれもが耐えがたい」

「お気持ちはうれしいわ。でも……」


 今やセーラとなった舞衣の目を、射るように見つめてハーズは言った。

「不幸な娘は、そなたを迎え入れることで、輝かしい未来を手に入れた――。そなたはこれより、これからの人生を、私とともに生きてゆくことになる。もはや、これに代わる選択肢はないのだ。うしろは振り返らず、前だけを見よ」

 欺瞞ぎまんに満ちた、しかし揺るぎない言葉だった。最高権力者の持つ威厳の源泉を、彼はよく心得ていた。そして女もまた、それを感受しうる知性を備えていた。若い女の瞳を見つめて、彼は「よいな……」と、強く念を押した。

「わかりました」 セーラは視線を外し、静かに答えた。そして、庭に目を転じて訊いた。「私は、何をすれば?……」

 古風なドレスの襟が揺れて、その下に豊かな膨らみが垣間見えた。

「我がものとなれ」と、ハーズは言った。彼はセーラの前に歩み出ると、彼女を抱き寄せ、接吻せっぷんした。

 セーラは身を固くしたまま、彼の腕に抱かれていた。やがて彼の手が滑るように動いて、そのてのひらが彼女の豊かな膨らみを包み込んだ。


「いけないわ」


 それは、思いがけない強い力だった。セーラは男を押し戻した。そして、その目を強く見つめた。

「やめて。それは、いけないことよ」

「私の心を、そなたはよく知っているはずだ」と、ハーズは言った。

 唇を拭って、セーラは言った。

「マーイは、今私がいるこの子は、あなたを受け入れていない。今この子を抱くことは、レイプと同じこと。同じ女として生きた私には、受け入れられないことだわ」

「そうではない。今ここにいるのは、そなたであって、地球人の女ではない」

「私がこうして体を動かし、あなたと会話できるのも、彼女がまだ生きているからよ。彼女の潜在意識を感じるわ。それが私に、強い違和感を与えるのだと思う……」

「インストールに問題があったか……」


 諭すように、セーラは言った。

「ひとの心は、記憶だけじゃない。記憶の部位を消し去っても、心は全体なのよ」

「それでは、私はどうすべきか? どうすれば、そなたは私を受け入れられるのか?」

「わからない……」

「そなたの願いを叶えることができれば……か?」

「わかりません」と、遠くを見つめてセーラは言った。

 ハーズは落胆の色を隠さなかった。それでも努めて紳士的に、彼は言った。

「とにかく、私のそばに居よ。これは命令だ。表向きは秘書として私を支えるのだ。ならば、そなたに無理強いはすまい。よいな――」

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