第36話 セーラ
最高評議会議長公邸――
最高評議会ブロック、通称アトラス・ヒルには、船団幹部の執務室や事務局のほかに、評議員や行政府閣僚の居住スペースがあった。緊急事態に素早く対応するため、こうしてコンパクトにまとめてあるのだが、理由は他にもあった。最高評議会の
このような区画の中、最高権力者たる最高評議会議長には、広く
定例の会議を終えた彼は、いつものようにこの庭を訪れていた。入り口で個人認証を終えた彼は、入退室の履歴に目を留め、「ほぅ……」と声を漏らした。
庭に入った彼は振り向き、ドアに向かって、「誰も入れるな」と言った。ロックのかかる金属音がすると、思わず彼は深いため息を吐いた。
緩やかな段付きの
その女は、足音に気づいて振り向いた。そして、遠くを見るような目でハーズを見つめた。
――そこにいたのは、舞衣だった――
確かに、舞衣に違いない。しかしその表情は、溢れるほどの明るさに満ちた、あの舞衣のものではなかった。
ハーズは立ち止まると、なめるように彼女を見つめた。彼女が身に
「恥ずかしいわ」と、はにかみながら女は言った。「今の若いひとは、こんな大胆な格好で殿方の前に立てるのね」 それは、少し古風だが訛りのない、きれいな船団の言葉だった。
「セーラ……」と、こぼれるようにつぶやいて、ハーズは一歩踏み出した。そして言った。「踊ってみてはくれぬか? 昔のままに……」
「ハーズ。あなたは、何か勘違いをしている」と、女は拒んだ。「私は、あなたが考えているような私ではないわ……」
「体とともに心も老いる。だが、体が若返れば、心もまた若返る。違和感も、いずれ収まるに違いない。どうかね、若い肉体は?……」
「そう、素晴らしいわね」と物憂げに言って、女は目を伏せた。「肌をくすぐるそよ風の感触、
「それは素晴らしい」と言って、男は微苦笑した。「身体感覚はどうか? つまり、ひとりで歩いて大丈夫か?……」
今やセーラとなったその女は、
「元の私は〈マーイ〉というのね。この子の身体感覚が残っているわ。だから……、ねぇ、ハーズ」
「マーイのことは、いうな」と、年老いた権力者は遮った。「記憶が残っているのか?」
「いいえ。でも、心が晴れません……。これは、許されざること。あなたには強い憤りを覚えます」
「怒りは忘れよ」と、ハーズは言った。「地球は、いずれ滅びる。そこには『死』以外に、なにも残されない。もはや、後戻りすることはないのだ」
「だからといって……」
「女は、招かれざる異星人だった。ここ船団の中にあっては、収入も与えられず就労も出来ない。例え放出されたところで、セクサロイドとして春をひさぐか、誰かにかくまわれ、奴隷のように生きてゆくほか道はない。それは、そなたたち賢者も同じだ。いずれローディングされなくなれば、アーカイブに死蔵されたまま、朽ちてゆくことになるだろう。私には、そのいずれもが耐えがたい」
「お気持ちはうれしいわ。でも……」
今やセーラとなった舞衣の目を、射るように見つめてハーズは言った。
「不幸な娘は、そなたを迎え入れることで、輝かしい未来を手に入れた――。そなたはこれより、これからの人生を、私とともに生きてゆくことになる。もはや、これに代わる選択肢はないのだ。うしろを振り向いてはならぬ。前だけを見るのだ」
セーラは視線を外し、「わかりました」と、静かに答えた。そして、庭に目を転じて訊いた。「私はこれから、何をすれば?……」
古風なドレスの襟が揺れて、その下に豊かな膨らみが垣間見えた。
「我がものとなれ」と、ハーズは言った。彼はセーラの前に歩み出ると、彼女を抱き寄せ、
セーラは身を固くしたまま、彼の腕に抱かれていた。やがて彼の手が滑るように動いて、その
「いけないわ」
それは、思いがけない強い力だった。セーラは男を押し戻した。そして、その目を強く見つめた。
「やめて。それは、いけないことよ」
「私の心を、そなたはよく知っているはずだ」と、ハーズは言った。
唇を拭って、セーラは言った。
「マーイは、今私がいるこの子は、あなたを受け入れていない。今この子を抱くことは、レイプと同じこと。同じ女として生きた私には、受け入れられないことだわ」
「そうではない。今ここにいるのは、そなたであって、地球人の女ではない」
「私がこうして体を動かし、あなたと会話できるのも、彼女がまだ生きているからよ。彼女の潜在意識を感じるわ。それが私に、強い違和感を与えるのだと思う……」
「インストールに問題があったか……」
諭すように、セーラは言った。
「ひとの心は、記憶だけじゃない。記憶の部位を消し去っても、心は全体なのよ」
「それでは、私はどうすべきか? どうすれば、そなたは私を受け入れられるのか?」
「わからない……」
「そなたの願いを叶えることができれば……か?」
「わかりません」と、遠くを見つめてセーラは言った。
ハーズは落胆の色を隠さなかった。それでも努めて紳士的に、彼は言った。
「とにかく、私のそばに居よ。これは命令だ。表向きは秘書として私を支えるのだ。ならば、そなたに無理強いはすまい。よいな――」
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