3:瀬名アラタの口の中のひみつと「メイちゃん」の罪

 僕の母親が死んだのは、僕が5歳になってすぐの頃だった。

 祖父母も父親も、母の死因を僕から必死に隠そうとした。でも、僕は物心つく頃には彼女がなぜ死んだのかを知っていた。人類はみんな同じ歳で物心がつくわけでもないだろうけど、僕が知ってしまったのは、母が死んでしばらくした頃だった。

「ネトゲで知り合った男と不倫して、あげくの果てに死ぬなんてねぇ」

 母の姉の口調はからりとしていた。

 いつかああなるんじゃないかと予測していて、覚悟していたようだった。僕の母親は子供のころから無防備な心を持っていたそうだから。だからみんな、穏やかな性格の、母より10歳年上の父との結婚を喜んでいたようだった。これであの浮世離れしたメイちゃんも落ち着いてくれる。子供も生まれた。マイホームも買った。大丈夫。もう大丈夫。


 実際のメイちゃんは大丈夫でもなんでもなく、幼児になった僕の世話を焼くのに飽き、ソシャゲでものすごい額の課金をし、クレカを父に止められて無料のネトゲに手を出した。MMORPG。大人数がおなじサーバに接続して、冒険や戦闘をするファンタジーの国。僕の母はゲームがうまかったわけではないだろう。でも、男にチヤホヤされるすべをよく知っていた。男のひとたちからたくさんの課金アイテムをもらって、戦闘がへたくそでもどうにかなるだけのスペックのお姫様ヒーラーになった。


 ゲームの中では、母はかわいくて癒し系のメイちゃんだった。

 大きなギルドに入っていろんな人間と出会って、メイちゃんはさらにたくさんの男をたぶらかした。たぶん、他の女性プレイヤーにはめちゃくちゃ嫌われていたと予想できる。まっとうな女性はネトゲ上で自分の性別をアピールしないだろう。だからたぶん、冷たい目で見てたんじゃないかな、メイちゃんを。

 残念なことに僕の母親のメイちゃんは、(男相手の)コミュニケーション能力に長けていた。キーボードでたどたどしくチャットするのに焦れ、すぐにボイチャに移行し、メールアドレスを教えSNSのIDを簡単に伝え、複数の男に口説かれることに夢中になった。


 ──ねぇメイちゃん、子供の泣き声しない?

 うすく記憶にあるのは、男たちの声だ。明らかにとまどっていた。だから僕はさらに泣いた。母親は困っていた。だから泣いてやった、声をあげて。

 ──隣の家の子なの、よく泣いてるの。困っちゃう。

 そうごまかしていたうちはまだマシだったんだろう。男たちに対しても、僕の父親に対しても。


 僕の食事はパンとかコーンフレーク。下手をするとミルクさえなかった。父親は帰宅するのはいつも深夜だったから、気づくのが遅れた。でも、父に非はないと思う。都心から離れた場所に大きな一軒家を建て、都心まで通勤に毎日往復3時間を費やしていた。母のために、僕のために、父は稼いでいた。母はゆるされた環境の中で、ゲームに溺れていた。違う、ほんとうはゲームじゃない。ゲームで出会う男たちとの駆け引きに耽溺していたんだ。



 キスをする。彼のキスは丹念で、やさしくてねちっこい。

 僕は夢中になって関さんの背に腕を回す。

「アラタくんの、上あご、なんか触感がちがうよね」

 唇と唇がはなれて、呼吸を整える合間、関さんは僕に尋ねた。今まで何度も何度もキスをしていて、僕の口の中をたくさん暴いてきたくせに、たった今気づいた、みたいな感じで。でもたぶん彼はいちばん最初に深いくちづけをした時に察していたかもしれない。

「食感? 触感? どう違います?」

 あーん、と僕は口をおおきく開けて見せる。関さんは真面目な面持ちで、そっと右手の人差し指を、僕の口内に挿し入れる。そして上あごの一点に、指の腹で触れた。


「ここ」

 よく解るなあと僕は感心した。舌先で関さんの指をくすぐると「くすぐったいよ」と彼は言いながら手を引っ込めない。でも指をそのままくわえたらあざと過ぎるし、僕はフェラ顔を晒すことに抵抗はないけど、どうせくわえるなら関さんの指じゃないところがいい。そっと彼の手に手をそえると、関さんの指はすっとひいていく。好きですよ、そういう、察しがいいところ。

「子供の頃に、アイスを食べてて。スプーンをくわえたまま、PCの前でゲームしてる母親のところまで走って行ったら、邪魔だって振り払われて転んで、口蓋損傷」

 関さんの顔が陰った。怒ってるわけじゃなく、僕を憐れんでいるわけじゃなく、なんだろう、罪悪感をにじませたような表情だった。

「こう、上の顎がまさにスプーンですくったみたいにえぐれたの。すぐ救急車で運ばれて形成手術してもらったから、いまはほとんど違和感ないけど」

「何歳くらいのとき?」

「5歳だったから、記憶はちゃんとあるよ。なんか口の中にぶらんってぶらさがってて、母親がどうしようって泣きわめいてて、ちょうど母親とチャットしてた人が救急車を呼んでくれた」

「チャット……」

「僕の母親、ネトゲ廃人だったから。あー、こういう言い方よくないね。依存症? でもアルコールとかセックスとか薬物に依存するよりはマシだったのかなって思う」


 ──いい子だから、あっちでアイス食べてて。ママの邪魔しないでね。ママ、大事なおはなしをしているの。コンピューターを使って、お仕事してるの。


 たぶん母は、EXCELさえまともに使えなかったと思う。それでもキーボードの打ち方をおぼえ、ボイチャやらSNSまでこぎつけたのは、今になってみれば偉業だ。さびしかったのか、どんな欲求がそこまでさせたのか、僕にはわからない。いまだにわからない。母は女で、子供で、つまりは『母親』じゃなかったんだ、きっと。

 かわいい、かわいいメイちゃん。魔法でみんなを癒す、庇護されるべきお姫様。

 だからメイちゃんは『お母さん』である時間を忘れるために、ダンスパーティーに行ったんだ。そして出会ってしまった。彼女の『運命の王子様』に。


「あのさ……、アラタくんは、お母さんが憎い? ゲームが憎い?」

 僕はぽかんとしてしまった。関さんがそんなことを訊くと思わなかった。だって関さんの元奥さんもネトゲプレイヤーだし、関さんも2~3日おきに、数時間ずつは僕と同じゲームにインしている。もっとも戦闘とかしないで、僕とパーティを組んで生産や伐採をすることを関さんは好んでいる。

(元奥さんも同じゲームにいるけど。あのひとはまあどうでもいい)

「母親は……仕方ない人だったとは思うけど、死んじゃったし、継母はとても善い人で父親と僕と弟を大事にしてくれるし、僕はゲームは好きですよ。そうじゃなきゃ仕事にしないでしょ」

「うん、そうだよね」

 僕は関さんの書くゲームシナリオが好きだ。もちろん、今の巨大化したゲームコンテンツの中で、関さんが携わるのはいくつかのパートに限られる。でも僕はゲームをしていて、そこに匂う関さんの気配をかぎ取ることができる。ただのテキスト、ただのコンピュータグラフィック。でもモブの村人ひとりの台詞ひとつでも関さんの手によるものだと察してしまう。関信者だとか社内で言われるのはそのせいだ。

 まさかその関さんと付き合っているとは、思われていないだろうけど。


「そうか、亡くなったのか、メイさんは」

 関さんがぽつりと呟いた。僕はうなずく。

「死んだよ、とうの昔に。ネトゲで知り合った男と不倫して捨てられて」

「アラタくんは、僕のことを覚えてる?」

 僕はもう一度うなずいた。若い女の声が、PCのスピーカーから呼びかけてくる、遠い記憶。

 ──だいじょうぶ!? いま、いま救急車を呼ぶから、だから泣かないで。

 激痛の中、泣きわめく母親を無視して、僕は答えた。住所を覚えたばかりだった。すらすらと答えた。ちぎれた顎の部分が痛くて、血の味が口の中にあふれて、でも自分を助けてくれるのはこのひとしかいないと確信していた。父親は遅くまで帰ってこない。母親は頼りにならない。僕は知っていた。


「うん……関さんのおかげで僕は治ったんだよ」

「メイちゃんは助けられなかった」

「無理でしょ」

 僕は笑う。母親似のこの顔が、異性にも同性にも効果的なことを、僕はよくよく理解して、ふるまいを覚えた。だから、関さんにだけだ。こんな顔を見せるのは。

「無理だよ。夫にも子供にもどうにもなんなかった『メイちゃん』だよ」

 僕の母親が死んだのは、僕が5歳になってすぐの頃だった。

 ネトゲで知り合った男と不倫して、心中未遂でひとりで死んだ。相手は大学生の男で、母親と毎日のようにゲームの中でセックスしていて、それでは足りずに現実でもやった。母親は現実でもゲームでも彼に依存し、相手の男は当然のようにびびったし逃げた。


「関さん、キスして」

「いいよ」

 体を寄せて顔を傾ける。僕は彼がいとおしげに上口蓋をなぶるのに身を任せた。

 ──ほんとに、治ってよかったよね、だって、こんなに気持ちがいい。

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