第72話 彼女の願うこと②

 美也子が目を覚ますと自室のベッドに寝ていた。開けられたままの西側の窓からは日が差し込んでいることから、夕方であることがわかる。


 いったいいつの間に寝ていたのだろうか。



 美也子は上半身を起こしながら自分の記憶を探る。昨日祭りで出会ったビクニが家に泊まって、翌朝一緒に朝食を摂ったところまでは覚えている。


 けれど、それ以降はまったく記憶にない。


 ビクニはどこへ行ったというのか。


 それとも夢で、あの少女とは実際に会っていたわけではなかったのだろうか。


 疑問に思っていると部屋のドアがノックされた。


 母だろうかと美也子が返事をふるとドアがゆっくりと開く。


 母ではなかった。


「美也子。大丈夫?」


 ドアの隙間から心配そうに顔を出したのはビクニだった。


 ゆめではなかった。


 たしかにビクニという少女は存在していたのだ。そのことで美也子はほっとする。


 なぜだろう。


 ビクニとは昨日あったばかりだというのに、まるで昔からの友人のような気がしてくる。そんなことはじめてだった。


 これが友だちというものなのだろうか。


 美也子にはその感覚がよくわからない。たしかに友だちはいる。切磋琢磨する自分の所属するアイドルグループの仲間たちもいる。けれど、どれもが上部だけの付き合いだったように思え、昨日あったばかりの少女がなによりも親密な関係だったように感じたのだ。


「入っていい?」


 美也子がうなずくとビクニは躊躇しながら中へと入っていく。そのようすは今朝の彼女とは別人のようであった。


 ビクニは美也子のそばまでくるとそばにあった丸椅子に座りこむ。ふうっと深呼吸をすると美也子をまっすぐに見た。


「美也子、お願いがあるの」


「お願い?」


「うん。美也子。女優になって」


「はい?」


 突然の申し出に美也子は目をぱちくりさせた。


 いったい彼女はなにをいいだすのか。美也子は彼女の意図がまったく見えずに怪訝な顔をする。


「だから、私の中の夢をあなたに託したいのよ」


「え?」


「だって、わたしは女優になれないもん」


「なれん?」


「そうだよ。わたしはもうすぐいなくなるの。だから、女優になれない」


「いなくなるって? どがんしたと?」


 さっきまで明るく話をしていたビクニは突如黙り混んでしまった。口を閉ざしたまま、美也子をじっと見つめる。その瞳は悔しさがにじんでいるように思えた。


 女優になることが夢だといっていたのはつい昨日のことだった。けれど、夜が明ければ女優になれないのだという。


 どうしてそんなことをいうのだろうか。



 確かに女優になることは容易ではない。


 なれたとしても売れるとは限らないし、テレビで見るような華やかな世界とはいえないことは東京でアイドルをしてきた美也子には痛いほどわかる。


 まるで左遷されるように地元のローカルアイドルをやっている。それに対する不満はあった。ぜったいに東京に舞い戻るんだという気持ちだけで活動してきたのだ。


 でも、厳しい世界だからあきらめた。


 彼女にはそんな雰囲気はない。いまでもその夢を諦めていないことはわかる。それでも女優になれないという。


 並々ならぬことが彼女のなかであったにちがいない。


「お願い。あなたに私の夢をたくさせて」


 ビクニは両手をあわせて懇願する。


 美也子はしばらくビクニを見つめていた。


 突然の申し出。それなのに、美也子はなぜ自分がかわりに女優にならなきゃいけないのという思いは抱かなかった。


「わかった」


 思わずそう応えてしまった。


 すると彼女の表情がパッと明るくなる。


「ありがとう! 私の分までトップ女優になってね!」


 そういってビクニは美也子に握手をする。


「ぜったいだよ!ぜったいにね」


 ビクニの手が徐々に冷たくなっていく。


 その冷たさはまるで水に手をつけているようだった。そして潮の香り。


 美也子はビクニの手から顔のほうへと視線を向ける。するとビクニの体からシャボン玉が現れるのがみえた。ひとつだったのがふたつ、みっつ。


 やがて無数のシャボン玉が勢いよく噴出されていく。


 美也子は思わずビクニの手を放す。


 シャボン玉がビクニの笑顔をかき消していく。


「バイバイ。美也子。ありがとう。約束だよ」


 そういってビクニはシャボン玉の中へと消えていった。








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