40. Epilogue 〜見守る者〜(ロイ)

 ふと風が吹いたような気がして、彼は不意に目を覚ました。身を起こそうとして、胸を貫く痛みに呻いて倒れ込む。呼吸が止まるほどの痛みに、だが自分が生きていることを知る。


「無理をしてはいけないよ。生きているのが奇跡だ。わかっているとは思うけれど」


 静かな声に、今度はゆっくりと目を開き、視線を向けると穏やかな薔薇色の一対が彼を見下ろしていた。

「……アストリッド。なぜ俺は生きてる?」

「あの子がそう望んだから」

 少し困ったようにそう言う表情は、それまで見たことがないほどに穏やかだった。ようやく何かのくびきから逃れられたかのように。

「そうだよ。君と彼女のおかげでね」

「……俺は何もしてない——できなかった。むしろあんたに呪いを背負わせた」

 ゆっくりと身を起こした彼の背に、アストリッドがクッションを添える。同時に背から暖かい力が流れ込んで、胸の痛みが引いていった。驚いて目を見開いた彼に、アストリッドは悪戯っぽく笑う。

「全ての呪いは破棄された。私の身にかけられていたそれも、頃合いだと言って取り上げられてしまったよ」

「イーヴァル、だったか。あいつは一体何者なんだ?」

「君なら予想はついているんじゃないかい? まあ今度会ったときにでも自分で訊いてみるといいよ」

 そう言って彼の頬に触れてきた手の内側に、かつて刻まれていた黒い鱗のような文様が確かに消えていることを確認する。ひどく柔らかなその表情で、彼はに気づいた。

「……長い付き合いなのか?」

「まあ、互いに歳を数えるのを諦めるくらいにはね」

「ずいぶんと、気の長い男だな」

「どうも、そうらしい。こっぴどく叱られたけどね」

 そう言いながらも、その顔は嬉しそうだった。このまま聞いていたら惚気のろけを聞かされることになるだろうと気づいて、それよりは気になっていた問いを投げかける。

「ディルの呪いは?」

「それも、本人に聞いてごらん」

 くるりと背を向けたその視線の先を追えば、ディルが立っていた。どこか所在なげな、困惑しているような表情で。アストリッドはその空気を読んでいるのかいないのか、じゃあごゆっくり、とそれだけ言って、さっさと部屋を出ていってしまった。


 しばらくの沈黙の後、ディルはゆっくりと近づいてきて、寝台の端に腰を下ろした。じっとこちらを見つめるその瞳が、淡い水色であることに気づく。

「その瞳……」

「うん、戻ったみたい」

 分化と共に失われたはずの空を映す瞳。けれど、その体は女性のままだ。

「これが、本来の力なんだって。よくわからないけど、まあでもほとんど使い果たしてしまったから、残っているのは色の変わる瞳だけ。あの頃と変わらないよ」

「そう……なのか?」

「うん。まあ別に魔力なんかなくても生きていけるしね」

「それは、そうだな」

 それ以上、何を言っていいかわからず口をつぐんだ彼の頬に、白い手が伸びてくる。両手で顔を包むようにそっと引き寄せられて、間近に瞳を覗き込まれた。

「気づいてる、ロイ?」

「何が?」

「あなたの瞳の色、青になってる」


 部屋の壁にかけられた鏡に目を向けると、確かにそれは、懐かしい色をしていた。


「ああ、戻ったのか」

「戻った?」

「言っただろう。かつて、先見視さきみの力を増強するために、さまざまな術や薬を試した。最後に試した『紫闇しあんの薬』と呼ばれる劇薬で、俺の瞳は青から青紫に変わった」

「そういえば、あの時……」

「魔力を増幅させる効能があるが、多用すれば、瞳が紫に変わる。同時に心臓が止まって息絶える。あの時、アストリッドの術から逃れるために、俺は紫闇の薬を使った。だから、いずれにしても俺はあの時死ぬはずだった。あんたが気に病む必要はない」

 そう言った瞬間、だが、ディルの顔がくしゃりと歪んだ。不意にその瞳に涙が盛り上がり、拳が胸に叩きつけられる。傷を治してもらっていてよかったな、と頭のどこかでそんな考えがよぎったが、すぐに首に縋り付くように抱きつかれて、それどころではなくなった。

「ロイの馬鹿‼︎ 気に病まないわけないじゃないか!」

「お、おい、ディル……⁉︎」

 目に涙をいっぱいにためて、首に息がかかるほど顔を近づけながら、ディルは涙声で続ける。

「あなたもアストリッドも勝手すぎる! 私がどんな思いでいたか……! 私はあなたを選べなかったけど、でも……私にとってあなたも大切なのに」


 その言葉に、どれほどにディルが悩んできたかを知る。彼の想いが決して一方的なものではなかったことを。


 縋り付く身を少し離して、流れる涙を手のひらで拭ってやる。分化前よりも少し丸みを帯びた頬に、柔らかな身体。こうして、間近に触れるのは、あの混乱の中の抱擁を別とすれば、ほとんど初めてだった。その身をかき抱いて、自分のものにしてしまえたらいいのに、という欲望は確かにくすぶってはいたけれど。

「そんな顔で泣くなよ。諦めきれなくなっちまう」

 あえてそう告げれば、ぎゅっと眉根が寄せられる。困らせたいわけではなかったが、愛しいと思う気持ちだけは止められなかった。きっと、初めて会った、あの日から。

 ゆっくりと顔を近づける。そうして、涙の流れるまなじりに口づけた。瞼が震えて、じっとこちらを見つめる間にも、また雫が溢れる。それがとても美しく見えて、抱きしめたい衝動を、なんとか堪えた。


「悪かった。だが、なんとしてもあんたを救いたかった。アストリッドのためにもな」

 そう告げると、不思議そうにその目が瞬いた。

「あの時、言っていたことは本当なの? ディルってこの名前をあの人がつけたって……」

「ああ、間違いない。あいつはあんたを院長に手渡してた。ディルの花を添えてな」


 紫闇の薬の副作用で視えた二人の過去。アストリッドはきっと自分でも気づいていなかっただろうが、生まれたばかりの赤ん坊ディルを愛さずにはいられなかった。


「なら、どうして……」

「精霊がどんな風に生まれるか、知っているか?」

「え……?」

「アストリッドは古い森の精霊だ。彼らは森から生まれ、人の形をとると一人で生きていく。その点では、人とはまったく異なる生き物なんだ」

「……子供の育て方を知らなかった?」

「だろうな」

「だから、狭間の世界の『祈りの家』に預けた?」

「恐らくは」


 彼女が言ったように、ただ苛酷な環境に置いて運命の相手を待たせるだけなら、閉じ込めておけばよかったのだ。それこそ塔に囚われた姫君のように。だが、そうはしなかった。かけられた孤独の術も、おそらくは不器用なアストリッドなりに、美しい子供を守るためのものだったのだろう。あまりに不器用にすぎることは否めないが。


「……でも、私は辛かった」

「ああ。だから、あんたは怒っていいんだよ」

「そう……なのかな?」

「ああ、今度こそ殴るなり蹴るなり、盛大な親子喧嘩をすればいい」


 今までできなかった分を取り戻すように。そう笑って言ってみたが、ディルは難しい顔のままだ。ずっと孤独に苛まれてきた彼女にとっては、そう簡単に割り切れるものでもないのだろう。いずれにしても、彼女には、もう運命の伴侶がいる。

 静かに滑り込んできたその影に気づいて、触れていた手を離す。あっという間に風に攫われるようにディルの姿が離れ、黒いその男の腕に包まれる。じっとこちらを見つめる金の双眸は、強く迷いがなかった。


 あの時、もう二、三発殴っておけばよかったか、とふと思い返す。ついでに、泣きじゃくるディルを手に入れてしまえばよかったのかもしれない、とも。


 そんな彼の内心を見透かすように、アルヴィードはもう一度強くディルを抱きしめ、こちらを睨み据える。もっと余裕のある男だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。思わず苦笑した彼に、ディルが不思議そうな視線を向けてくる。

「何?」

「いいや、別に」

「……ロイ、あの……」

「末長くお幸せに、な。子供が産まれたら、名付け親になってやるから呼んでくれ」

「余計な世話だ」

 それだけ低く言うと、アルヴィードはディルの背を押して部屋を出ていく。

「えっ、ちょっとアルヴィード、待って……」

「いいから来い! お前は無防備すぎるんだ!」

 遠ざかる声に、苦笑が漏れる。そんなに警戒しなくても、と思う反面、確かにまだ燻る想いを自覚して。


「相変わらずお人好しね」


 息を吐く暇もなく聞こえてきた艶やかな声に、彼はげんなりとした顔をする。視線を向けることさえ面倒で、寝台に横になると掛布をかぶって背を向けた。


「あら、つれないわね。せっかくこうしてお見舞いに来てあげたのに」

「からかいにきた、の間違いだろう?」

「あら、お見通し?」

「さっさと帰れ」

「ひどい言い草。そんなことだから、振られてしまうのよ?」


 余計なお世話だ、と毒づこうとしたその時、美しい手が伸びてきて、彼の頭をまるで子供にするようにくしゃりと撫でた。驚いて目を向けると、艶やかな赤い唇はいつもと変わらないのに、その女には似合わない、ひどく優しく温かい笑みが浮かんでいた。


「貧乏くじばかりだけれど、あの人と、あの子を救ってくれてありがとう」


 どうやら、それが本心から出た言葉らしいと知って、ロイは目を丸くする。それから一つため息をついた。恐らくは、彼女もずっとこのややこしい運命を見守っていたのだろう。


「貧乏くじは、一言余計だ」


 心底嫌そうにそう言った彼に、いつになく屈託のない楽しげな魔女の笑い声を聞きながら、彼は、もう一つ深い深いため息をついたのだった。

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