39. 願い

 黒みがかった刃は魔法でもかかっているのか、何の抵抗もなくロイの胸に沈み込んだ。じわり、とその服の上に暗い染みが広がっていく。自分のしたことが信じられず、反射的に柄を引き抜こうとしたディルの手を、強い手が押さえた。


「だめだ。抜けば即死する」

 ディルの手を留めたのは、アルヴィードだった。その顔にも驚愕と苦悩の色がある。

「ロイ、君は何てことを……!」

 悲鳴のような声に目を向ければ、アストリッドが先ほどまでの静けさが嘘のように、取り乱した様子で駆け寄ってきていた。

「これは全て私のとがだ! 私があの子の刃を受け止めれば全てが終わるはずだった。これが最善だと……!」

「馬鹿言ってんじゃねえ!」

 突然の怒号に、びくりとアストリッドが全身を震わせた。ディルもただ、呆然としたままその顔を見つめる。ロイの厳しい表情は、だがすぐに苦悶くもんの表情に変わる。それでも歯を食いしばり、顔を上げた。ディルの肩越しに、睨みつけるようなその視線の先にあったのは、近づいてくる狩人たちの姿だった。

 ロイは、苦しげな息の下から手を伸ばし、ディルの頬を引き寄せる。

「あんたの心に傷を残したいわけじゃない。だが、他に手段がない」

 間近に迫った瞳は、深い紫色をしていた。

「ロイ、その瞳……」

 何が起こっているのかと問いかける間も無く、ぐいと後頭部を引き寄せられた。漏れる息は荒い。いつも通りの笑みを浮かべているが、そうでないことは明らかで、ディルはかけるべき言葉を見つけられなかった。そんな彼女の内心を知っているからだろう。間近に紫の瞳が迫り、ひどく優しく笑う。


「真実の愛はどんな呪いも解く。だが、俺の一方的な愛じゃ足りないだろう。だから、あんたの力を借りるぞ。代償は——俺の命だ」


 そのまま重ねられた唇は、血の味がした。触れられたところから、何かが引き出される感覚。同時に、ロイの体から流れ出る血が淡く輝く。それが何を意味するかに気づいて、とっさに離れようとしたが、逆に強く抱きすくめられ、握っていた柄がさらに深く沈み込む。


 嫌だ、とそう叫びたいのに身動きが取れない。繰り返される口づけは優しく、それでも容赦無くディルの力を引き出し貪っていく。ロイ自身の血を——命を糧として。


 背後で何かがいくつも砕ける音がした。驚愕と苦悶の叫びがこだまし、やがて、何も聞こえなくなった頃、ようやく解放されてずるりとその体が後ろに倒れ込んだ。支えたのは、アストリッドだった。

 振り返ると、無数に湧いて出てきていた狩人の姿はどこにもなかった。代わりにいくつもの白く輝く結晶があちこちに転がっている。視線を戻すと、ロイは半身を起こして口元を拭いながら、不思議なほど穏やかに笑っていた。

「ロイ……?」

「全ての狩人は……地にかえった。後は、仕上げだ」

 そう呟くと、苦しげに息を吐きながらも何かの音の連なりを呟く。同時に、洞窟全体の空気がざわりと騒いだ。それを見て、アストリッドがまた悲鳴のような声を上げる。

「ロイ、やめるんだ! 今ならまだ間に合う。それは私の役目だ。私が彼女の手にかかって死ねば、全てのごうが私に還る。そうすれば彼女にかけられた呪いも全て破棄される。それで済む話なんだ!」

「だから……馬鹿言ってんじゃねえよ! どこの……世界に、娘に自分を殺させる親がいる……ってんだ」

「私は親じゃない。ただ産んだだけだ。私は彼女を愛していないし、彼女も私を愛していない。そうすることに互いになんの躊躇ためらいもない」

 あまりに身勝手な言い分に口を挟もうとした時、ロイが苦しげな息の下から、それでもひどく静かな声で呟いた。

 その声に、アストリッドが言葉を失ったように口をつぐむ。

「……ロイ?」

 呼ばれたのかと問いかけたが、ロイの視線はまっすぐにアストリッドに向けられていた。

「あんたの……城の庭に、蒔羅ディルが……群生していた。ディルは、名付け親は……祈りの家の院長だと……言っていたが、違うだろう? あんたが蒔羅ディルの花を添えて……院長に手渡したんだ」

 途切れ途切れに語るロイの顔はほとんど蒼白に近い。流れ出ていく血と共に、さらに洞窟内の空気がざわめき、何かがほころびていく。

「ロイ、そんな話はいいから、早く手当を……」

「よくねえよ。あんたは……誤解してる。こいつは……アストリッドは、底抜けの大馬鹿だ。だが……こいつに、こんな馬鹿なことをさせたのは……俺だ」

「ロイ、早くその術の主体を私に寄越すんだ! いずれにしても君の魔力ちからだけでは足りない!」

 焦燥を浮かべた顔で、ロイの肩を握りしめるアストリッドに、だがロイは静かに首を振る。それは、何かの覚悟を決めている顔だった。そうして、言葉を継ぐ。

「あんたを歪め……狂わせたのは……盟約によって命を奪われた者たちの……叫びだ」


 呪いを受けて命を落とすものたちのその怨嗟えんさや苦悶の声。それは、死の瞬間にアストリッドへと届いた。術として還って彼女を傷つけることはなかったが、その声は少しずつ彼女の正気を失わせていく。

 盟約の鍵であり、大きな力を持つ彼女は、狂うことも死ぬことも許されなかった。その代わりに、心を封じた。

 それゆえにアストリッドは自身さえ、黒狼の血を継がせるという約束を果たすための、ただの道具としてしか考えていなかった。だが、生まれた赤子を見て、少しずつ心を取り戻していった。

 やがて、ディルが呪いをその身に受けたことで、アストリッドは己の過ちを決定的に悟り、ここで自身を月水晶に封じて、ずっと呪いの伝播を防いでいた。だが、その封印が解けた今、行き場を失った呪いは彼女に還るはずだと。それゆえに、彼女の力はもうほとんど残されていない。ディルにかけられた呪いを、自分の意志では解くこともできぬほどに。


 だから、彼女は全てのごうを受け止めることでそれを解こうとした。ディル自身に呪いを返すことを。発動してしまった呪いをなかったことにすることはできなくとも、それを自身に移し替え、滅びることで全てを終わらせる。


「そんな……! だってあなたは……」

「それしか……こいつは選べなかった。だが、そんなことは……間違ってる。だから、たとえ、俺の全てを賭けても、を救ってみせる」


 苦しげに顔を歪めながらも、強い眼差しでそう言い切ったロイに、どうしてか、アストリッドも笑った。何かを諦めたかのように。

 そして、ロイの胸に突き立てられた短剣にそっと手を置いた。その手から、淡い光が流れ出す。

「君だけに、それを負わせることはできない。私一人では無理でも、君のその決意にこの力と命をのせよう。それで、足りるはずだ」

 切なく笑ったその顔を見て、ロイも苦く笑った。ふわりとその身からさらに強い光が立ち上る。ディル自身の水——血を操る禁呪を使って、自分の持てる全ての力を注ぎ込んで世界にかけられた呪いと、ディルにかけられたそれを破棄するために。


 ディルには、流れ出る血と共に失われる命が見えた。このままではもういくばくも保たない。自分の咎だからと。彼女を救うために。

 だが、ロイは世界を、故郷を守りたかっただけだ。そして、アストリッドは、その願いを叶えたかっただけ。


「嫌だ」

 拳を握りしめて、流れ出す力を引き止める。

「ディル……?」

「こんなことは間違ってる。嫌だ、絶対に認めない」


 自分を愛しているという二人が、自分のために命を落とすなど、絶対許せない。


「——ならば、お前の望みはなんだ?」


 静かな声が問いかける。見上げた先には、夜そのもののような深い藍色の瞳があった。ディルの腕を掴んで立ち上がらせると、まっすぐに見つめてくる。

「俺はこの世界にかけられた呪いの立会人だ。お前が望むなら、書き換えに手を貸してやる。お前には、それだけの力がある」

「書き換え……?」

「時間がない。答えろ、ディル。お前の望みはなんだ? 何をもってあいつらのこの残酷だが切実な呪いねがいを上書きする?」


 世界を守りたいという切実な彼らの願い。盟約が失われれば、また同じことが繰り返されるかもしれない。


 ためらうディルの耳に低い声が届いた。

「迷うな」

 歩み寄ってきたもう見慣れたその姿。見上げた顔はただ力強く、その金の双眸はこちらの背筋が震えるほどに鋭い光を浮かべている。

「どんな願いも、俺からすれば、お前の命を犠牲にするほどのものじゃない」

「アルヴィード……」

「世界が平和であっても、お前がいなければ意味がない。かつて俺が全てを失って、生きる意味を失ったように」

 ひどく自己中心的なその想いは、だからこそ、とても単純シンプルで強い。

「定まったか?」

 藍色の瞳が、その独善的な言い草に呆れたように、それでもどこか温かく笑う。だから、ディルも決意する。彼女の大切なものを守るために。


「私を愛し、私が愛する人たちが、共に幸せに生きること。私がそう願うように、誰にもその機会が等しく与えられるように」


「……それだけか?」

 拍子抜けしたように問いかけるイーヴァルに、ディルは静かに頷く。

「子供の頃、ずっと『ここではないどこか』へ行きたいと思ってた。でも、どこかなんて存在しない、って今ならわかるから」


 必要なのは、運命を切り開く意志と力。それを教えてくれたのは、自分を抱くこの温かい腕と、金の眼差しだった。

 そして、振り返る。苦しげな表情ながらも、じっとディルを見つめる穏やかで優しい眼差しと、不思議そうにこちらを見つめる薔薇色の一対。


「あとは、それを後押ししてくれる、ほんの少しの幸運を」


 アルヴィードと離れて絶望していた彼女を救ってくれたのは、ロイの限りのない優しさだった。そうして、彼を彼女へと導いたのが、アストリッドだと今ならわかるから。


 イーヴァルはロイの血に濡れたディルの手を握った。そこから光が生まれた。そうして、ディルは自身の力を知る。


 世界の均衡を司る精霊アストリッドの子として生まれながら、最後の黒狼アルヴィードの運命の伴侶と定められたせいで、ずっと封じられていた力。水を操る力として顕現していたそれが、ほんの一端でしかなかったことを。


「空と共に色を変える瞳は、古い精霊の力の証。お前の母親はそれをもたなかったが、それはお前に受け継がれた。祝福の破棄と共に失われたそれを、今お前に還そう」


 不可思議な、けれど美しい何かの音の連なりを紡ぎながら、イーヴァルはディルの手を離し、アルヴィードの腕の中へといざなった。血に濡れていたはずの手は、その痕跡さえもない。

 大きな力がディルの中から流れ出し、ふわりと左腕が軽くなった。目を向ければ、巻きついていた蔦のような文様が淡く解けて宙へと消えていく。同時に洞窟の壁面を包む青い結晶の光が強くなり、あたりを青く染め上げる。

 曖昧になっていく視界の中で、ただ強く自分を抱きしめる腕と、金の双眸だけがはっきりとその存在を示す。


「これって、世界の終わり?」

「まさか」


 ——始まりに決まっている。


 ひどく優しく笑って、温かい手が頬に触れ、唇が重ねられる。その瞬間、世界は真っ白に包まれた。

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