41. Extra - もう一つのエピローグ(ルドウィグ)
ふと、なんだか空気が変わった気がして、彼は空を見上げた。秋が近づく空は高く澄んで雲ひとつない。その青さは、かつて見た瞳を思い出させて不意に胸が締めつけられた。
もっと、他のやり方があったのだ、と気づいた時にはもう遅かった。悪友たちにけしかけられ、戯れに放った彼の銃火器はその相手を決定的に傷つけ、以来、彼に向けられていたわずかな感情は、冷たい無関心に変わった。悪意や憎しみですらなく、もはやいないものとみなすとばかりの。
もう一度その視線を捉えたくて、ありとあらゆる手段を試したが、全てが裏目に出ただけだった。そうして、その表情は頑なになるばかりだった。
どうしてもっと早く、素直に手を差し伸べられなかったのだろう。ずっと助けを求めていたことを知っていたのに。やがて、逡巡するばかりの彼の代わりにあの男が救い出し、そして二人は共に消えた。
「お兄ちゃん、何してるの?」
「あ、ああ、別に。食事はもう終わったのか?」
「終わったよ。ルド兄ちゃんの料理やっぱり美味しいね」
「そうか?」
「みんな言ってるよ。兄ちゃんが来てくれるようになってから、ご飯も美味しいし、そのせいかみんな優しくなって、けんかも減ったし、小さい子たちもよく笑うようになったって」
まっすぐな笑顔が眩しい。自分は本当はそんな善人ではないのだと、わけもなく叫びたくなる。そんなことをしても意味がないのだとわかっていたから、何とか笑顔を作って、ただその子供の頭をくしゃくしゃと撫でた。せめても、彼にできるのはそれくらいだったから。
「じゃあ、外で遊ぶか」
「いいの?」
「今日は仕事もないからな。みんなに声かけておいで」
「わーい! ルド兄ちゃん大好き!」
そう言って、彼に抱きついた後、家の中へと駆け込んでいく。その姿を眺めていると、不意に後ろから声をかけられた。
「……ルドウィグ?」
柔らかいその声に、雷にでも打たれたかのように背筋が震えた。振り向くと、一つの人影がそこにあった。流れるような銀の髪は、記憶にあるのと変わらない。そして、驚いたように見開かれた、空の色を映す瞳も。
けれど、胸元には服の上からでもはっきりとわかる柔らかな膨らみがあり、肩も柔らかな線を描いている。性別の曖昧だったその姿は、今は明らかに美しい女性に見えた。
「ディル、なのか……?」
「こんなところで何をしているんだ?」
「それは僕の台詞だよ! 三年以上も行方が知れなくて……どこ行ってたんだよ!?」
「どこって……別に」
「あの男と一緒に消えてからずっと姿が見えなかったから、何かあったのかと。森で死体が見つかったし……」
そのことに触れるべきではなかった、と思った時には遅かった。ディルの表情がまた氷のような無表情に変わってしまう。だから慌てて小声で付け足した。
「もう三年も前の話だし、強盗仲間が別件で捕まったから、誰もお前のことなんて気にしてないよ」
「本当に?」
「ああ。だいたいお前みたいな非力な子供が関わってるなんて、誰も思いもしないよ」
「……あなたの友人たちは?」
含みのある響きに、思わず唇を噛む。けれど、彼は顔を上げて言葉を続けた。
「あいつらはこの街を出て行ったよ。いろいろ問題を起こして……」
歯切れの悪い彼の言葉に、それでも何かを感じたのか、ディルが彼の顔を覗き込んでくる。
「あなたが追い出した?」
「……間接的には」
「どうして?」
問いかけてくる眼差しは、ほんのわずか和らいだように見えた。
「立ち話も何だから、中で話さないか? 部屋の中が嫌なら、庭でもいいから。お茶くらい出すよ」
「あなたが?」
「ああ」
頷いた彼に、ディルは不思議そうに首を傾げた。そんな様子はとても愛らしく見えて、思わず心臓がどきりと跳ねる。三年前はもっと幼い様子で、それでも十分に美しかったのに、はっきりと女性らしくなった今は、おそらくは誰もが振り返るほどの美貌だ。
「ルドウィグ?」
怪訝そうに名を呼ばれ、我に返った。頭を一つ振って、それから、入り口へと案内する。ディルはほんのわずかためらうようだったが、それでもゆっくりと後について歩き出した。
祈りの家の中を見て、ディルは驚いたように息を吐いた。
「ずいぶん……変わったね」
「そうか?」
「前は、こんなに暖かい感じじゃなかった」
その視線の先には、窓辺に飾られた花があった。それから柔らかな色調のカーテンや、壁に飾られた子供たちの絵。
「ああ、あんまり殺風景だったから」
「あなたが……?」
「まあね」
そう答えた彼に、ディルは心底不思議そうに彼の顔をまじまじと見つめる。あまりにまっすぐで、美しいその眼差しに耐えかねて、彼は庭へと早足で突き抜けると、その隅に作られた
「少し待っててくれ。何か持ってくる」
「別にいいよ」
「いいから、座ってろよ」
言い置いて、台所でいそいそと茶器に茶葉と湯を注ぎ、棚からいくつかの菓子を取り出す。その様子を周りの子供たちが興味津々に眺めてくる。
「兄ちゃん、あの人誰?」
「お兄ちゃんの恋人?」
「ち、違っ……!」
真っ赤になった彼に、子供たちはそれでも楽しげに囃し立ててくる。
「頼む、あいつはそういうこと言われるの好きじゃないんだ」
言いながらも、もしかしたら単に冷たく無視されるだけかも知れない、と暗澹たる気分になって思わず肩を落とした彼に、子供たちも何かを感じたのか、その手や背をそっと叩いた。
「頑張れよ、ルド兄ちゃん。俺たちは応援してるからさ!」
無駄に励まされ、彼は茶器と菓子を持って庭へと戻った。
四阿の椅子に座って庭を眺めるその姿は、背が伸び、さらに美しくなっていたけれど、それでもその静謐な雰囲気は以前とあまり変わらないように見えた。
「お待たせ」
「別に待ってないよ」
その言い草があの頃を思い起こさせて、思わず吹き出す。
「変わらないな」
カップに茶を注いで差し出すと、少しためらってから受け取って口をつける。それから少し驚いたように目を見開いた。
「美味しい」
「香草茶だ。
いなくなったその相手を想って作ったそれを共に飲む日がくるなんて。
「どうして、ここに?」
まっすぐな瞳は、ただ純粋に不思議がっているように見えた。
「子供たちにもずいぶん好かれているようだし」
空を映す瞳はあまりに美しく、逃げ腰になる彼を許さない。ため息をひとつついて、覚悟を決める。
「居心地よくなっていれば、戻ってきてくれるかも、って」
「……私が?」
「馬鹿だよな。『祈りの家』は十五歳を過ぎれば出て行かなきゃいけない。だから、ここを出て行ったお前が戻ってくるはずなんてないのに。でも、この家にはお前の私物が残されてた。だから、お前は自分で望んでここを去ったわけじゃないんじゃないかって。それなら、いつか戻ってくるんじゃないかって」
あの森で、男の死体を最初に見つけたのは、彼だった。心臓を撃ち抜かれたその姿を見た時には息が止まるかと思った。その横に落ちていた銃も見覚えがある物だったから。とっさにその銃を隠し、それから周囲にディルやあの男の姿がないことを確認すると、うちへと逃げ帰った。
それからほとぼりが冷めた頃に、銃を森の中の泉に捨てた。ディルの行方は杳として知れなかったが、「祈りの家」の誰もが探そうとさえしていなかった。そのことに苛立ちを感じて、だがふと気がつけば、その家の中では誰もが暗い顔をしていた。
大人たちは誰も、本当の意味では子供たちに関心を抱かず、ただ義務として最低限の世話をするだけだった。それで、ようやく彼はディルのあの暗い瞳の理由をも知ったのだった。
「それで、まあ何となく、少しでもこの家のみんなが幸せになれば、お前が戻ってきた時にも、ちょっとはましなんじゃないかって」
そう言った彼に、ディルは驚いたように目を見開いて、それから、とても綺麗に笑った。あまりに美しいその笑みに、彼の心臓が不規則な鼓動を打つ。
「あなたは凄いね」
「な、何がだよ?」
「こんな風に、何かを変えていけるなんて」
「た、大したことはしてないよ。食事を手伝ったり、ちょっと遊んでやったり、それくらいで」
「それが、どれだけ大切なことか、あなたは知らないんだ」
自分を思い、気にかけてくれる人がいるということが、どれだけ幸せなことか。
「……お前には、いなかったから?」
「そうだね」
あっさりと頷くその言葉に、心臓がずきりと痛んだ。天涯孤独で、誰も手を差し伸べなかった。それどころか、何度も傷つけた。エイリークやラーシュたちが、彼女を傷つけようとした時、止めることもできずにただ見ているしかできなかった。
「今さら謝っても許されることじゃないとわかってるけど、あの時は、本当にすまなかった」
「もういいよ、昔のことだし」
その言葉に、嘘や気負いは見えなかった。この三年の間に、ディルにも大きな変化があったのだろうか。
「そういえば、お前、その……女になったのか?」
「うん」
頷くとさらりとその銀の髪が揺れる。そんな様も美しくて、思わず見惚れる。今なら、もう一度告げてもいいだろうか。
「あのさ、ディル」
「何?」
「その……これからどうするんだ?」
尋ねると、少し考え込むようにして、「祈りの家」の方を見つめた。その眼差しは複雑な色を浮かべている。自分を育ててくれた家ではあるが、決してそこは暖かな思い出がある場所ではないと、彼はもう知っていた。
「本当は、あなたがそうしているように、ここをもっとましな場所に変える手伝いをしようと思ってた。でも、もうあなたがやってくれているようだから」
「な、なら一緒にやろうよ。まだまだやりたいことはたくさんあるんだ。人手はいくらあっても足りないし!」
勢い込んでそう言った彼を、ディルは少し驚いたように見つめ、それからふわりと微笑んだ。
「そうなんだ。なら、それもいいね」
柔らかなその笑みに、心臓がばくばくと早鐘を打ち始める。椅子から立ち上がり、その横に立った。
「……ルドウィグ?」
「あのさ、ディル……。その、あの時はちゃんと言えなかったけど」
その白く美しい手を握ると、想像していた以上に柔らかく温かかった。
「僕は、ずっとお前の……君のことが」
だが、そう言いかけたとき、不意に黒い影が割って入り、ディルの姿が目の前から消えた。一瞬何が起きたのかわからず、後ろを振り向くと、大きな黒い影がディルを抱きしめていた。
黒い影に見えたのは、背の高い男の姿だった。彼よりも遥かに高く、その身体は鋼のように引き締まっている。やや伸びた髪の間から覗く金の双眸は、こちらを射抜くような光を浮かべている。
「アルヴィード? どうしたの?」
驚いたようなディルの問いかけに、だが男は口の端を上げて笑うと、その顔を引き寄せ、唇を重ねた。驚いて目を見開いている彼に見せつけるように、その体を強く抱きしめ、深く口づける。何度も、この上なく情熱的に。
しばらくして、ようやく解放されたディルの目元は朱に染まり、かつて見たことがないほどに艶めいて見えた。驚きながらも拒絶する風もないその様子で、それが初めてではなく、むしろ慣れたものだと明らかにわかってしまった。
「どうしたの、急に?」
「別に」
言いながらもその首筋に唇を這わせる。しばらくして離れたそこに、赤い痕が浮かんでいるのを見て、その意味に気づかないわけにはいかなかった。
——これは、俺のものだ。
こちらにちらりと向けられた金の眼差しは、はっきりとそう告げていた。
「お前こそこんなところで何をしてるんだ?」
「約束、したから」
「約束?」
「世界を、変えるって」
「それと、ここがどう関係があるんだ?」
まったく意味不明だとでも言いたげなその声に、ディルが呆れたように、それでも柔らかく笑う。
「私にとって、ここはあまり幸せな場所じゃなかった」
「もう、お前はここにいる必要がないだろう? 俺がいる」
「うん、私にはあなたがいる」
まっすぐに、その男を見つめるその眼差しは、愛しさと信頼に溢れている。ずきり、と彼の心臓が痛んだ。
「でも、ここにいる他の子供たちは、そうじゃないから」
「……それが、お前の願いか?」
「うん」
でも、と続ける。
「ルドウィグが、ずいぶんと変えてくれたみたいだから、もしかしたら、ここはもう大丈夫かも知れないけど」
「へぇ?」
彼に向けられる視線は、冷ややかだ。彼がかつてディルにしたことを思えば、当然のことなのだが。
「なるほど」
彼の内心などお見通しだと言うように、男は片眉を上げて笑う。その不穏な笑みに、背筋が凍るような気がした。
「アル、そうやって誰かれかまわず脅さないの」
「別に脅してねえよ」
アル、と呼ぶ声には明らかに親しげな響きが宿っていた。ため息をついた彼に、ディルが首を傾げる。
「どうかした?」
「何でもないよ」
それから、もう一度二人を見つめる。見覚えのある背の高いその男は、相変わらず不穏な気配を放ってはいるが、ディルを抱く腕は優しそうで、その眼差しも見ているこちらがうんざりするほどに甘い。
——彼の出る幕など、初めからなかったのだろう。
それでも、この場所が暖かいそれに変わっていたことに、彼女は心の底から喜んでくれたようだったから。
ほんのわずかでも、彼女の属する世界を変えることができたのなら、まあそれでいいか。
幸せそうに微笑むその横顔を眺めてそんなことを思いながら、彼は肩をすくめてもう一度、空を見上げたのだった。
ここではない、どこかへ 橘 紀里 @kiri_tachibana
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