36. 絡まる想い

 ロイについて歩き出そうとすると、くるぶしまで伸びた髪が足にまとわりついた。さすがに長すぎると感じて、ディルはロイの袖を引く。


「ロイ、短剣持ってる?」

「ああ。どうするんだ?」

 懐から鞘ごと取り出したそれを受け取って引き抜くと、髪を肩のあたりで左手でまとめて、短剣の刃を当てる。そのまま切ろうとしたが、慌てたようにロイがその手を掴んだ。

「何やってんだ、あんたは!?」

「何、って長すぎて邪魔だから切ろうとしただけだけど?」

 きょとんと尋ね返したディルに、降ってきたため息は二人分だった。ロイは彼女から短剣を取り上げると、そっとディルの髪に触れた。それから、いくつかの房にわけて、背の半ばより長いところだけ、ごく丁寧な手つきでゆっくりと切り落とす。

 綺麗に切り揃えられたところで、懐から柔らかそうな藍色の紐を取り出すと、首の辺りでゆるくまとめて結わえてくれた。それから、床に落ちた髪を拾い上げる。

 さらさらとその手の中で輝く髪に、ロイは見惚れるようにして、ほうと息を吐く。

「妖精の紡いだ銀糸みたいだな」

「高く売れたりするかな?」

「元々はあんたの一部だぞ、不用意に誰かに売ったりするなよ!?」

「そうなの?」


 ディル自身はそうしたことはなかったが、美しい色の髪を持つ娘が、それを金に替えるのは割とよくある話だったと思うのだけれど。そう言うと、ロイは何度目かのため息をつく。


「髪や爪、そういった体の一部は呪術に使われることがある。禁呪ほど大掛かりのものでなくともな。最もよくあるのは、魅了や催眠だ」

「魅了って……」

「自分の一部を触媒にした薬や呪術で相手が自分に好意を持つように仕向けたり、その逆もまた然りだな。あるいは特定の相手にだけ効く媚薬のようなものを作り出したりもできる」

「ロイもできるの?」

 あまり深く考えずにそう尋ねたのだが、ロイは大きく目を見開いて、それから心底嫌そうに顔を顰めた。

「俺は人形を抱く趣味はない」

 そう言って、小さく何か一連の言葉を呟くと、ロイの手の中にあった彼女の髪が白い炎を上げて燃え上がった。ゆらゆらと揺らめく火は幻想的で、不思議と熱を感じさせない。やがて、全てを焼き尽くすと、灰も残さず消え去った。


 その光景に見惚れていると、ふっと笑う気配がした。目を上げると、ロイが呆れたように、それでもひどく優しく笑っていた。

「あんたは……本当に、無自覚にも程があるな」

 人の気も知らないで、と小さく呟く声が聞こえて首を傾げる。

「どういう意味? ロイは薬師くすしなのに魔法が使えるんだね」

「初歩的なものならな。転移したり、火球で攻撃したり、みたいな派手なのは範疇外だ」

「そうなんだ」

「そろそろおしゃべりは後にして、行くぞ」

 軽くなった頭で頷いて、その後に続く。隣に並んだアルヴィードが何やら複雑な顔をしているのに気づいた。

「どうかした?」

「本当に、お人好しだな」

「余計なお世話だ」

 すかさず返ってきた声に、アルヴィードはただ肩を竦めただけでディルの背中を押して歩き出した。



 ロイの後について入った部屋では、イングリッドがにこやかにテーブルの上に何かを並べているところだった。ディルを見て、少し目を丸くする。

「あら、髪はもう切ってしまったの?」

「うん、ロイが切ってくれた」

「あら残念。何か作ってあげようと思っていたのに、もうないのよね?」

「……どうしてわかったの?」

 そう尋ねると、イングリッドはその緑の瞳を愉しげに煌めかせ、意味ありげにロイの方に視線を向ける。

「彼は、あなたをとても大切に想っているから」

「うるせえ、あんたの為人ひととなりをよく知ってるだけだ。悪用されてたまるか」

「悪用だなんて……ちょっと悪戯いたずらに使うくらいよ?」

「あんたの悪戯は、呪いと変わらねえだろうが」

 いつになく厳しい声でそう言ったロイに、イングリッドは少しだけ意外そうな顔をした。

「ロイ、あなた本当に……」

「それ以上何か言ったら、あんたでも許さねえ」

 険しい青紫の眼差しに、イングリッドは怯んだ様子もなく、それでも何かを考え込む様子だった。だが、すぐにいつも通りの妖しく美しい笑みをその唇に載せる。

「わかったわ。あなたにこれ以上、嫌われたくはないもの」

「現時点で嫌われている自覚はあるんだな」

 ふと緩んだ眼差しに、イングリッドはさらに艶やかな笑みを返す。

「私もも、愛が伝わりにくいみたいなの」

 ロイはただ肩を竦め、イングリッドもそれ以上は言わずに皆をテーブルに着くように促した。



 テーブルの上には、何種類かのパンと焼き菓子、チーズ、それからグラスに注いだ白い葡萄酒が並べられている。

「大したものは用意できなかったけれど、よかったら召し上がって?」

「ありがとう」

 素直に葡萄酒に口をつけると甘く優しい味わいだった。焼き菓子も、焼き立てなのか温かく甘さが体に沁み渡るようだった。

「美味しい」

「あなたにとっては久しぶりの食事だものね。たくさん食べてちょうだい」

「おい、わざわざそいつが駆け込んできたくらいだ。何か危急の事態が発生したんじゃなかったのか?」

 なおもにこやかに会話を続けようとしていたイングリッドに、自身もグラスに口をつけながら、アルヴィードが割って入った。その眼差しは鋭い。じっとイングリッドを見つめ、それからロイに視線を向ける。

「北で妙な動きがあると言ったな。呪いの根源が、とも。それはあいつ——アストリッドに関係のあることか?」

 聞き慣れない名前に、だが、ディル以外の全員の気配がどこか緊張したものに変わる。イングリッドはわずかに目を伏せ、視線を向けられたロイは、眉間を寄せている。ディルの視線を感じたのか、こちらを見つめると、その視線が襟元の辺りに向いたのがわかった。

 グラスを置いて立ち上がると、ディルの側に膝をつく。

「文様を、見せてもらってもいいか?」

 どこかが痛むような顔でそう言うロイに、ディルは頷いてから、合わせの紐を引き抜いて、上衣を脱ぎ捨てた。ロイがギョッとしたようにそれを拾い上げる。

「あんた、何やってんだ……!」

「何って、見せてっていうから。下着も着ているから別に平気でしょう?」

「そういう問題じゃねえよ……」

 露わになった肩を覆うように上衣をかけ、そこからかつての傷痕を確かめるようにゆっくりと腕の内側に触れていく。そこには何の痕跡も残っていなかった。ただ、絡みつく蔦のような文様がうねりながら、肩を越え、腕の付け根、さらには鎖骨のあたりまでを覆っている。

 ひとつひとつ、文様を確かめるようにその大きな手が触れるたびに少しくすぐったくて身をよじった彼女に、ロイが少しだけ表情を和らげた。

「こんな機会ときじゃなけりゃ、もっとしてやるんだが」

「……本気で言ってるの?」

「どう思う?」


 揶揄うような声のわりに、思いの外、強い眼差しにぶつかってディルは思わず口をつぐむ。想いを告げられたのは、そういえばつい先日のことだった。結局彼女はアルヴィードを選んでしまったけれど。


「あーもう、そんな顔するなよ。ほんの冗談だ」

 そう言って、その手が頬に伸ばされる。親指で滑るように頬を撫でるその手つきがひどく優しかったから、その言葉が嘘だとわかってしまった。

「ロイ、あの……」

「気分が悪いとか、目眩がするとかそういうことはないか?」

 ディルの言葉を遮るように、ロイは頬に触れていた手を離して立ち上がる。どうしてかその離れた手が切ない気がした。

「……ないよ。この文様、ロイが考えたの?」

「ああ」

「何だか、不思議な感じがする。痛くも痒くもないのに、これだけ広がってるなんて」

 もう少し、痛みなどがあれば、実感もできるのに。

「……苦痛を与えることが目的じゃないからな」

「そうなの?」

「どっちかっていうと、見せしめだ」

 盟約をたがえれば、「狩人」の鎌を逃れたとしても、死が必ず襲いくる。本人だけでなく、その周囲の者たちにも、それをはっきり知らしめるための。

「うわあ、悪趣味だね」

「……わかってる」

 率直なディルの言葉に、ロイは顔を顰めて俯いた。


 かつての大戦がどれほどに凄惨なものだったか、ディルは話に聞くしか知らない。だが、ロイがどんな性格かは、それなりにわかっているつもりだった。その彼をして、こんな呪いを考案させたのだから、よほどに酷い状況だったのだろう。二度と起こさせないためには手段を選んでいられないほどに。


「けれど、その『盟約』がほころび始めているようなの」

 どこか憂いを帯びた声に目を向ければ、イングリッドがじっと二人を見つめていた。視線で先を促すと、頬にその美しい指先を当てて、ディルの肩口から覗く文様に目を向けながら言葉を継ぐ。

「『盟約』は世界にかけられた呪いのようなもの。誰かが禁を犯せば、自動的にその死の文様が刻み込まれる。けれど、先日試してみたら、私の腕にその文様は浮かび上がらなかった」

「……試した?」

「少し、妙な気配を感じて、それで調べてみたの。あなたを最後に、それ以降、盟約を違えて呪いが発動した例はなかった。狩人も、それきり世界のどこにも現れていない。数は多くはないけれど、そこまで頻度が低いのは、どう考えても異常だわ」


 それで、試したのだと言う。


「……禁呪を?」

「ええ、自分の血を使って。けれど、何も起こらなかった」

 その腕に、黒い文様が浮かび上がることもなければ、狩人たちもやってこなかったという。

「そんな無茶な……! もし本当に奴らが現れたらどうするつもりだったんだ?」

 声を上げたアルヴィードに、だが、イングリッドはこともなげに微笑む。

「その程度には、確信があったということよ。でも、心配してくれてありがとう」

 それから、もう一度ロイとディルに視線を戻す。

「ロイ、あなたも心当たりがあるんじゃない?」

「……ディルが、禁呪を使っても奴らがやってこなかったのは、盟約を違えたものに対する罰が発動しなくなっていたから、か? だが、ディルが月晶石げっしょうせきに触れた時には狩人がやってきたぞ?」

「それはもう呪いがすでに刻み込まれているから。けれど、新たに呪いが発動することはない」

 その言葉に、ロイが何かに気づいたかのように目を見開く。それを見て、イングリッドは何かに傷ついたかのようにそっと目を伏せた。

「まさか……呪いの根源——アストリッド自身に何かが起きているのか?」

 呆然としたような声に、ただ話が読めないディルはロイの顔を見上げる。

「ロイ、どういうことなの? その、アストリッドという人と、この呪いにどんな関係があるの?」

 ディルの問いかけに、ロイは苦悩の表情を浮かべていた。


 そうして語った。かつて、彼が考案した「罰」を、アストリッドという強大な力を持つ精霊に願って世界に呪いとしてかけさせたのだと。彼自身の力では足りなかった世界の破壊を防ぐためのその願いを、彼女が代わりに受け継いで呪いに変えた。


「その呪いが、綻びている……」

「呪いは、ほとんどの場合、かけた本人が死ねば解ける。だがあいつは精霊で、寿命なんてないようなもののはずだ」

 視線を向けられたイングリッドは、目を伏せたまま答えない。

「イングリッド?」

「……答えは、あなた自身で確かめるしかないわ」

 そう言って、それからイングリッドはディルの方に歩み寄ると、そっとその頬を両手で包み込み、今は鮮やかな薔薇色の瞳を覗き込んだ。

「この色に、決めたのね」

「決めたっていうか、気がついたら変わってたよ?」

「これも、一つの証ね……。どうか、あまりあの人を怒らないであげてね?」

「どういうこと?」

「あの人は馬鹿だし、それに、自分が思っているより遥かに不器用で——愛情深いの」

 だから、とイングリッドは続ける。

「勝手な言い分だとわかってはいるけれど、できれば、あの人を救ってあげて欲しい」


 それは、あなたにしかできないから、とイングリッドはひどく哀しげな表情でそう言った。

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