Ch 7. At World's End

37. 北の果て

 目の前にそびえ立つ城は、荘厳だが荒れ果てているように見えた。遠目には白い大輪の花が鮮やかに咲き誇っている薔薇の生垣は、近づいてみれば城壁そのものだった。荊棘いばらが絡みつき、ほとんどその壁がわからないほどに緑と花に埋め尽くされたそれは、奇妙だが、それでもなぜか美しく見えるのがディルには不思議だった。

「前より荒れてるな」

「……ああ」

 呟いたアルヴィードに、ロイが険しい顔で頷く。


 そこは北の果ての街、イェネスハイム。徒歩で旅をしていては間に合わない——ディルの命が尽きてしまう——からと、一つ前の街までイングリッドに転移術で送ってもらってから三日。古く美しい街並みの、その最奥にある城が目的地のはずだったのだが。


「俺が初めて訪れた時も大概だったが、もう少し壁面が見えてたぞ」

「そうなのか? 俺が出ていくときにはもう似たようなもんだったが、あっちの方はもう少し整っていたはずだ。狂い咲きみたいに季節を無視した花が咲き乱れていて、おかしな感じではあったが」

 アルヴィードが指し示した先には、花はなく、何かの草が群生していた。遠目ではよくわからなかったが、ふと、その辺りを目を眇めて見たロイが、はっと息を呑んだ。じっとその草叢くさむらを見つめて、拳をぎゅっと握る。

「ロイ?」

 立ち尽くすその横顔に何か思い詰めた色を見てとって、ディルがその袖を引くと、今度はじっと彼女の顔を見つめてくる。

「……

「何?」

 ただ名を呼ばれたはずなのに、何か違う想いが込められていたように聞こえて首をかしげると、ロイは不意に腕を伸ばしてディルを抱きすくめた。突然のことに思わず身をこわばらせた彼女の耳に、低い声が届く。

「あいつは……あんたを愛してたんだ」

 見上げた青紫の瞳は切ない色を浮かべていた。愛おしさと、それから——後悔、だろうか。自分を抱きすくめている腕に触れると、緩んで解放される。すかさずアルヴィードが彼の胸に引き寄せた。それを見て、ロイが呆れたように苦笑を浮かべる。

「別にそんなつもりじゃねえよ」

「……だとしても——なおさら迷わせるな」

 その声は静かだったが、何か固い決意を感じさせた。近くでため息が聞こえる。

「優しいな」

「皮肉なら聞き飽きた」

 顔を顰めたアルヴィードに、だが返ってきたのは低い笑い声だけだった。それから、ロイは表情を改めて城の大扉に手をかける。だが、その時、静かな声が響いた。


「もうその中には誰もいないぞ」


 振り返ると、先ほど見た草叢の中に、長い黒髪の男が立っていた。黒を基調とした深い青の長衣と黒い外套を纏っている。背はアルヴィードやロイよりは少し低いくらいだろうか。ゆっくりと近づいてくるその人影は、決して細身ではないのに、不思議と体重を感じさせない、軽やかな動きだった。

 見た目はアルヴィードと同じくらいか、むしろ少し若いくらいに見えるのに、夜を映したような、ほとんど黒に見える藍色の瞳に浮かぶ光は遥かに長い年月を生きてきたかのように深い。

「イーヴァル……?」

 驚いたように声を上げたのはアルヴィードだった。その声を聞いて、ロイもまた目を見開く。

「あんたが……」

黒狼こくろうのガキに先見視さきみの小僧か。でかくなったな、二人とも」

「俺はあんたに会った記憶はないが……」

「一度だけ、お前の寝顔を覗かせてもらったことがある。あいつが二度目のをやらかしたときだ」

「あの時、あいつの傷を癒やしたのは、あんただったのか」

 その言葉に、何か心当たりがあったらしい。ロイは驚いたように口元を押さえながらまじまじとそのイーヴァルと呼ばれた青年を見返した。青年は口の端を歪めて、何やら苦く笑う。

「俺のかけた呪いで跳ね返った傷だ。俺以外の誰にも癒せない。あいつは馬鹿だからな。そうと知っていてさえお前を守らずにいられなかったんだろう」


 読めない会話に、口を挟むこともできずにアルヴィードの腕の中で闖入者を見つめていると、その藍色の視線がディルに向けられた。さらに一歩近づいて、間近に見下ろしてくる。自分を抱くアルヴィードの腕に力が込められたことにどこか安心して、その視線を受け止めていると、青年は困ったように笑った。そうして笑うと、奇妙に親しみやすい感じがした。

「お前がディルか」

「……はい。あなたは……?」

「俺はイーヴァル。あいつの——アストリッドの腐れ縁だ。それから、『盟約』の立会人でもある」

「立会人?」


 尋ね返すと、イーヴァルは静かに頷いた。しばらく迷うように視線を彷徨わせていたが、ややして、ちょうどロイがよくそうするように、深いため息をついて、長い髪をかき上げた。


「そこの小僧——いやもう立派なおっさんだが、そいつがアストリッドを脅して世界に呪いをかけさせた経緯いきさつは聞いているな?」

「脅したって……!? 俺はただ……」

「丁寧にお願いした、とでも言うつもりか? あいつがやらないなら自分の命を賭けてでも成し遂げてみせると、そう告げて、あいつが断れないことを——お前の命を惜しむだろうことを、わかっていただろう。それが脅しでなくて何なんだ?」

 その眼差しも声も穏やかだったが、ぞくりと背筋が冷えるような気がした。ロイもまた一歩後ずさったから、きっと同じことを感じたのだろう。イーヴァルは冷ややかな眼差しを向けたまま、静かに続ける。

「とにかくあいつはそれを了承した。そうして俺に立ち会いを頼んできた。一人ではその精度に自信がないと言ってな」

「精度……?」

「『盟約』を破ったものに対して自動的に発動する——そんな広範で予測不可能な発動条件の呪いがそもそも正常に動作すると思うか?」

「えっと……」


 例えば、と青年は続ける。人一人を殺すのに、閑散とした場所にたった一人佇む相手に短剣を振りかざしてその喉首を切り裂くのと、入り乱れる人混みの中で銃で目的の相手だけを殺すのと、どちらが容易だと思う、と。


「……失敗すれば、無差別に呪いが発動しかねない?」

「そうだ。盟約を違えた者に発動しない検出漏れFalse-negativeはまだいい。だが、罪を犯してもいないのに、呪いを負わされる誤検知False-positveは絶対に防がなければならなかった」


 アストリッドは細心の注意を払って、七日七晩、北の果てのさらに向こう、世界のはてと呼ばれるノールヴェストの洞窟にこもり、彼と共にその呪いを織り上げたのだという。


「もともとあいつは膨大な力を秘めてはいるが、制御は不得手だ。あいつが力を振り絞ってかける呪いを望む通りに導くのが俺の役目だった」


 そうして、三百年前、世界に対する呪いが完成した。その精度は高く、盟約を違えた者たちにはいかなる情状酌量の余地もなく呪いが降りかかった。呪いの発動と共に、狩人たちがその命を狙い、万が一にも彼らの魔の手を逃れたとしても、体のどこかに刻まれた黒い文様が、確実にその息の根を止める。心臓まで届く黒い文様は、その意図が明らかで、誰しもが『盟約』とそれに伴う呪いを恐れるようになっていった。


「だが、イングリッドはその呪いが綻び始めていると言っていた。そもそも当の本人がここにいないというのはどういうことだ? のんきに旅にでも出かけているのか?」

 アルヴィードの問いに、イーヴァルは視線を落としてもう一つため息をついた。何かを言い淀む様子に、アルヴィードも顔を顰める。

「あんたがそんな顔をするってことは、余程にひどい状況ことになってるってことか?」

「人をなんだと……だがまあ、当たらずとも遠からず、だな」

 視線をどこかへ向けたまま、イーヴァルはまだ何かを迷う風だった。大切な何かを告げようとして、それでも躊躇う理由があるように。

「イーヴァル、アストリッドは……無事なのか?」

「どう思う?」

 問いかけたロイに向けられた視線はどこか不穏だった。まるで、彼を責めるように——というよりは、そこにははっきりと非難の色があった。ロイはやはり何か心当たりがあるのか、眉根を寄せてその顔を見つめ返す。何か苦い物でも口に含んだような顔で、ゆっくりと言葉を継いだ。


「もし、あいつがもういないのだとしたら、呪いは効果を失うはずだ。だが、ディルにかけられた呪いはまだ進行している。だから、生きてはいる、と思う」

 ロイはややしてまっすぐにイーヴァルを見つめた。

「呪いはまだ生きているのに、新たな呪いが発動しない。それが意味するところは一つだ。誰かが——おそらくはアストリッドが盟約違反の伝播でんぱを防いでいる。だから、呪いが新たに発動しない」

「……なぜ、そんなことを?」

「三年前、あいつが俺の元を訪ねてきた。取り返しのつかないことをしてしまったかもしれないと言いながら、俺に『もしあの子と出会ったら、救ってほしい』とそれだけ言い残して消えた」

 今度はディルに視線を向ける。その青紫の瞳はやはり苦悩を浮かべていたけれど、その奥には確かにディルを愛おしむ光があった。

「それが全てじゃない。確かにあんたの手首に刻まれた刻印が大きなきっかけだったことは確かだ。だが、俺が惹かれたのは、あんた自身だ。あいつの関与など知ったことじゃない。それに——」

 ロイは今度はディルを抱きしめたままのアルヴィードに視線を向ける。

「巻き込まれたというのなら、そいつが最も巻き込まれている。何にせよ、あいつは呪いの発動を知った。そしてそれがディルを——あいつが用意した祝福を捕えたことに気づいた。あいつがかけたもう一つの呪いのせいで」

「祝福の破棄……」

「そうだ。だが、その時になっておそらくあいつはようやく気づいたんだ。人の命は玩具おもちゃじゃない。人の運命を弄ぶ権利なんて誰にもない。何より、自分が愛する者ならなおさらに——」


 ロイは、どこか泣きたいような顔で続ける。その視線はイーヴァルに向けられていた。


「十八年前に黒狼アルヴィードが目覚めた時に分化していたあいつ。そして、ディルがもともと持っていた水を操る魔力ちからと分化したディルのその瞳。それらは全て一つの答えを示唆している」


 最後の黒狼のために用意された祝福の、その本当の秘密は——。


「そこまでだ。その先は、本人の前で話せ」

 言いかけた言葉は、静かな声に遮られた。ディルが何かを問いかける間も無く、イーヴァルの苦い声と共に、景色がぐにゃりと歪む。足元が不確かになったのを感じてアルヴィードの胸にすがりつくと、しっかりと抱きしめられた。

「何があろうとも、お前は俺が守る」

 その言葉に安堵する暇もなく、あたりの周囲の光景がさらに歪んで曖昧になっていく。いつかも体験したようなその酩酊を伴うような浮遊感。


 そして、気がつくと、彼らは見知らぬ場所に立っていた。

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